さよならの香り
園田汐
さよならの香り
夢をみていた。
椿が、目の前で練乳をたっぷりかけた苺を食べている。彼女に差し出された苺を僕は頬張る。まだ充分に熟れていない苺の酸っぱさと練乳の乳臭いドロリとした甘さは、まるであの頃の僕ら二人のようだった。知らないことを知ろうとしてお互いを貪り合うように夜を重ねた日々。
窓からは淡くオレンジがかった光が流れ込んでいた。どうやら二度寝をしすぎたらしい。時計をみると、もう少しで夕方という時間を指していた。眠りにつく頃には隣にいたはずの女の子もいつのまにか居なくなっている。うまく顔と名前が思い出せない。昨夜、吉田に無理やり連れていかれた食事会という名の合コンにいた女の子だ。男慣れしたような感じで、よく笑い、僕に対してたまに目配せをしてきたのを覚えている。
椿は、僕の幼馴染だ。
こんな時間まで寝ていたから変な夢を見てしまったのだ。今度吉田にあったら何か奢らせてやろう。と友人に無理やり責任を押し付けて、僕は冷蔵庫を開け、冷えた麦茶を紙パックから口をつけずに喉に流し込む。飲み込んだ後に、常温の水にしておけば良かったと少し後悔する。水よりも美味しい飲み物はこの世に存在しない。
ベランダに出てタバコに火をつける。一息深く吸い、ゆっくりと吐き出す。ぼんやりと視界が揺れて頭が冴えてくる。眼下を通る道路を見下ろすと横断歩道を子供が渡っていた。通る車もないというのに、律儀に右手を高く上げて、友達と高い声ではしゃぎながら。
空腹だった。ずっと寝ていたせいで今日は何も食べていないのだと気づく。空腹とは気づくまではなんでもないくせして、気づいてしまったが最後、頭の中を支配してしまう。もう食べきれないというほどに食事を摂らなければいけない。もはや強迫観念のような食欲が湧き上がってくる。
ゆりさんに声をかけてみよう。ベランダの戸を閉め部屋に戻る。彼女は家にいるだろうか、大抵、どんな時でも彼女は家にいるが、どういうわけか携帯電話というものを持っていない。そのため彼女が外出をしていたら、こちらから連絡するすべはない。彼女からどこかの公衆電話から電話がかかってくる時以外、彼女が外にいるときに彼女とは電話ができないのだ。今時、公衆電話を日常的に使用する人間を僕は彼女以外知らない。
僕らは同じ街に住み、同じ最寄駅を利用している。大抵は外で待ち合わせ、食事を摂り、食後はいつもゆりさんの部屋で過ごす。その日のうちに帰ることもあれば、時には翌日の朝まで、時には一週間近く共に過ごすこともある。映画を観て、小説を読み、言葉を交わす。どんな事をしていたとしても、僕らはお互いを愛しきっている。それをお互いが確信している。
ゆりさんと過ごす時間は、夏休みの終わりみたいに、一瞬だけれども、どこか終わりがやってこないような、気だるいけれども、焦燥感にかられるような、神様がいるのであれば、きっと神様に見放された空間と時間なのだと思う。
コール音の五回目が終わる手前でゆりさんは電話を取った。
「あら、どうしたの?」
寝ていたのだろうと思わせる声で彼女は電話に出た。
「夕飯でも一緒にどうかなと思ってさ」
寝ていたなら起こしてしまってごめんね。と僕は答える。
「いいわよ。今日はずっと寝ていたから、すっごくお腹が空いちゃったわ」
どこにしようか。もうすっかり目が覚めたような声で話す彼女の口調は、お腹を空かせた野球少年が母親に今日の夕食を尋ねる時のようで、僕の気怠さをふわりとどこかへ連れて行く。
「なんだか無性に中華が食べたい気分になって」
本能が胃に物を詰め込めと叫んでいる日には中華やイタリアンがぴったりだ。と僕は思っている。そういう日にフレンチや和食を食べても、胃は膨れたとしても脳が満足しない。
