4(電車を待ちながら)

 ある日、学校からの帰り道のこと。わたしはたまたま、駅のホームで部長と顔をあわせた。

 午後のホームには、学生がちらほらいるほかに人の姿はない。世界はまだまだ昼の暑さと明るさで、蝉の鳴き声だけが盛大に響いている。毎年飽きもせずに夏を歓迎するのは、蝉くらいのものだった。

 部長はホームのベンチに座って、涼しい顔で本を読んでいた。心頭滅却すれば、というやつだろうか。もしかしたら、あの辺にだけクーラーが効いているのかもしれない。

鹿賀かが部長、帰りですか?」

 と、わたしは声をかけてみた。

 部長は慌てることもなく、本を開いたままゆっくりした動作で顔を上げた。楚々とした、というのだろうか、鹿賀部長の動きにはいつもながらに古風な趣きがあった。

「ええ、そうよ」

 と部長は如才なさの見本みたいな笑顔を浮かべる。

「小森さんも帰るところ?」

「そうですよ。珍しいですね、ここで部長と顔をあわすのって。部長の家ってこっちのほうなんですか?」

「沿線の、美早みはやってとこ」

「じゃあ、わたしより少し遠くですね。わたしが降りるのは、一つ前の駅ですから」

 言ってから、わたしはちらっと駅の時計を確認した。次の電車が来るまでは、もう少し時間がかかる。

「――隣、座ってもいいですか?」

 わたしは訊いてみた。

「もちろん、このベンチが私のってわけじゃないんだし」

「では、失礼します」

 よっこらしょ、という感じでわたしはカバンを抱えて部長の隣に腰を下ろす。さすがに掛け声までは出さなかったけど、似たようなものだった。残念ながら、乙女チックなのはわたしの本分ではないのだ。

 そんなわたしの隣では、古典絵画の肖像みたいな落ち着きで鹿賀部長が座っていた。

 鹿賀部長は、いかにも仕事のできる才媛、という感じの人だった。というか、感じだけじゃなくて、実際に仕事ができる。それも、無駄なく無理なく有能、というタイプの人だった。

 ポニーテールの髪は、くくっているというよりも、結っているというほうが近い雰囲気。フレームの細い眼鏡をかけて、ちょうど紅葉でも散らしたみたいな雀斑をしている。すごい美人というわけじゃないけれど、理知的でどこかミステリアスなたたずまいをしていた。ちなみに、下の名前は真穂まほという。

「小森さん、試験の結果はどうだったの?」

 本に栞を挟んで閉じてから、部長は訊いてきた。そういう何気ない動作でも、鹿賀部長がすると、礼儀にかなっているみたいに見える。

「まあまあでしたよ」

 わたしはいつぞや母親に向かって答えたのと同じ言葉を口にする。

「少なくとも、数学と生物と英語と日本史と化学以外に関しては」

「あと、何があったかしら?」

「国語だけは、何故か得意なんです」

 と、わたしは胸をはって答えておいた。

「何となくわかるわね」

 鹿賀部長はくすっと笑った。綿百パーセントの布を丸めたみたいな、柔らかな笑顔だった。

「部長のほうは、どうだったんですか?」

 当然の礼儀として、わたしは質問を返した。

「うーん、私のほうもまあまあってところね」

 部長は自然な笑顔を浮かべて言う。たぶん、その通りなのだろう。ここは聞き返すだけ野暮というものだった。

「ところで、何の本を読んでるんですか?」

 わたしは部長の膝元に置かれた文庫本を見ながら訊く。

呉茂一くれしげいちの『ギリシア神話』」

 と部長はその表紙を見せながら言った。

「舞台をよく知るために、読んでおこうと思って」

「ふうん」

 わたしは好奇心からその表紙を眺めてみる。たぶん、当時の彫刻画なのだろう。不自然に顔をこっちに向けた、ちょっとアルカイックで不気味なレリーフの写真が載せられている。ちなみに、下巻のほうだった。

「部長に一つ、訊いてもいいですか?」

 せっかくの機会なので、わたしは例の疑問について訊いてみることにした。

「ええ、何かしら」

「どうして今度の舞台、『アガメムノン』なんです?」

 わたしが訊くと、部長は何となく困ったような顔をして文庫本を膝に戻した。その表情の変化は、紙の厚さが数ミクロン単位で違うくらいのものでしかなかったけれど。

「小森さんは、この劇に不満があるのかしら?」

「そうじゃないですけど、ただ気になったんです。何というか――チョイスとして」

「チョイスとして、ね」

 部長は珍しい石でも拾ったみたいに、その言葉を復唱した。

「そもそも、この舞台が決まった経緯ってどうなってるんですか? 部長が決めたんですか?」

「決めたのは私だけど、提案したのはある部員よ」

「ある部員って、うちの――演劇部のってことですよね」

 当たり前の話ではあったけど、部長はうなずいた。

「それって誰なんですか?」

「本人から口止めされてるから、それは教えられないわね」

 ずいぶんな話だったけど、鹿賀部長が教えられないというからには、いくら質問しても無駄だろう。そんなのは、新聞紙を畳んで月に届かそうとするのと同じくらい、無益な行為でしかない。わたしは質問を変えてみた。

「脚本を書いたのも、その人なんですか?」

「――おそらく、そうでしょうね」

 あまり詳しく聞いてはいないのか、部長の言葉は曖昧だった。

「誰なのか、ヒントだけでももらえませんか?」

 わたしは乙女チックに哀願してみた。けど、

「約束があるから、それはできないわね」

 と、部長はにべもない。

「そんな、わたしと部長の仲じゃないですか」

「どんな仲かしら?」

「演劇部の優秀な一員としてがんばってるんですよ」

「この前の劇でセリフを丸々飛ばしちゃったこと、忘れてないわよ」

「それは忘れてください」

 通信教育で催眠術でも習っておくべきだったな、とわたしは後悔した。

「じゃあ、同じ眼鏡ので……」

「そんなはないわね」

 当然だけど、部長はそんなで懐柔されたりはしなかった。

 わたしは部長攻略の手立てを失って、口を閉ざしてしまった。夏の暑さと蝉の声が、急にあたりに戻ってくる。そろそろ電車の来る時刻だった。

「部長は、今度の劇に賛成なんですか?」

 と、わたしは最後に訊いてみた。

「もちろん、そうよ」

 鹿賀部長はカバンの中に、文庫本を丁寧にしまいながら言った。まるで、古代の貴重な遺物か何かみたいに。

「でなきゃ、やろうなんて言ったりはしないでしょうね」

 線路の消失点の向こうから、かすかな音を立てて電車が姿を現していた。部長は優雅な動作でベンチから立ちあがりながら、スカートの裾を直している。

「……そりゃ、そうですよね」

 部長と比べると未開人みたいに無造作に立ちあがって、わたしはそうつぶやいていた。

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