第3話 私がここにいる理由 ②

 仕事から帰ってきていつものようにマンションの郵便受けを開ける。広告類は近くの備え付けのゴミ箱に捨て、届いたものを確認する。そのなかに私宛てのもの混じって彼に届いた郵便物も混じっていた。そして、もう一つ、彼に渡していた合鍵が入っていた。

 それらをすべて鞄に押し込み、自分の部屋へと向かう。

 鍵を開け、部屋に入り、電気を点けると淋しい気持ちに包まれる。膝から崩れてしまいそうな気持ちを何とかこらえて、部屋の中を見回した。

 今朝まで二人で暮らしていた生活感があったが、一人分の荷物だけごっそりとなくなっていた。それもそのはずで、今日が彼の引っ越しの予定日で、仕事で私がいない日中に服をはじめ、自分の荷物を運び出したあとだった。

 テーブルに彼に届いた郵便物と合鍵を置き、代わりに置かれていた手紙を手に取る。手紙には謝罪の言葉が並んでいた。また、手紙と共に封筒に入ったお金も置いてあった。同棲を始めてからの家賃や生活費で私が多く出していた分と、自分勝手な選択で迷惑をかけた慰謝料代わりにと、それなりの額が包まれていた。

 私は正直、お金も手紙もいらなかった。本当に欲しかったものは、もう戻ってこない。

 手紙を置いて、部屋の中を見て回る。

 洗面所に並んでいた歯ブラシは一つだけになっていて、髭剃りや男性用の洗顔石鹸などもなくなっていた。だけど、キッチンの食器類や家電、他にもベッドやクッションなどはそのままで。

 クローゼットを開けると掛かっている服は私の物ばかりで、彼がいたという痕跡だけが綺麗になくなっていて、どうしようもなく胸が締め付けられる。

 そのとき、ふわりと煙草と消臭スプレーの匂いがした。

 彼がよく着るジャケットなど上着には、なかなか洗濯できないこともあり、煙草の匂いが染み付いていた。私にとっては気になる臭いでも、彼にとってはその匂いが当たり前になっているのか気になっていないようで、帰ってそのままクローゼットに掛けたりしていた。

 匂い移りを気にする私はこまめに消臭スプレーを使い、匂いのケアをしていた。

 そして、ずっと気を付けて欲しいとお願いしていたが、最後までなかなか守られることはなかった。


「匂いだけが残っているなんて……」


 今となっては、あんなに消してしまいたいと思っていた煙草の匂いだけが、彼がたしかにここで暮らしていたことを示していた。その残り香がとても大事なものに思え、消えてほしくないものへと変わってしまっている。

 また彼の服の煙草の匂いを取るためだけに、買ってあった消臭スプレーも残されていたが私の部屋にある必要性は失われてしまっていた。


 彼は服の匂いのケアについてはなかなか守ってくれなかったが、部屋の中では煙草を吸わないという約束は最後まで守ってくれた。煙草が吸いたくなったら、彼はベランダに行っていた。

 そのベランダという狭い空間も、私たちにとっては特別な場所だった。煙草を吸っている彼の横顔が好きで、部屋とベランダの境目から覗いていると、そんな私に気付いた彼が柔らかな笑みを浮かべ、小さく手招きをしてくる。それに誘われるようにゆっくりと隣に寄っていき、近づいた顔を見合わせ、どちらからともなくそっとキスをするのだ。

 それは、煙草の少しだけビターな匂いと味が混ざっている甘いだけじゃない大人のフレーバーなキスで――。

 また、ベランダは喧嘩や口論をして、彼が居心地が悪くなった時の逃げ場所でもあった。喧嘩の後は、先に折れた私が彼の好きなコーヒーをれたカップを手に「仲直りしよ?」と声を掛けるか、彼がベランダから部屋に戻ってきて「ごめん。お詫びに侑香の好きなアイス買ってくるよ」と謝って、近くのコンビニに出かけるのに付いて行くのが恒例で。

 それも今となっては、甘やかで過ぎ去った幸せな日々の思い出。

 ベランダに通じる窓を開けるが、当たり前だけどそこに彼の姿はなかった。そして、どれだけ待っても、仕事終わりで疲れた表情をして帰ってくることも、私の機嫌を取るために買ったアイスの入った袋を手に気まずそうに笑みを浮かべる姿を見ることももうない。

 彼はこの部屋に、きっとこの街にさえも戻ってくることはないのだろう。


ひとりは、辛いよ……」


 部屋とベランダの境目にぺたりとしゃがみ込み、肩を落としていると、ベランダの室外機の上に灰皿と煙草の箱があることに気付いた。

 きっと室内の荷物のことで頭も手もいっぱいで、ベランダのことにまで気が回らなかったのだろう。

 その忘れ物の煙草の箱をそっと手に取り、中を見ると半分ほどまだ残っていた。煙草を一本だけ取り出し、鼻に近づけて匂いを嗅いでみる。火は点けてないけれど、嗅ぎなれたビターチョコのような香りがした。

 これだけが、彼がここにいた証で、たった一つだけ残された思い出の欠片なのだろう。

 ベランダから、私の物だけになった部屋を見回すと、いつも以上に広く閑散として見えた。

 独りになってしまったという現実と淋しさに耐え切れなくなり、手に持っていた煙草を鞄に入れて、私は部屋を飛び出した。

 そして、酒を飲んで現実と向き合うことから逃げようと考え、彼と行ったバーのことを思い出し、一人でヤケ酒をするために店にやって来た――。

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