「それは名案だわ。それじゃあ、一時間後に時計台の下で会いましょう」
そう言って彼女は電話を切った。彼女のそういうさっぱりとした暖かさが僕は好きだ、と思う。さっぱりとした暖かさ、乱暴な丁寧さ、丁寧な乱暴さ、そんなワガママな矛盾を愛と呼ぶのだろう。彼女を知って、僕は愛の定義をみつけた。
初めて話した時のことを思い出す。話しかけてきたのは彼女からだった。その日は雨が降っていた。突然の雨に、逃げ込んだ公園の屋根付きのベンチで、僕は湿気ったタバコを吸っていた。二本目を吸い切ろうというところで突然右隣から声がした。ねえ、それ一口吸わせてくれない、と翡翠のように潤いのある目で彼女が尋ねてきたのだった。
そこまで思い出して僕は笑いを堪え切れなくなってしまう。早く会いたい。
待ち合わせ場所に着くと彼女はすでに待っていた。地面についてしまいそうなロングスカートを風に揺らして立っている。綺麗だ。彼女はいつどんな場所に立っていても、その場所から浮いてしまっているように見える。浮いてしまっているというのは、実際に、浮かんでいるように見える、ということだ。
「行きましょうか」
僕に気づいた彼女はそう言って歩き出した。
「そういえばさ、さっき、初めて会った日のことを思い出してた」
「いつだったっけね、あの日の君はひどかった。まるで不審者を見るような目で私を見るんだもの」
何年前の何月何日だったかを僕は覚えている。けれど、彼女がそれがいつだったかを覚えていなくても、それでいいのだ。彼女がその日、僕ら二人が会った日の出来事を覚えているのであれば。
「それは、当たり前でしょう。見知らぬ人からタバコを一口吸わせてくれなんて言われたこともないもの」
笑いながら、小さな石を蹴って歩く。それに、と僕は続ける。
「それに、これって美味しくないのね、なんて言ってすごく渋い顔をする始末だからね」
ふてくされた顔ですら、彼女は美しい。その日僕は、彼女の目に映る雨を一人寝る前に想像しているうちに、彼女のことをひどく好きになってしまったのだった。
中華料理屋で運ばれてきた料理は、どれもとても美味しかった。ピータン、青椒肉絲、回鍋肉、水餃子、ニラ玉、海鮮炒飯、杏仁豆腐は残らず僕らの胃の中に消えていった。凄まじい勢いで。
「最近の君の話をしてちょうだい」
いつも通り、料理を食べ終えると彼女はいつも通りそう言った。僕の日常のなんでもないこと、特に、僕と僕の周りの女の子たちとの話を彼女はとても楽しそうに聞く。
それから僕は、先程の夢の話、昨日の合コンの話、そして名前も顔も思い出せない女の子の話をした。
「幸せな夢、とっても素敵。私、君の幼馴染に、ツバキちゃんって言ったっけ、いつか会ってみたいわ。昔の君のこと、聞いてみたい。あ、帰りに苺と練乳を買いましょう。食べなくちゃ」
食べなくちゃ。彼女はそう言った。食べないといけない理由など僕の話の中には一つとして存在しなかったとしても、彼女が食べなくちゃと言ったのであれば、それは絶対に食べなければいけないものになる。彼女が僕の世界の理由そのものなのだ。
それにしても、吉田くんはあいかわらずだね。と会ったことはないが、僕の唯一の友人が故に、よく話に出てくる吉田のことをゆりさんはまるで会ったことがあるかのように話す。君に顔と名前を覚えてもらえなかった女の子はかわいそう。とこれっぽっちもかわいそうと思っていない声で彼女は付け足す。彼女の残酷なまでの無邪気さに僕はいつも恐怖し、何か大事なものがえぐられたように胸が痛み、彼女を愛おしく思う。
いつも通りの食事の後、いつも通り彼女の家へと向かう。初夏の風は、ほんの少しだけ湿り気を帯びていて、これから来るであろう、うだるような暑さを予感させながらも、今この夜が永遠のように錯覚させる。
