2(『アガメムノン』)

 家に帰ると、さっそくテストの点数について訊かれた。

「――まあまあだった」

 とわたしは曖昧に答えておく。自慢じゃないけれど、わたしの頭の出来はそんなによくない。壊滅的とは言わないけれど、進んで人に吹聴するほどじゃないのだ。

 どうせ、あとでしつこく訊かれるだろうけど、今はこれで済ませておくつもりだった。それに脳みそなんて親譲りなんだから、それほど文句はつけられないはずだ。ギリシア悲劇ほどじゃないにしろ、これも一種の呪われた血縁というやつかもしれない。

 部屋に戻る前に、冷蔵庫の中身を確認する。とっておいたアイスを食べるつもりだった。

 ところが、豈図らんや、アイスはどこにもなかった。お気に入りのチョコバナナ味で、数日前からこの日のために準備しておいたというのに。

「……ねえ、わたしのアイス知らない?」

 と、冷凍庫をのぞきながら、お母さんに向かって訊いてみる。

「あら、それだったら清秋きよあきが食べちゃったわよ」

 さも当然のことのように告げる母。

「いやいや、注意してよ。あれ、わたしのなのに。確かそう言ったよね?」

「言ったかしら?」

 実に慰められる言葉だった。

「あれがなくなっちゃったら、わたしはこれからどうすればいいわけ――?」

「大げさね、アイスくらいで。それくらい、人に譲る度量はあるでしょ」

「それは時と場合によるし、今はその時と場合じゃない」

 台所でそんなやりとりをしていると、ちょうど問題の人物が現れた。不本意ながら、血縁上はわたしの弟にあたる人物だ。ちなみに、生意気ざかりの中学三年生。

 わたしがアイスのことを詰問してみると、「名前でも書いとけ」の一言だった。別にマスコミ各社を呼んで謝罪会見を開けとは言わないけれど、これはあんまりだ。短気な王様なら戦争を起こしてもおかしくない。

 いたく機嫌を損ねたまま、わたしは自分の部屋に向かった。現実なんて、いつもこんなものだ。そこにはギリシア悲劇的な要素なんて、どこにもない。

 部屋のドアを開けると、ベッドにタンス、机が目に入る。ピンクのクッションや鏡台といった、申し訳程度に女の子らしい装飾。いつも通りのわたしの部屋だった。別に薔薇色の大理石や凝った形の壷が置いてあるわけじゃない。

 さっさと着替えて、わたしは机の前に座った。カバンから、例の台本を取りだす。


 ――アイスキュロスの『アガメムノン』。


 二千五百年以上も前の、古代ギリシア悲劇。

 白いコピー用紙に印刷されたその台本を、わたしは丁寧に一ページずつ目を通してく。

 ――舞台ははじめ、ある見張り番の独白で幕を開く。その見張り番は、王の帰還を告げる松明の火を待っている。長の年月に飽きあきした男のセリフ。そしてとうとう、はるか彼方に一つの光が見える。

 場面はちょっと変わって、今度はアルゴスの街の長老たちが姿を現す。王の不在を、遠い戦争の不安を嘆く長老たち。語られる戦火の発端と、そこでなされた不吉な予言、王の娘の儚い犠牲。

 やがて、王妃クリュタイメストラが登場する。彼女が、王殺しにして夫殺しの犯人だ。けれどこの時は、見張り番の報告を伝え、言葉優しく王の帰還を祝う。長老たちはなおも戦争の疲弊を語り、長年の苦しみからその報告を疑ってかかるが、ほどなく王の到着を告げる布告使が登場する。

 布告使は戦争の苦難や、その成果を語る。結局のところ、勝ったのは彼らなのだ。けれど長老たちの疑懼や悲嘆が完全に拭われることはない。

 それから、とうとうアガメムノンが登場する。戦果を言祝ぎ、無事の帰郷を喜ぶ王。王妃クリュタイメストラも現れ(ここまでで、けっこう人の出入りがあるのだ)、王を祝賀する。彼女は言葉を巧みに操って、神々のみに許された緋色の織物の上を歩くよう、王を説得し、それに成功する。

 二人が退場したあと、王が連れてきた女奴隷、カッサンドラと長老たちのやりとりが行われる。カッサンドラは予言者だけど、アポロンの呪いによってその言葉は誰にも信じられることはない。ともあれ、彼女は王の呪われた血筋と、その死、そして自らもまた殺されることを予言する。さらには、この復讐劇の続きをも。

 カッサンドラが館に消えると、すぐにアガメムノンの断末魔が聞こえる。慌てふためく長老たちとは対照的に、冷酷なまでに落ち着きはらった王妃クリュタイメストラが、二つの死体を伴って登場する。

 そして彼女は告げる。勝利の凱歌を、復讐の正当を。娘の犠牲、王の不義、一族の悪業。王の死に動揺する長老たちを嘲笑うような、クリュタイメストラのセリフの数々。

 それからもう一人の黒幕、アイギストスが登場する。血の因縁に彩られた、呪われた子供。彼は王妃と密通し、今日の企てに参加したのである。長老たちを罵り、ついには剣の柄に手をかけたところで、王妃がそれを諌める。二人がアルゴスの僭主となったところで、舞台は幕を閉じる――

 台本を読み終わったところで、わたしはずいぶん深々とため息をついた。荘厳なセリフ、血なまぐさいやりとり、逃れられない血の運命。

 つまり、古代ギリシア悲劇だった。二千年以上もの時間を生きながらえ、書きつがれ、読みつがれてきた物語。

 台本は実際のもののセリフを三分の一程度に圧縮しているそうだけど、ストーリーに手は加えられていない。その暗澹や凄惨、苛烈さについては。

 特にクリュタイメストラの迫力がすごかった。堂々と復讐を嘉する、神をも恐れぬ女。彼女の悲しみ、嘆き、憤り――

 古代のギリシア人というのは、ちょっと変わった人たちだったのかもしれない。でないと、こんな物語を好きこのんで演じたり、観たりなんてしないだろう。

 だから、というわけではないのだけど――

「…………」

 わたしは何の面白みもない天井を見上げて、さっきとは違う種類のため息をつく。わたしにはやっぱり、疑問だった。何でまた、『アガメムノン』なんだろう?

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