第2話 私がここにいる理由 ①

 私には二年以上付き合って、そのうち一年近く同棲していた恋人がいた。

 出会いはありきたりで、会社の同僚に誘われていった飲み会で知り合ったのがきっかけだった。

 彼は勤めている会社こそ違ったものの、伝え聞く仕事ぶりは真面目で優秀で将来を期待されていた。また優しく誠実で、一緒にいて心が休まる存在でそんな人柄がとても好きだった。

 一つだけ苦手だったのは、煙草を吸うことくらいだった。煙草の臭いはあまり好きにはなれなかったが、職場での喫煙所での会話が仕事に役に立つと言われてはやめて欲しいとは最後まで言いだせなかった。それに分煙意識や喫煙マナーはしっかりとしていたので、渋々だけど私が折れることにした。


 思い返せば、彼とは色んな所に行った。仕事終わりに待ち合わせをして食事をしたり、旅行にハイキング、夜の川辺に並んで座ってみたり、近くの公園まで散歩したり、スーパーに二人で買い物に行ったり――。

 今いるバーも、元々は彼の行きつけの店で、何度か連れられて来たことがあった。

 何気ないことが幸せで、一緒にいられることが嬉しくて、このままいつか結婚できたらいいなと夢を共有していた。


 しかし、順調だった付き合いも彼が異動を機に、上司からパワハラなど不当な扱いを受け続け、ストレスに耐え切れなくなり、会社を辞めてしまったことから、全てが変わり始めた。

 事情が事情なので、彼を支えるためにも私の部屋で同棲をはじめた。仕事を辞めてしばらくは彼はぼんやりとしていて、朝は体調を崩すことが多かった。しかし、離職後三ヶ月くらい経ったころには、気持ちの整理がついたのか、就職活動を始め、その合間にバイトをするようになった。


侑香ゆうか、ありがとう。俺はもう大丈夫だ。だから、再就職が決まったら、そのときは結婚しよう」


 そんな決意の言葉を聞かされ、私は嬉しくて涙を流しながら何度も頷いた。彼の言葉を信じて、その言葉を現実にするために、二人で前向きにがんばった。


 そして、つい一週間ほど前のこと――。


侑香ゆうか、話があるんだ」

「うん。どうしたの?」


 仕事から帰ってきたら、彼は思い詰めたような険しい表情を浮かべていた。だから、何を言われるのかと身構えてしまう。


「俺さ、地元に戻って、就職することにしたんだ」


 その言葉に、自分のことのように喜びを感じていた。そして、それは同時に私の彼に捧げた愛情が報われる瞬間だった。そうなるはずだった――。

 私がおめでとうと口にする前に、彼は絞り出すように言葉を続ける。


「それで地元に帰って、たぶん結婚……することになるんだと思う」


 その微妙な言い回しに引っかかりを覚える。地元に戻るから付いて来てほしい、そういう意味合いが含まれてない、私とは無関係に聞こえてしまう口振り。


「えっと……どういうこと?」

「そのまんまの意味なんだ。侑香には本当に悪いと思っている」

「……ごめん、何を言っているか分からない。ちゃんと説明してよ?」

「地元に戻ったときに、たまたま高校から大学卒業まで付き合ってた元カノと再会したんだ。それで、色々あって仕事を辞めて、就活してるって話したら、仕事を紹介されてね。それが彼女の親族が代々やってきたいわゆる同族経営の地元では有名な会社なんだ。大学で就活してたときは、そういうコネを使いたくなくて一度は断った話なんだけどさ」


 彼はいたって真面目な表情をしていて、冗談や嘘を言っているわけではないことだけは分かった。その話を黙って聞きながら、泣き出しそうな気持ちを必死にこらえていた。


「就職の件は分かったよ。それで、どうして結婚の話になるの?」

「それは……久しぶりに会って話したら、お互いにまだ気持ちが残っていたことに気付いたんだ。元々喧嘩だとか険悪になって別れたわけではなくて、就職のタイミングで遠距離になって、そのまま自然消滅して、って感じだったんだ。それで戻って就職するなら、結婚を前提にもう一度やり直そうかって」

「それで……その話を受け入れるつもりで私に話したわけ?」


 彼は静かに深く頷いた。その瞬間、心に大きな空洞ができたかのような気がした。しかし、彼と付き合いだした二十代半ばのころにはあった若さからくるエネルギッシュさを失いつつある三十路手前の今の私には、すがり付いて、わめき散らしてでも、突き付けられた現実にあらがおうというバイタリティはなかった。


「そっか……よかったね……」


 だから、私は彼の門出を祝うために、淋しさと悲しさを押し込めながら、思ってもないことを口にしながら精一杯の笑顔を作ってみせる。私がこんなにも無理して強がっているのに、彼の方が辛そうな表情を浮かべ、


「侑香……ごめん。本当にごめん。キミを幸せにできなくて……」


 と、深々と頭を下げてきた。私が欲しかったのは、そんな言葉でも表情でもなかった。


 ただ、好きな人と幸せな生活を送り、笑い合いたい――。


 そんなささやかな私の願いを、彼は別の人と叶えることにしたようだった。彼の前で涙をこぼすことはなかったが、幸せや願いといったものはこぼれ落ちていった――。

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