「猫よけのペットボトルって本当に効果あるのかしら」
右横を歩いていた彼女が立ち止まり、膝あたりまで少し苔が生え、緑とも黒とも言えるような色をしたコンクリートの塀に沿って並べられたそれらをじっと眺める。覗き込んだその顔があまりに真剣で、それ故あまりに可愛らしく、僕はつい声を漏らして笑ってしまう。九つも歳の離れた女性を可愛いと、愛くるしいと思いながら眺める日がくるなんて、どの年齢の僕が予想できただろう。しかし、その驚きよりも彼女がこの歳まで、その純粋さを失わずに人生を送れてきたことに僕は度々驚かされてしまう。
「なんで、シャンプーとリンスっていつも同時に無くなってくれないのかしら、だって、どちらも同じだけプッシュして使ってるのよ」
再び歩きだした彼女は、またもや真面目な顔をこちらに向けて話す。真剣な顔で猫よけのペットボトルについて悩んでいたかと思えば、もうすでにシャンプーとリンスについて悩まされている。きっと、面白がっていることが顔に出ていたのだろう、ねえ、私は本当に悩んでいるのよ、と彼女はふてくされる。その真剣さが僕をこんなにも愉快な気持ちにさせているというのに。
もしも、人間にそれぞれ役目があるとしたら、彼女の役目とは、きっと、彼女が彼女のまま生きる事、そのものだ。そして僕の役目は彼女が少しでも喜びを感じるため、彼女の側で出来るだけ真面目に相槌を打つことだろう。
どこからか花の匂いがした。ふわりと香るような生易しいものではなく、突然目の前に極彩色が広がるような勢いで。まるで、夏そのもののような。くらりとよろけてしまうような香りだった。人は冬を寂しい季節だと言うが、僕は夏こそが寂しい季節だと思う。夏はいつだって終わりを孕んでいる。真っ盛りでも、始まる前ですら、もう僕らに終わりを予感させる。僕は夏が怖い。夏が来てしまうと何故だか、何かとても大切なものを失ってしまいたくなるような、ふと、誰かを傷つけたいような気分になってしまうから。
隣から聞こえてきた彼女の鼻歌が僕を現実へと引き戻してくれる。
「あ、ここの八百屋、今日定休日なんだって」
残念。と頬を膨らませる彼女の顔は本当に残念そうで、その嘘のない表情に僕はつい感心してしまう。よくもまあ、こんなにも感情を素直に表現できるものだ、と。
「いちごはまた今度にでも買えばいいよ」
僕はそう言って彼女の気を紛らわせようとするが、今日が良かったの、と尖らせた口で彼女は俯く。八百屋め、彼女にこんなにも美しい表情をさせるとは、と、僕は一度も買い物をしたことがない八百屋に感謝する。気がつくと僕らは彼女の家の目の前に着いていた。カチャリと気持ちのいい音がして鍵が開く。家に入ると彼女は真っ直ぐに浴室に向かいお湯を溜め始めた。生きているかのような音を立ててお湯がその大きな浴槽に溜まっていく。一人で暮らすには広すぎるリビングの真ん中にはキングサイズのベッドが置かれている。きっと他の人の家でベッドがその位置にあれば、それはとても場違いで肩身が狭そうに見えるだろうが、彼女の家ではそうは見えない。リビングの壁には本棚が三つあり、睡眠も取れるようなチェアーが二つある。僕が初めて来た日には一つしかなかったそれは、二度目に来た日には二つに増えていた。テレビはない。大きなスピーカーが二つと、ベッドを囲むように配置された棚にはいくつもの香水瓶が置かれている。こんなにいろんな種類の香水があって迷わないのかと以前尋ねたら、全て同じ種類の香水が入っていて、気分でどの瓶を使うかを決めているのだと答えが返ってきた。更に、一年経てばそれら全てを捨ててしまい同じものの新品を入れ直すのだそうだ。緑や紫、青、赤、無数の色の香水瓶が、彼女の家の、床すれすれにある暖かい光の照明に照らされて反射している。本を読むときのためのスタンドライト以外、リビングには足元の照明しか明かりがないが、それら色とりどりの瓶たちがあるせいか、暗いという印象はない。それどころか、夜の部屋とはこうあるべきなのではないかとこちらに思わせる説得力持ち合わせている。例えそれが朝であっても昼であっても夕陽が沈む時間であっても、その部屋は、世界で一番そうあるべき空間なのだ。
