第9話 夢で逢えたら
私とレイさんはお互いの少しだけ情けない実情を暴露し合い、一緒に笑ったことで、一気に距離が縮まったように感じた。それと同時に残念な男性の話ばかりだったのでマスターとの物理的な距離はいつの間にか離れたようにも思えた。
それから二人で飲み始めて、どれだけの時間が経ったろうか。張りつめていた気持ちはゆっくりと緩んでいき、それに合わせて酔いが深くなっていき、眠気も強くなってきた。
「そろそろ帰らないと――」
そう口にするも、意識も視界もぼんやりとしてしまう。
「お姉さん、大丈夫?」
「大丈夫ですって。私はもう大丈夫です」
それは本心からの言葉だ。失恋で沈み切っていた気持ちはレイさんと話したりしたことで、ずいぶんと楽になった。私はちゃんと前を向いて歩いていける。
それに今もちゃんと私は自分の足で立って、歩いている。
それから暗闇の中で座り、心地よい振動に身を任せていると、眠気は深くなる。
家に着いて扉を開け、いつものように玄関の電気に手を伸ばす。部屋の電気はすぐにでも寝たいので点けなくても問題ないだろう。服を着替えて、化粧を落として、シャワーを浴びて――だけど、今はそのすべてが面倒くさい。だから、床に落とすように鞄を置き、真っ直ぐにベッドに向かい、横になった。
そのまま酔いと眠気が体を脱力させ、自分が起きているのか眠っているかのさえ分からない曖昧な感覚のなかで、人の気配を感じた。
近づいてくる足音にため息を吐いたような息遣い。それからすぐにベッドが沈みこみ、自分ではない他人の存在を身体で感じる。そのなかで、嗅ぎなれた煙草の匂いがした。
「帰ってきてくれたんだね……」
きっとこれは夢だ。もう彼がこの部屋に帰ってくることはないと私はちゃんと理解している。だけど私は、思い出の中にしかもういない彼に涙を流しながら夢の中ですがり付く。
「私を一人にしないで……」
夢の中だとしても、自分の気持ちをちゃんと言えたことに満足する。だからだろうか、夢の中で彼は付き合いたてのころのように優しく、何度もそっと顔に触れたり、頭を撫でてくれたり、体に触れたりしてくれる。
それがとても嬉しくて、幸せで。私は多幸感に包まれながら、意識を深く沈ませていった――。
目を覚ますと同時に私は異変に気付いた。自分のではない寝息が聞こえてきて、柔らかく暖かい人のぬくもりを感じた。
朝の柔らかな光に包まれた部屋の中でそっと体を離してみると、緩めたワイシャツに下着姿のレイさんがぐっすりと眠っていて、私はそんなレイさんに抱き着くように眠っていた。
どうしてレイさんが隣にいるのか分からないし、こんな状況になっているのか分からない。
この現状に戸惑いを感じるが同時に、レイさんの体温を感じると一人じゃないと思えて安心できる。レイさんにもう一度体を寄せ、起きた時と同じレイさんの胸元にそっと頭を近づける。服につく煙草の匂いは彼と一緒なのに、体臭の差か服の洗剤の違いか、レイさんからは甘い匂いがする気がする。それが今はとても心地よくて安心できる。
だからか、私は抱きつく腕にそっと力を込めた。
「うぅん……」
レイさんの声が漏れ、そっと顔を上げレイさんの顔を覗き見ると、ゆっくりと目を開けた。抱き合って朝を迎えるという甘やかなシチュエーションにどうしようもなく照れてしまう。そんなことを思っていることを悟られたくなくて、顔をレイさんの体に押し当てるように
「お姉さん。起きてるなら、体起こしたいから離してもらえませんか?」
レイさんは私の背中をポンポンと軽く叩きながら、静かで優しい声で口にする。きっと私が起きていることにも気付いているに違いない。体をそっと離して、ベッドの上にだらっと座る。そして、自分のだらしない格好に目が行く。昨日、出掛けに羽織ったコートは脱いでいたがシャツはそのままでボタンが上から三つほど外され、下着が完全に見えていた。さらにはお腹周りが楽だなと感じて視線を落とすと、スカートのホックだけが外され緩められていた。無意識のうちに自分でしたのか、レイさんにされたのか分からない。もしレイさんにされたのなら少しだけ恥ずかしい。
レイさんも体を起こし私と向き合うようにベッドの上に座る。
「あの、これはどういう……酔ってて、どうやって帰ったかも分からなくて」
「酔いつぶれていたから、私が送ったんだよ。それでお姉さんが離してくれなかったから、仕方なく泊まったのよ」
「ごめんなさい! なんだか知らないうちに迷惑かけたみたいで……」
座ったまま、頭を大きく下げる。
「気にすることないから、顔をあげて」
レイさんの言葉に従って、素直に顔をあげる。レイさんは膝が当たる距離まで座ったまま近づいて来て、至近距離で顔をまじまじと見つめてくる。
「明るいところであらためて見ると、お姉さんすっぴんでもかわいい顔してるね。肌も綺麗だし」
「えっ!?」
思わずのけぞるように距離を取り、自分の頬に手を触れる。たしかに化粧は落ちていて、しかし、レイさんのシャツやベッドのシーツに化粧の色移りはしていない。自分で落とした記憶もないので、きっとレイさんがベッド脇に置いてあるクレンジングシートを使って落としたのかもしれない。
もしそうだとすると、夢の中での感触だと思っていたことが実は全部リアルだったことになる。そう思うと、途端に恥ずかしさで耳まで熱くなってしまう。
そんな私の考えていることを見透かしているのか、レイさんは優しさと悪戯っぽさが同居したバーで何度も見た笑顔で笑い出した。
「それで、二日酔いとかは大丈夫?」
ひと笑いしたレイさんに尋ねられ、「少しだけ頭が痛い……かもです」と正直に答えた。
「そっか。じゃあ、コンビニで水と二人分の朝ご飯を適当に買いに行ってくるね。ここに来る時に近くにあったの覚えてるし、お姉さんはゆっくり休んでて」
レイさんはそう言うとベッドから立ち上がり、シャツのボタンを留め直し、床に落としていたパンツを拾い上げ、長く細い足を通している。その姿があまりにも絵になるなと思わず見惚れてしまう。それと同時に、これ以上レイさんに迷惑をかけるわけにはという気持ちが
「わ、私も行きます!」
そうとっさに口にしたのはいいものの、化粧をしてないことを思い出し、マスクと
そして、私とレイさんは財布とスマホなどの最低限のものだけを手に一緒に家から出た。
こうやってまた誰かと一緒に買い物に行く日がすぐに訪れるなんて思っていなかった。それが嬉しいようなもどかしいような不思議な気分だった。昨日の夜まであんなに沈んでいた心はフワフワとしていて、足取りも軽く、そのまま知らない間に地面から足が離れてしまいそうなほどだった。
まるで付き合いたてのカップルのようだなと私はひとり、笑みをこぼしていた――。
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