1(演劇部)
――演劇部の次回公演演目が『アガメムノン』だと告げられたのは、七月半ばのテスト期間明けでのことだった。
「アガメムノン?」
と、一年男子の
とはいえ、気持ち的にはわたしも同じだった。意外な科学実験でも見せられたときみたいに、戸惑いに近い疑問が湧きあがっている。
けど少しだけ違うのは、わたしの場合は「アガメムノンて、何?」じゃなくて、「何で、アガメムノン?」ということだった。
――それが何なのか、わたしは知っているから。
「ポケモンに、そんなのいませんでしたっけ?」
と、沢樹くんは言った。なかなかに率直な子なのだ。
「それはたぶん、アンノーンね」
部長は隙なく答える。
うちの高校では、演劇部に専用の部室はなくて、活動は放課後の視聴覚室を間借りしている。特に歴史も伝統もなくて、人数が年度ごとにころころ変わるせいだ。こういうのは宿命なので、仕方がない。
視聴覚室は床がカーペットになっていて、固定式の机とイスが並んでいる。前方にやや開けた空間があって、木の床が少しだけ迫りだしていた。想像力を働かせれば、ミニチュアの舞台に見えなくもない。練習にはなかなか都合のいい環境なのだ。
その舞台には今、部長が一人で立っていた。八人いる部員は全員、近くの席に座っている。各自に台本が配られていて、そこには「古代ギリシア悲劇 アガメムノン」と題名が書かれていた。
もちろん、原作者の名前も。
「アイスキュロスは、古代ギリシアにおける三大悲劇詩人の一人よ」
と、部長は台本を片手にしながら説明した。
「アガメムノンは彼の書いた作品の一つ。ちなみに、三大悲劇詩人のほかの二人が誰だかわかる人はいる?」
こういう場合、往々にしてそうであるみたいに、答える人間は誰もいなかった。これも一種の宿命かもしれない。
「――ほかの二人は、ソポクレスとエウリピデス」
仕方ない、という感じで部長は言った。
「彼らが演劇の原型を作ったんだから、私たちの大先輩といってもいいかもしれないわね。演劇に携わるものとして、それくらいは知っていてもいいんじゃないかしら? それに一年の時、世界史の授業でちゃんと習ったはずよ」
「ためになる話でけっこうだな」
「けど、歴史の勉強はともかく、どんな話なんだ、このアガメムノンてのは」
先輩はいかにも言いにくそうに「アガメムノン」と発音した。気持ちはよくわかる。
「――アガメムノンはアイスキュロスの最晩年の作品よ」
と、部長は気をとりなおして説明を続けた。
「三部作の、第一作にあたっているわ。アガメムノンは神話に登場する王の名前。トロイア戦争は知ってる? 絶世の美女、ヘレネを巡ってギリシアとトロイアのあいだで起こった争いのことよ。映画にもなってるわね。ブラッド・ピットが主演で。といっても、役はアキレウスのほうだけど」
「その戦争とアガメムノンに何の関係があるんですか?」
一年の
「――確か、ギリシア方の総大将ですよね」
気づくと、わたしはふと口にしてしまっていた。でしゃばるつもりはなくて、ついうっかりしたのだ。
「何だ、知ってるんじゃない」
と部長は意外そうな顔をした。もちろん、普段のわたしに古典の素養があるようには見えないだろうから、当然の話ではある。
「
部長は時計の針を戻すみたいにして、再び説明をはじめた。
「それは彼が、奪われたヘレネの夫だった、メネラオスの兄だったから……。けどこの戯曲は戦争の話じゃなくて、その後のお話よ。英雄アガメムノンは、故郷の地に帰ってから、その妻に殺される――」
「は? 何でですか」
わたしの隣で、ちょっと抗議でもするみたいに
「理由を説明すると長くなるわね。祖先から続く呪われた血の因縁ということもあるし……。ただ直接的な動機は、娘を殺されたせいね。二人の娘、イピゲネイアはトロイア戦争の折に、船を出すために必要だった風呼びの儀式のため、人身御供にされてしまうの」
「子殺しに、夫殺しってことですか」
椛ちゃんは軽く肩をすくめてみせる。肩をすくめるくらいで済む話でもないんだけど、彼女がそうすると変な説得力があった。
「そうね、その辺はギリシア悲劇の特徴ってとこかしら」
部長は重々しくうなずいてから、部員みんなに向かって話しかけた。
「とにかく、今年の文化祭――凪城祭の演劇部舞台はこれで行きたいと思います。もちろん、異論や希望があればいつでも受けつけます。決定は一週間後。それまで、各自で台本をよく読んでおくように」
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