「紅茶、飲む?」
明らかに二人分は入っているであろうポットと、カップを二つ、ダイニングのテーブルに準備しながら彼女は僕に尋ねる。
「シナモンスティックまだある?」
あるわよ。砂糖の入った透明な瓶とシナモンスティックの入った陶器の瓶をテーブルに置き、二人並んで椅子に座る。僕ら二人の紅茶の飲み方は同じだ。正確にいうと同じになった。いつか二人でふらりと入った喫茶店。五十代とも、六十代とも、七十代ともとれる年齢不詳のマスターが一人で切り盛りしている喫茶店で、彼女はモーニングに紅茶を、僕はコーヒーをセットで頼んだ。紅茶がテーブルに置かれるとすぐに、彼女はスプーンいっぱいの砂糖を五匙と、付け合わせのミルクをあるだけ入れてスプーンでゆっくりとかき混ぜた。そんなに砂糖を入れるなんて、と目を見開いていた僕の顔を彼女は覗き込み、底に残った砂糖が美味しいのよ、まるで子供の頃に食べるカステラのザラメみたいに特別な味なの。と、ふふ、とでも聞こえてきそうな顔で微笑んだ。紅茶を飲み終わったあと、底に残った砂糖を彼女はスプーンですくって僕に食べさせてくれた。なんだか少し涙が出そうになった。それ以来、僕の紅茶の飲み方も彼女と同じになってしまったのだ。
「あ、お風呂のお湯止めなくちゃ」
溢れちゃってた。と何故だかとても恥ずかしそうな顔をして彼女は椅子に戻る。それから二人はお風呂のお湯が冷めてしまわぬように少し急いで紅茶を飲み干した。
「明日の予定は?」
「夕方からバイト、いつもの居酒屋で」
僕の髪の毛を泡だてて遊びながら彼女は尋ねる。泡が目に入らぬようにと薄く開いたまぶたから見えるその景色は多分、きっと、幸せというものなのだろうと僕は思う。
「働き者だねえ、関心だ」
「ゆりさんは働いたことないものね」
彼女の家はとてもとても古くからの名家らしい。ただ、唯一の後継である彼女は家を守ることや、会社や、その他諸々、お金の絡むことに頓着が一切ないが為に、両親が早くして亡くなってしまった際に会社を売却し、受け継いだ遺産を潰しながら生きることに決めたそうだ。ちなみに彼女が死んだ時、そのお金は全てどこかの慈善団体に寄付されるらしい。
「キミもこの家に住んで一緒に遺産を食い潰したら良いのに。働いたりなんかしないでさ」
「そのうちね」
彼女は頻繁にこの魅力的な提案を僕にするけれども、僕はその提案を受け入れることができない。怖いのだ。全てを失って、全てを手に入れることが。
お風呂から出た後、僕はいつも彼女の髪の毛を乾かして梳かしてあげる、湿った肩から彼女の匂いがする。どうして、同じものを使って髪も身体も洗っているのに彼女の身体だけから、こんなに良い香りがするのだろう、僕はいつも不思議に思う。
「そろそろ寝ましょう。明日はゆっくりお寝坊しちゃいましょう」
お寝坊しちゃいましょう、頭の中で繰り返し呟いてみる。お寝坊さん、彼女はよく僕をそう呼ぶ、そう呼ばれた僕がとんでもないほど幸福になることも知っている。
