13(アナグノリシス)
中学時代。卒業式が間近に迫った、ある冬の日のことだった。
もう授業も形だけで、登校してもやることは多くなかった。たくさんあった本もすべて読み終わって、みんな本棚に収められてしまったみたいに。太陽の光は、手のひらでその重さを確かめられるくらい徐々に強くなり、季節は新しい時間をきちんと準備しはじめていた。
誰もが、物語の結末について何かを感じとっていた。ずっと歩いてきた道はもう行き止まりで、どこにも続いてなんていないことを。
そんなある日、教室の後ろにある黒板に、白いチョークで文字が書かれていた。誰が書いたのか、いつ書いたのかもわからない。それは、こんな文章ではじまる詩だった。
〝イタカに向けて船に乗るなら
頼め、「旅が長いように」と、
「冒険がうんとあるように」
「身になることもうんとあるように」と。〟
あとで調べてみると、それは「イタカ」という題名の詩だった。決意と、祝福と、少しの寂しさの混じった詩。書いたのは、コンスタンディノス・カヴァフィス。十九世紀に生まれ、エジプトのアレクサンドリアで下級官吏をしていたギリシアの詩人。
イタカというのは、オデュッセウスの故郷のことだ。彼はトロイア戦争後、『オデュセイア』に書かれているような長い旅をへて故郷に帰還する。詩はその物語をモチーフにしたものだ。
その詩は結局、卒業式当日まで残っていた。さすがにその後は消されてしまっただろうけど、わたしは今でも時々、その詩について思い出すことがある。
――誰が、何のために書いたのかは、今でもわかっていない。
たぶん、クラスメートの誰かが書いたのだろうけど、結局誰も名のり出たりはしなかったし、犯人探しも行われなかった。ちょっとしたミステリーではある。
それでも――
わたしはとても、知りたかったのだ。
誰が、これを書いたのか。何のために、書いたのか。その誰かは、どんな気持ちだったのか。
とても切実に、とても真剣に。
そこにあった、運命みたいなものの正体を知りたくて。
※
夏の夕暮れはまだ遠くて、時間のネジが緩む気配はいっこうになかった。光は大雨が降ったあとみたいにそこら中であふれ、暗闇の訪れを遅くしている。永遠に続きそうな蝉の合唱が、それをあと押ししていた。
部活が終わってみんなが帰ったあと、わたしは一人で体育館に向かってみた。別に、用事があったわけじゃない。忘れ物をしたわけでも、誰かに恋の告白をしに行くわけでも。
ただ――
何となく、予感めいたものはあった。神様のお告げほど確かなものではないにしろ、ちょっとした雰囲気や、仕草を見ることによって。
体育館の扉を開けてみると、夏の脱け殻でも残されているみたいに、中はがらんとしていた。光と影がくっきりした線になって別れていて、それは何だか世界の一面を象徴しているようにも思える。
けっこう遠く、バスケットコート二つ分ほど向こうに舞台がある。道具類はすべて撤去され、何もない舞台に、その人は一人で立っていた。何かの点検をしているのかもしれないし、新しく思いついた構想について考えているのかもしれない。
あるいは――
その人も、何かを待っていたのかもしれない。大昔の偉い哲学者も言ってるとおり、悲劇にはカタルシスが必要なのだから。
わたしはゆっくり、急ぎもせずにそちらのほうに歩いていった。人間が運命から逃げだすことはあっても、運命のほうが人間から逃げだすことはない。それに、大事な登場シーンを台なしにはしたくなかった。
舞台上のその人は、わたしのことに気づいているのか、いないのか、そのままじっとしている。
やがてわたしは、舞台のすぐ下に立った。ここが観客席なら、かぶりつきというところだ。
「――こんなに遅くまで仕事ですか、鹿賀部長?」
と、わたしは声をかけた。
するとその人は、慌てた様子もなくわたしのほうを見た。いつもと同じようにミステリアスで、簡単には思考を読みとることができない顔をしている。きっと、強度の高いパスワードに守られているのだろう。
「ええ、そんなところね。小森さんこそ、どうかしたの。何か用事があったとか?」
「――まあ、わたしもそんなところです」
とわたしは似たような返事をしておく。そのわりには、優雅さに雲泥の差があったような気もするけど。
しばらくのあいだ、わたしたちは黙っていた。体育館は静かだった。世界も静かだった。音のないことが耳にうるさかった。
「……部長に一つ、訊いてもいいですか?」
と、わたしは言った。
「何かしら?」
「今回の脚本を書いたの――正確には編集したのは、先輩なんですよね?」
