第5話 初めての煙草は少しの悪戯と共に

 溶けた氷で薄くなったカクテルを飲み干し、次は何を飲もうかとメニューに目を落とす。私はビールやワイン、日本酒などはさほど好きではない。美味しく飲めるのは芋焼酎か居酒屋のメニューにもあるような甘いカクテルくらいだ。リキュールの一覧を眺めながら、自分でも頼めそうなものをと探していると、


「ねえ、お姉さんも煙草吸うの?」


 と、レイさんに話しかけられた。今までの人生で煙草絡みで話を振られるということを経験したことがないので、話しかけれたのが自分なのだとすぐに気付けなかった。


「えっと、私……のことですよね?」

「そうだよ。女の人で煙草を吸ってる人自体、多くないのに、さらに吸ってる銘柄が赤ラークとなるとまず見たことないからね」

「そうなんですか?」


 どこか噛み合わない会話にレイさんは首を捻る。レイさんが不思議そうな表情を浮かべるので、客観的に見れば封の開いた煙草を所持している私は喫煙者に見えてしまうのだろうなと、今さらになって気付かされる。


「すいません。これ、私の煙草じゃないんです」

「そうだったんだ。それでお姉さんは煙草は吸う人?」

「いえ、人生で一度も吸ったことないです」

「そうなの?」


 レイさんは今度は驚いた表情を浮かべ、その直後に口元に小さく笑みを浮かべている。


「じゃあ、モノは試しってことで、一本だけでも吸ってみない?」


 その言い方が、このスイーツ美味しいからひとくち食べてみなよ、と同じくらいの気軽さで、つい一本だけならという気になってしまう。

 煙草の箱を手にして、つまむように一本取り出す。今までどれだけ目の前で吸われても、吸ってみたいと思ったことすらなかったものを見つめながら、覚悟を決める。

 ゆっくりと口にくわえると、それだけで煙草の苦みが口の中にわずかに広がっていく気がした。そこで重大なことに気付いた。火を点けるものを持っていないのだ。煙草を口から離し、レイさんに視線を向ける。


「どうかした?」

「あの……火を点けるものを持ってなくて」

「ああ、そういうこと。私のライター貸してあげるよ」


 そう言いながらレイさんは自分のライターをそっと手渡してくれた。しかし、それを受け取って私は困ってしまった。よく見るライターとは違っていたのだ。私の中でのライターといえば、コンビニや百均で売っているような使い捨てのライターだ。それ以外では彼が使っていたジッポライターくらいだが、私の手に今あるのはそのどれとも違うモノトーンな色調のシンプルで綺麗なメタル加工のライターだった。

 ふたをとりあえずゆっくりと開けてみるも、どこを押したり回したりすれば火が点くのか分からない。側面に回る円筒状のものが付いているので、きっとこれが火を点けるための仕組みなのだろうと思い、試しにそれを押してみたりゆっくり回してみるも、火が点く気配はなかった。

 そんな私の悪戦苦闘する姿を見てレイさんはクスクスと笑い始める。あろうことか、マスターまでも笑うのをこらえているようだった。

 レイさんは鞄からポーチを取りだし、そこから使い捨てのライターを取りだして、私に差し出してきた。なんだかあの謎のライターを点けられなかったのは負けた気分になるが、今はそこは重要ではない。

 最初に借りたライターを返し、使い捨てのライターを受け取る。受け取ったライターはよく見るただ押せば火が点くライターではなく、フリント式と呼ばれる回転式のヤスリを指でこすって火を点けるタイプのライターだった。

 だけど、これなら火を点けられると思い、煙草をくわえ直し、ヤスリに指を置いて火を点けるために滑らすも火花すら出なかった。勢いが足りなかったのかなと思い、二回目はさっきより強く指を押し込むように強くヤスリを回転させるも、今度は火花が出ただけで火は点かなかった。

 そこでレイさんはこらえきれなくなったのか、声に出して笑い出した。笑われてもおかしくない状況だけど、なんだかに落ちないというか釈然としない気持ちになる。だからか、むすっとしてしまい、抗議の意味を込めて無言でただ見つめる。レイさんはそんな私の視線を受け止める。そして、何かを思いついた表情を浮かべるので、少しだけ警戒感を高める。