僕らは二人で寝る時、服を一切纏わない、世界で一番幸福な時間に布一枚ですら二人の間に入ることは許されないから。ただ、僕らは一度もセックスをしたことがない。彼女自身はこれまで一度もその行為をしたことがないと以前言っていた。なぜだろうか、分からない。不満もない。愛しているのだ彼女を。吉田に言わせれば、僕ら二人は頭がおかしいらしい。セックスを含めて愛しているってもんだろうが。と彼はいつか二人で高円寺の居酒屋で酒を飲んだ時に息巻いていた。吉田の言うことは理解できる。僕もそうだと確信していたし、僕自身セックスをすることは好きだ。でも、なぜかゆりさんとはセックスをしない。理由なんてものはないのかもしれないし、いらないのかもしれない。
「ねえ、何考えてるの?」
「ゆりさんの事とセックスについて」
僕がそう答えると、彼女は可憐に笑った。
「私としたい?」
黙っていると彼女は僕の肩に鼻をすり寄せてくる。
「キミの肌はいつも太陽の匂いがするね。今日は夕焼けの匂いだ。キミは男の子が持っていなきゃいけないものを全て持っているのね」
僕の肩を少しかじった後に彼女はそう言った。彼女とセックスをすることはこれから先も死ぬまでないのかもしれない。ただ一つ分かることは、僕が望めば彼女は死ぬまで僕の側にいるだろうし、それはこの世で最も幸せなことであり、この世で最も恐ろしいことだということだ。
背中の方から薄い寝息が聞こえてくる。朝起きたら紅茶を飲んだコップを洗わなきゃな、さっき水につけておけば良かった。そして、少しだけ幼馴染の椿のことを考える。僕が一番多くセックスをしている相手、僕の大切な一人。そういえば一ヶ月も会っていない。週に一度は絶対に会っていたというのに。久しぶりに会いたい。そう思いながら僕の意識は沈んでいく。
夢をみていた。
ああ、これは夢だ。と夢の中で気づく。わたしは朝食に食パンをトーストして、ソーセージを焼き、目玉焼きを作り、テーブルへと運んでいる。テーブルではわたしの夫であろう男性と、わたしの娘であろう子供がこちらを向いて笑いかけている。ぼんやりとしていた二人の顔がだんだんとはっきりと見えてきて、はっとする。ひかりだ。斉藤光、わたしの幼馴染で、わたしが唯一愛していると確信している男。しかし、わたしがはっとした一番の理由は娘の顔だった。それは、ゆりさんという女性の顔だった。ひかりが愛しているという、その女性。顔は一度も見た事ないが、わたしは娘の顔がその女性の顔だと確信していた。
びくっと身体が震えて目を覚ます。電車の座席で寝てしまったらしい。乗り越してはいないかと焦って今着いた駅名を見る。良かった。目的地の駅まであと三駅もある。渋谷と横浜を結ぶこの路線の各駅停車しか停まらない街にひかりは住んでいる。
わたしは今、自分の家には向かわない終電に乗っている。各駅停車がそれぞれの乗客の夜を運んでいく。あと三駅で私の夜。ふと、エアコンの電源を消し忘れた気がした。ふと。
改札を抜けるとひかりが待っていた。久しぶり、と言ってわたしのトートバッグを自然に奪う。そうだった。ひかりはずっとそうだった。なんの狙いも嫌味も下心もなくスマートなのだ。厄介なのが、異性に対してだけでなく、同性に対してもそうなのだから非の打ち所がない。生まれ持っての人たらしなのだ。そして、当然のようにわたしの指に自分の指を絡める。その一つ一つの指が自分の指に絡んでいくたびに、ああ、一生わたしはこの男から離れられない。そう感じる。この男がそれを望んでる訳じゃなく、わたしが望んで離れられなくなってしまう。恐ろしいほどに惚れていることを再確認させられてしまう。わたしの初めての相手であり、唯一の相手になるだろうこの男を、わたしはとてもとても、心とかいうものが傷つくほどに深く愛してしまっている。
「夕飯、もう食べた?」
道路側を歩くわたしの幼馴染にそう尋ねる。
「夕方に軽く。でも、少しお腹空いてきちゃったな」
