第4話 出会いは喧騒の果てに

 煙草の箱を横目に思い出に浸りながら、変えることのできない現実を見ないようにして、酒に浸ることで逃避していた。自分で面倒なやつだなと自覚しながら、現実の甘さを欲して注文したカルーアミルクを前にぼんやりとしていた。

 そんなとき、後方のボックス席にいた一組の男女が言い争いをしているような声が聞こえてきた。内容は聞き取れないし、聞くつもりもないので、何かめているなというくらいで聞き流していた。

 しかし、カウンターを挟んで立つマスターはかなり気になっているようで、チラチラと視線を口論をしている客に向けているようだった。

 私はわざわざ振り返ってまで、何が起こってるかをたしかめようとも思わないので、カクテルをちびちびと飲み進めていく。カルーアミルクの甘さがねっとりと口の中に広がり、ほのかにアルコールとコーヒーの香りが鼻から抜けた。

 残りが少なくなってきたので、次は何を頼もうかなと酔いが回りだしてぐるぐるし始めた頭で考える。甘いカクテルが好きなので、何か果物系のリキュールのものを注文したいけれど、私は酒に詳しいわけではないので、注文するにもマスターにお任せする部分が大きくなってしまう。

 こんなときに彼がいれば、私の好みに合ったカクテルを横から注文してくれたのになと思ってしまう。たしか、以前この店に一緒に来たときは居酒屋などで私がカルーアミルクをよく頼むからと、アプリコットのリキュールをミルクで割ったものを注文してくれた。

 だけど、今日はなんとなく注文しにくい。私のためにと彼が選んでくれたからこそ、嬉しくて、よりおいしく感じられた。だから、その思い出だけをそっと心の奥にしまい込んで、いつか思い返しても辛くなくなった時に飲もうと心に決めた。

 結局、注文するものが決まらないままぼんやりしていたら、後ろで繰り広げられていた口論がヒートアップし続けているようで、声が大きくなっていった。しばらくすると、聞こえてくる声は女性の声ばかりになり、一方的な形勢になってきたようだった。

 そして、ドンッとテーブルを叩く音が聞こえた直後に、椅子が床にこすれる大きな音が店内に響き、さすがにびっくりして思わず修羅場の方に顔を向けてしまう。


「もういいっ! 帰る!」


 震える声で叫びながら、スーツ姿の男性が立ち上がり、鞄を手に帰ろうと歩き出したところを相手の女性がよく通るハスキーボイスで、


「ちょっと待って!」


 と、呼び止める。スーツの男性は立ち止まり、「な、なんだよ?」と、怯えのなかにわずかに期待が混じったような表情で尋ね返す。


「ここの代金――せめて、自分の飲んだ分くらいは払ってよね。まあ、縁を切る手切れ金代わりだと思えば安いものだけれど、あなたの分まで払うというのはなんだか気分悪いのよね」


 心底呆れたという風にため息交じりに女性は言い放った。その言葉と声には、侮蔑ぶべつや嫌悪といった念が含まれているのは明らかだった。

 スーツの男性もそれに気付いているようで、肩を震わせながら、「俺とお前はもう関係ないんだろ? だから、他人なんだからお前の事情なんて知らねえよ」と反撃になってない言葉を強い口調で口にする。


「はあ……そうだったね。じゃあ、私とあなたはもう関りあいのない他人だってことよね。じゃあ、なおさらあなたの分まで払う義理もないわけだから、遠慮なく無銭飲食ってことで警察呼ぶね」


 女性がスマホを相手からも見えるように持ちながら、真っ直ぐに見据えると、男性は体を震わせだす。怒りや悔しさを感じながらも、何も言い返すことができないというこの状況に拳を握りしめて、ただ我慢しているようだった。そして、財布を取りだし一万円札を一枚取り出して、最後の抵抗とばかりに女性に投げつけるも、ひらひらと床に落ちていき、恥を重ねることになった。

 その一部始終を女性は口元に笑みを浮かべつつも、全く笑っていない冷たい目で見つめていて、男性は顔を真っ赤にして、うっすら涙を浮かべながら店から飛び出していった。

 最後まで醜態しゅうたいさらした男性を見送ると、女性は面倒くさそうにお金を拾い上げ、鞄と飲みかけの酒を手にカウンター席にやってきて、一つ空けて隣の席に座った。


「マスター、なんか騒がしくしちゃってごめんね。お詫びにビールでも奢るから許して?」

「いいよ、レイちゃん。たまたま今は客も少なかったからね」


 マスターはため息をつきながらも、女性の前に灰皿とコースターをそっと置いた。女性はコースターにグラスを置いて、椅子に座り直す。


「そっかそっか。そういうことなら、ビールの奢りはいらないと?」

「それは迷惑料として、きっちりいただきますよ。ごちそうになります」


 女性はケラケラと笑い、それに合わせてマスターも口元を緩ませている。それだけで女性はここの常連でそれなりの信頼関係というものが出来ているのだということが理解できた。

 マスターは台拭きを手に、さきほどまで修羅場の中心地だったテーブル席の片付けのためにカウンターから出ていった。

 レイと呼ばれた女性は、鞄から煙草を取りだし、慣れた手つきで火を点け、細く煙を吐き出した。そのまま煙草を持った手の平の付け根にあごをそっと乗せ、物思いにふけっているように見えた。

 レイさんは黒髪のショートボブで髪を耳に掛けていて、化粧は抑え目だけどツボだけは押さえているように見えた。またレディースの細身のパンツスーツに身を包み、長く細い足を組んでいる様は、どこか中性的でしなやかなかっこよさを感じてしまう。

 さっきまで修羅場を演じていたはずなのに、とても落ち着いていて、余裕のある表情をしているので、直感的に年上かなと思った。

 そして、パッとみた印象では私とは服や化粧の好みは対極にあって、私は声を荒げたり、男性を言い負かすほどに激情を向けるなんてできないので、立ち振る舞いや価値観というのも反対に近いほどに違うのかもしれない。きっと違うところで出会っても、必要に迫られない限り、話したり絡んだりしない接点がないタイプの人に思えた。

 それから、関わり合いにならないように視線をカクテルに戻した。そのままカクテルに口をつけながら、ふと隣に座るレイさんを羨ましく、憧れに似た感情を感じていることに気付いた。私にはあそこまで自分の気持ちに素直になったり、表に出したりはできない。

 もし私が感情を素直に表すことができたなら、一緒にいて欲しいとわがままを言えていたら、我慢せずに彼の前で泣いていれば――今、こうやって一人でここにいることはなかったのかもしれない。

 今の私には後悔とないものねだりくらいしかできることはなかった――。

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