わたしの質問に、部長はすぐには答えなかった。ややあってから、こんなふうに口を開く。
「どうして、そう思うのかしら?」
さすが鹿賀部長だけあって、一筋や二筋縄ではいかないみたいだった。それでこそ、部長らしいとは言えたけれど。
「その前に、わたしも舞台に上がってかまいませんか?」
すべてのことを説明する前に、わたしは訊いてみた。別に演出を狙ったわけじゃなくて、斜め上を向いたままでいるのが意外なほど疲れることに気づいたからだった。けど、話をするには対等に、同じ地面の高さに立っているほうがいいとも思ったかもしれない。
「もちろん」
と、部長はいつものような如才のない笑顔を浮かべた。
「この舞台が私のってわけじゃないんだし」
許可を得たので、わたしは脇の階段から舞台に上がってみた。
舞台上に立ってみると、海の一段深いところにでも来たみたいに奇妙な感じがした。舞台というのは、誰かに見られる場所なのだ。例えそれが、無人の客席からの、空白の視線だったとしても。
「……ちょっと変な感じですね、ここに立つのは。先輩はこっちのほうがしっくり来ますか?」
役者としての経験に乏しいわたしとしては、部長にそんなことも訊いてみるのだった。
「舞台に立つのはいつも緊張するものよ。慣れることなんてないわね」
部長はとても落ち着いた様子で、そんな言葉を口にしている。
ともかくも、わたしはあらためて部長と向きあった。わたしたちに共通していることといえば、眼鏡をかけているくらいのものだったけれど。
「それで――」
と、部長はあまり緊張している様子もなく言った。
「一体どうして、私があの台本を書いただなんて思ったのかしら?」
わたしは事前に考えていたとおり、順を追って話をした。
「最初に部長のことを疑ったのは、準備室にある脚本の原本を見たときのことでした」
「原本? みんなに渡した台本と、何の違いもなかったはずだけど。特別なところはどこにもなかったはずよ」
「そうです、もちろん内容には違いありません。けど、印刷には違いがありました」
「印刷――」
部長は空中に浮いた風船にでも触れるみたいに言った。
「調べたところ、プリンターには主に染料インクと顔料インクというのがあるそうです」
と、わたしは学習成果を披露した。
「同じインクでも、その二つには原理的に違いがあります。染料インクは、文字通り紙に染みこんで色をつけます。一方の顔料インクは、浸透はせず紙の表面に塗られる形で色をつけます。両者の特性はいろいろあるんですが、その一つは――線の太さに違いが出ることです」
「太さ?」
「染料インクはその特性上、どうしても滲みが出ます。つまり、線が太くなるんです。並べて比べてみればよくわかるんですが、文字でも図形でも線の太さがそれぞれ違います。染料は太く、顔料は細い」
今度は、部長は何も言わなかった。もしかしたら、気づいたのかもしれない。だとしても、打ち上げ花火みたいにそれを示す部長ではなかったけれど。
「さて、ここで台本のことに戻ります。わたしたちの台本と違って、原本のほうは線が細かった――つまり、顔料インクで印刷されたということです。準備室にある複合プリンターは染料インクのほうだったので、コピーされた台本は線が太くなりました」
「…………」
「もちろん、すべてを秘密にしておくためには、疑われるようなことは避けなければなりません。日時の残る元データをパソコンに残したり、学校のプリンターを使って印刷したり――誰に見られるかわかりませんからね」
現に、コピーしているところは久瀬先輩に目撃されてしまったわけである。
「つまるところ、あの原本は学校以外の場所で、例えば自宅なんかで印刷されたと考えるのが自然です。それでわたしは、昔の脚本を調べてみました。同じような種類のものがないか、確認してみたんです」
「それが、私の書いたものだった?」
訊かれて、わたしはうなずく。たぶんそれは、あの時久瀬先輩が口にしかけたことでもあった。よく脚本を担当するだけに、久瀬先輩はもしかしたらと思ったのだろう。準備室で、部長に台本のオリジナルを渡されたときに。
けれど、それから部長は首を振った。鑑定人が、宝石の瑕疵を指摘するみたいに。
「もしもそれだけで私のことを疑っているなら、ちょっと無理があるんじゃないかしら?」
「確かに、それだけじゃ証拠としては弱いかもしれません」
と、わたしは逆らわなかった。
「その辺に審判役のコロスがいたら、いろいろと文句をつけるかも。けど、傍証や出発点の一つとしては、これで十分です」
「つまり、ほかにも何かあるということ?」