家にあるもので何か作ってあげる。わたしがそう言うと、彼は、ありがとう。と目を少し細くして笑う。なんて愛おしいのだろう。本当は家に住み込んで、掃除から、洗濯から、全てしてあげたい。それはわたしが女だからというわけではない。わたしの幼馴染がこの男だからだ。けれども、わたしがそうしないのは、彼が世話を焼かれすぎるのを嫌うのを知っているから。しかし、わたしは知っている。彼がわたしに会うのをやめないことを。やめられないことを。
月がやけに明るい。隣を歩く彼の鼻梁がはっきりと見えて息を呑みそうになる。終電に乗ってきたであろう人たちが周りを歩いているのが分からなくなっていく。わたしはわたしだけの夜にいる。
気づけば、わたしは服を脱いでいる。ついさっきまで終電に乗っていた気がするのに。柔らかいひかりの唇にはさっき作ってあげた炒飯の匂いが少しだけ残っている。首筋に這う息に声を抑えることができない。わたしとひかりは、もう何年も同じセックスを繰り返している。二人で見つけた、二人の最適な、最高な順序を毎回ていねいにていねいになぞる。数を重ねるたびにその動きはよりていねいに、より緻密に、より自然に、より純度が高いものになっていく。水が高い場所から低い場所にスルリと流れていくように、わたしたちのそれは行われる。それはまるで一つの儀式のようだと、最近思うようになった。お互いが、自分の輪郭を確かめていくような、自分がそれ以外のものとは切り離された個人であるということを再確認するための。寂しさを忘れぬようにするための。
ひかりの肺の上下を、心臓の動きを、彼の重さと一緒に感じる。事が終わった時のこの時間がわたしは好きだ。わたしの心臓の動きなのか、ひかりの心臓の動きなのか、分からなくなって二人が溶けていくように感じるから。そう伝えるとひかりは、一人であることを確認するためのものなんじゃないの?矛盾してるよ。と笑った。その通りだ。わたしはそんな矛盾しているわたしが愛おしく感じる。寂しさを再確認して、寂しさから逃れられないことも再確認するのだ。
ひかりがわたしの上から離れてベランダにタバコを吸いにいく。
「下着だけじゃ風邪ひくよ」
そう言いながらひかりのクローゼットからスウェットの上下を一つ取り出して、わたしは着る。ベランダのドアを開ける音が、深夜の静けさに大きく響く
「静かだね」
そう言ったひかりの声が、この夜の静けさよりもいっそう静かで、わたしはなんだか、そわそわしてしまう。
なんか、またお腹が空いちゃったな、照れくさそうな顔をしてひかりがこちらをみてくる。
「コンビニにでも行く?」
「賛成。ソース焼きそば買おう。あれは深夜に食べるためにあるから」
タバコを吸い終え、すぐに部屋に引き返して、服を着はじめる。時折、その正直さが怖くなるほどにひかりはすべてのものに対して正直だ。食欲に、性欲に、女の子に、男の子に。
月は、数時間前よりも大きく明るくなってるように見えた。サンダルのぺたぺたという足音が気持ちいい。ひかりは三つのソース焼きそばの目の前でまるまる十分悩んで、結局三つとも買ってしまった。どうせいつかは食べるのだと誰に向かって言い訳しているのか分からないけれども、恥ずかしそうにそう言った。
「さっきのあの店員さん、すごく好きなんだ。なんていうか、客と店員と割り切っているのに距離を感じさせすぎないところが」
わたしにはよく分からなかった。パッとしないヒョロリと背の高い男にしか見えなかった。というか、ひかり以外の男は全て皆同じにしか見えないのだ。
「あぁ、早く家に帰って食べたい。もう待てない。ケトルのお湯沸かしてきたら良かった」
こんなにもひかりに食べることを切望されているソース焼きそばはなんて幸せ者なんだろう。ほら、早く。急いで。と前を行くひかりは小走りでこちらを振り向いて笑う。わたしも小走りでかかとを弾ませながら笑う。このまま宙に浮かんで、天国にでも行ってしまいそうに身体は軽い。
