思い出の香りを、あなた色に染めて

たれねこ

第1話 失恋した私の現在地

「あの、マスター。おかわりください!」


 飲み切ったグラスをコースターに置きながら、すぐに催促する。

 ノスタルジックな洋楽が流れる落ち着いたバーのカウンター席に座り、店の雰囲気にそぐわない露骨に荒れた様子で酒を飲み続けている私の姿は、もしかすると店にも他の客にも迷惑かもしれない。しかし、平日ということもあり、空席が目立っている。だからというわけではないが、泣きながらヤケ酒をしている女性が一人いても大目に見てほしい。


「分かりました。ですけど、大丈夫ですか? 飲み過ぎのようですけど」


 カウンターテーブルを挟んで向こう側で、二回りくらい年上の温和そうな男性が心配そうな表情で接客してくれる。


「大丈夫ですから」


 そんな私の投げやりな返事に困ったような表情を一瞬だけ浮かべるも、芋焼酎の水割りを新たに作り、「どうぞ」と目の前のコースターに置いてくれた。

 そして、マスターは少し距離を取り、洗って水切りをしていたグラスを丁寧にき始める。

 マスターとはおかわりのたびに同じようなやり取りを、繰り返しているように思えた。もしかすると、私に早めに帰ってもらいたいのかもしれない。

 だけど、今はこうして誰か人がいる場所で、一人で飲んでいたい気分だった。

 誰かに話を聞いて欲しいわけでも、同情されたいわけでもない。ただ人の目があるということで、油断すると幼い子供のように大声で泣きわめいてしまいそうになる感情の爆発を無理やり押し込めているだけだった。

 グラスの中の氷に指先でそっと触れながら、視線はすぐ脇に置いている家から持ってきた煙草の箱につい向いてしまう。マスターは気を遣って、灰皿を出してくれたが、私は煙草を人生で一度も吸ったことがない。

 それなら、どうして煙草を持っているのかというと、別れたばかりの長く付き合っていた恋人の忘れ物だったからだ。

 煙草の箱を見るだけでも、ふいに色んな思い出がよぎってしまい、また私は自分の心の傷に触れてしまい、今日何度目か分からない涙を静かに流しながら、すんっと鼻をすすった。

 失恋して泣くほど辛くて、家にいたくなくて、一人だけどひとりになりたくなくて――だから、私は前に恋人と何度か来たバーに来て、未練たらたらだけど吹っ切りたくて、忘れないといけないのに忘れたくないという様々な矛盾する気持ちを胸に抱き、ため息と涙にまみれながら、酒を飲み続けていた――。

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