「そうだ、お姉さん。ライター使わなくても煙草に火を点けられるよ?」

「そんなことできるわけ――」

「できるよ。だまされたと思って、煙草くわえてよ」


 レイさんに言われるがまま、煙草をくわえ直す。顔をあげると、レイさんは隣の一つ空いていた席に吸いかけの煙草を指に挟んだまま移動してきて、近い距離で真っ直ぐに見つめられる。レイさんの顔を正面から見つめ直すと、切れ長の目にそれをうまく活かすメイクがされていることに気付ける。まつ毛はきっと地毛で長く綺麗で、それ以外にも鼻筋は通っているし、口は小さめで整った顔をしているなと改めて気付かされる。

 そんなことを思っていると、レイさんは自分の煙草をくわえて、キスをする要領でそっと顔を近づけてきた。そして、口元で煙草を指で支えたまま、そのまま煙草の先端でそっとキスをする。

 突然のことに驚いて、強く息を吸ってしまう。そのことで私の煙草に火が点き、それと同時に煙が口の中に広がり、空気と一緒に肺に到達する。舌と喉と胸が同時に痺れるような感覚がして、思わず煙草を口から離して咳き込んでしまった。何度も咳き込んでいると涙まで少し出てきて、さっきまでと違う苦い涙に思わず何をやってるんだろうと苦しみの中で思ってしまう。

 レイさんは隣の席で煙草片手にケラケラと明るい表情で笑っていて、さっきの行動に悪意があったのかも読み取れない。恨めしい気持ちをわずかに込めて視線を送ると、


「お姉さんみたいなかわいい人には煙草は似合わないよ」


 優しくさとすようにレイさんは口にした。そのことにドキリとしてしまうが、からかわれて笑われたままでは悔しかった。それにここで踏みとどまっていては、私は前に進めない。また上手くいかない場面になっても、自分の気持ちを押し殺して、後悔して今と同じように泣くのだろう。

 だけど、煙草を吸えば、変われるかもしれない。変われなくても、少し前の自分とは違う自分になれる気がした。

 煙草を口にくわえ直し、レイさんの「無理はやめなよ」という言葉を聞かないふりをして、もう一度だけ煙草を吸ってみた。二度目もやはりむせてしまい、一度目よりも口の中に苦みが残り、うえっと、えずいてしまいそうになる。

 急いで飲み物に手を伸ばすが、運悪く飲み切ったタイミングで氷が溶けて溜まったわずかな水分しかなかった。焦って困っていると、そっとレイさんは自分の飲みかけの酒を私に渡してくれる。恵みの水だと思い、ぐいっと飲むがアルコールの度数が高いのかまたしてもむせてしまう。

 その全てを見ていたマスターが慌てて、水を出してくれて、いっきに飲み干すも口の中の不快感と舌の端に感じる痺れは消えてはくれなかった。


「ねえ、マスター。あのさ――」


 レイさんは隣でマスターと何か話しているようだった。そして、すぐにマスターは新しいカクテルを作り、私にそっと出してくれる。


「ヨギーパインです。どうぞ」

「私、注文してないですけど?」

「まあまあ、それは私からってことで」


 レイさんが隣で新しい煙草に火を点け、「口の中すっきりする飲み物だから」と言葉を続ける。今はその言葉を信じるしか選択肢はないので、目の前の白っぽいカクテルを口に運ぶ。口に入れた瞬間に甘いヨーグルトの風味と乳製品独特の口の中に残るような質感を感じる。今はそれが口の中の不快感や痺れを優しく取り除いてくれるみたいでホッとする。さらにはあんなに感じていた苦い匂いも、パイナップルのすっきりとした香りと後味ですっと薄れていく。

 レイさんの言葉通り、魔法みたいに口の中がリセットされていく。それだけでなく、カクテルとしてもとても甘くておいしい。

 思わず笑みがこぼれてしまい、そんな私にレイさんは優しい笑顔を向けていた。

 それが意地悪だけど優しいお姉さんみたいで、気付いたらレイさんに対しての警戒感というものはすっかりなくなっていた。

 灰皿に置かれた吸いかけの煙草を吸いたいと思えない私は、立ちのぼる煙と香りを思い出と共に楽しむことにした――。

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