ひかりが焼きそばを食べ終わったあと、わたし達は二度目のセックスをした。また同じ流れをていねいに。一枚の布地を織るように繰り返し繰り返し。キスはソースのしょっぱくて、不健康で、もうわたしには似合わない、けれどもひかりには似合ってしまう少年の日の夏のような味がした。
カーテンの隙間から見える外はもう朝になろうとしている。昨日と今日の境目は誰によって決められるのだろうか。もう、わたしには分からなくなった。いつからか、わたしにとっての日常はひかりに会う日とひかりには会わない日、ただその区別しかなくなってしまった。テレビも、椅子も、本棚もない部屋はしんとしていて、時間が止まってるみたいだ。
ひかりが散歩をしたいと言い出したから、わたし達はまた外に出て散歩をすることにした。
川沿いをゆっくりと歩いている。電車から降りた時とは反対の手を繋いで。何度も触れている手なのに、手を繋ぐと、するりとした肌とゴツゴツとした無機質な起伏にわたしは何度でも驚き、何度でも身体のどこかが、きゅうっと音を立ててしまう。
ひかりの吐く煙の方を見ると、空がぞっとするほど紫色に染まっていた。
「どこか遠い街で夜が火葬されているみたいだね」
とひかりはわたしの方を見ずに呟く。ずるい。そう言われてしまったら、もうそうとしか思えなくなってしまった。この先、わたしが朝焼けを見るたびにひかりのこの言葉を思い出さなくてはいけなくなってしまった。わたしの夜も火葬されて、この色を作っているのか、そう思うと、心臓に針が刺さったみたいに苦しくなった。幸せで苦しくなった。
「好きだよ。すごく」
ひかりはわたしに口づけをして歩き出す。
起きると、昼の十二時を過ぎたところだった。土曜日、大学の授業はない。ひかりはまだ寝ている。少し湿ったまつげに口づけをしたくなる。きっと起きたら、またお腹が空いたと言うだろう。起きるまでに軽く何か作っておこう。そう思い冷蔵庫の中を確認してみる。昨日チャーハンに冷蔵庫の中身を全て使ってしまったため冷蔵庫の中には調味料しか入っていない。お米は使いきってないからあるとして、卵と野菜と鶏肉でも買ってオムライスを作ることに決めた。顔を洗い、日焼け止めを塗り、玄関にあるサンダルをつっかけて外へと出る。じっとりとした空気が肌に張り付いてくる。もう、夏だ。しばらくすると、梅雨になるだろう。梅雨が終わると、世界は気が狂ったように熱を帯びて、恋人たちは海に向かうだろう。
海。誘えばひかりはふたつ返事で一緒に行ってくれるだろう。高校生の頃、ひかりといった海を思い出す。灰色の砂浜で、誰もいなくなって、一メートル先も見えなくなるような暗さになるまで二人で座っていた。隣にいるひかりがどこか遠い場所にいるように感じて、ずっとその暖かい手の甲に手のひらを重ねていた。
食材を買って帰ると、ひかりはシャワーを浴びて出てきたところだった。
「オムライス作ってあげるね」
まだ少し眠そうにこちらを見るひかり。
「実はお腹すいて死んじゃいそうなんだ」
なんて素直な笑い方をするのだろう。
「ザ、ケチャップライスっていう味のやつ?」
「いつもそうしてあげてるでしょう?パパッと作っちゃうね」
ありがとう。いつも。そう言いながら今日一本目のタバコを美味しそうに吐き出してひかりはこちらを見ている。目を細めたくなるような、幸福な風景だと、そう思った。
夢をみていた。