「――もちろん、あります」
言ってから、わたしはあらためて頭の中を整理した。わたしの脳みそは、それほど高性能じゃないのだ。麓から山頂まで、一気呵成に駆けあがるなんてまねはできない。
「ヒントは、脚本そのものの特徴にありました」
と、わたしはやがて言った。
「この脚本には、かすかな違和感がありました。ストーリーはともかく、セリフのつながりに所々、不自然な箇所があるんです」
もっとも、これは椛ちゃんに教えられたことではあるのだけど。
「なかなか鋭い洞察だけど、それがどうしたっていうの? 何しろ相手は古代ギリシアの精華みたいな、それも六十代の詩人作家が書いたものなのよ。一介の高校生には、荷の勝ちすぎる問題だわ」
「そうかもしれません。でも、違和感の正体は少し違うものだったんです」
「どんなふうに違うというの?」
「わたしが一番最初に言ったとおりです。書いたんじゃなく、編集した」
部長は言葉を挟まなかった。わたしはそのまま続けた。
「それが、セリフのつながりに対する違和感――熔接部分や、古いゲームのポリゴンに対する、一つの答えでした」
「ゲームのポリゴン?」
「その比喩表現については忘れてください」
話が横道にそれそうだったので、わたしは軌道修正した。
「ともかく、わたしはこう考えたんです。この普通じゃない違和感の正体は、訳文をそのまま切り貼りしたせいなんじゃないか、って」
あくまで椛ちゃんの勘を信じるなら、の話ではあったけど。
「それでわたしは、すべての訳文に関して調べてみました。出版されていて、参照可能なものについてはすべて、です――けど、まったく同じ翻訳というものは見つかりませんでした。どれも微妙に細部が異なっている」
「だとすると、小森さんの仮説は間違っていたことになるわね」
「――かもしません。でもわたしは、仮説をもう一歩先に進めることにしました」
「一体、どこに進もうっていうの? 袋小路の先には、道なんてどこにもないのよ」
「現実は理屈より混沌としたものです。だから場合によっては、塀の上だって歩くことができます」
「…………」
「わたしはこう考えました。世界のどこかには、本になってない『アガメムノン』の翻訳だってあるはずだ、って――」
部長はやっぱり、無言だった。でも、その表情は変わっていない。舞台役者が仮面によってキャラクターを演じわけるみたいに。
「一種の〝私家版〟としての『アガメムノン』。さすがに、一介の高校生にそんなものを作るのは不可能です。なら、それはどこにあったのか? それが手に入るとしたら、どんな経緯でか? もっとも自然なのは、身近な人間――両親や身内の人間が書いたもの、ということじゃないだろうか?」
わたしはいったん言葉を切ってから、こうつけ加えた。
「そこからは、簡単でした。いわゆるアナグノリシスってやつです」
認知とか発見を意味する言葉だ。本人の飼い犬が死んだり、足の傷に気づいたり、弓を引いたり、寝台の秘密を知っていたりして、その人の素性が明らかになる。劇中ではけっこう重要な場面として使われることになる要素だ。
もちろん、部長にはそんなことを説明するまでもない。
「今の時代は便利ですよね。ネットで何でも簡単に調べることができます。鹿賀という名字の西洋古典者がいるかどうかだって――」
そう――
もしも以前から興味があったのなら、そのことにもっと早くから気づいていたとしてもおかしくない。ちょっとストーカー的ではあるけれど、好きな人の家族がどんな人なのか、といったことについては。
あの時、宮坂くんが見ていたのは、椛ちゃんじゃなくて、鹿賀部長のほうだったのだ。視聴覚室での立ち稽古の時に。当然、彼は『アガメムノン』と部長のつながりについては気づいていたはずだ。いつもより熱心に、原典について調べることだってしただろう。
とはいえそれは、宮坂くん個人の問題だった。わたしはどこかの金と鉛の矢を持った神様じゃないし、恋の手引きをするほどお節介な人間でもない。
そして今のところ、それはまったくの別問題だ。
「たぶんお母さん、なんですよね? 講演の写真もありました。先輩によく似ています。――
部長は長いこと黙っていた。あるいは、短かったかもしれない。わたしは舞台上にいることが気にならなくなっていた。もしかしたら、何かの役になりきっていたのかもしれない。
やがて、鹿賀部長は言った。
「ええ、『アガメムノン』の脚本を書いたのは、確かに私よ――」
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