遠足の夢。小学校の四年生か五年生の頃、だだっ広い、自然以外はなにもないような公園にバスに乗って向かった。夏も盛りにさしかかっていて、肌がベトベトしていて気持ちが悪かった。汗をぬぐおうと、首を手のひらでふいてもその手のひらさえ汗だくでどうしようもなかった。虫がたくさんいて、一部の女の子たちはとても嫌そうな顔で虫除けスプレーを肌に吹きかけていた。僕と友達は、公園の噴水でびしょ濡れになって、担任の先生にこっぴどく注意されたけれど、濡れた服が乾いていくのと同時に、身体の熱が冷めていくのがとても気持ちが良くて何度も何度も繰り返し噴水の中に走りこんでは、ケラケラと声を出して笑いあっていた。こんなに声を出して笑うことなんて、最近はめったにない。弁当のソーセージを地面に落としてしまった友達が今にも泣きそうな顔をしているのを見て、みんなでからかいあった。彼はとうとう泣いてしまい、今思うととてもひどいことをしたな、と夢うつつに考える。
まどろんでいると肩を突かれて現実に引き戻された。
「もう講義終わるぞ」
吉田が隣でパソコンをカバンにしまいながら、昼飯どうする?と問いかけてくる。
「三限空いてるから、その時食べるわ」
おかしな体勢で寝てしまったからか、首が痛い。二限終わりの昼休みは学食が人で溢れかえるので嫌いだ。
じゃあ俺もそうするわと言う吉田と一緒に喫煙所に向かう。金曜日、こいつ三限あるんじゃなかったっけか、そう思ったが、吉田は要領よく単位を取っていくタイプだし、多分もう行かなくても単位が取れると判断したのだろう。
「今日さ、バイト?」
マルボロメンソールに火をつけた吉田が言う。
ないよ。吉田のニヤリとした笑みを見て、正直にそう答えた事を後悔する。じゃあさ服飾系の女の子たちとの飯があるんだけど来ねえ?と懲りもせず僕を合コンに誘う。またか、と思ったが、この前変な夢をみてしまった腹いせに吉田に飯でも奢らせようと考えていたことを思い出して、奢りなら行くよ、とピースに火をつけ応える。
奢りかあ、奢りかあ、と二回繰り返したあと、よし。行くぞ。となぜか誇らしげに吉田は笑った。
その後、二人で学食で昼食を食べて、四限後に駅で待ち合わせる約束をして一度解散した。四限の人類学は、お気に入りの講義だったこともあり時間はすぐに流れ、僕は駅前で吉田を待っている。小雨が降っているせいか、季節にしては少し寒い。家を出るときに傘を持って来たらよかったと後悔していると、すまん。リアクションペーパーに手こずって。と吉田が手を合わせながら近づいてくる。
「それで、場所と他の人たちは?」
「今日はお前の最寄駅だ。感謝しろ。他のメンツはあと男が二人に、女の子が四人。直接お店で待ち合わせにしてある。男の方は俺のサークルの同期二人」
僕の最寄か、確かにそれは助かる。感謝なんてする必要もないのに、なぜか感謝してしまった。
店に着くと、他のメンバーはすでに席に座っていて、僕らが座ると各々簡単に自己紹介を始めた。僕も、名前と学部、それから好きな食べ物はハヤシライスです。と自己紹介をした。
女の子たちが自己紹介を始めて、ふむふむ名前だけは覚えておかねば、と聞いていると。最後の一人がこう言った。
「あたしは蓮です。それより、私、ひかりくんが凄く気に入ってしまったのでもう二人で抜け出したいんですけど、良いですか?」
最初なにを言われたのか分からなかった。ただ、頑張って覚えた他の女の子の名前は全部頭から抜け落ちて、レン、と言う名前だけが残った。
「蓮!なに言ってるの!ごめんなさい。この子少し変わってて、、」
一番大人びている女の子が慌てて僕に謝る。吉田もなんだか困った顔をしてこちらを見ている。
この状況でこの場に居続けるのもなかなか困ったものだし、レンという名前の、小柄だけど、全身から元気が溢れ出ているような彼女の事が僕もなんだか気に入ってしまったらしい。誘いに乗っかってしまうことにした。
「いいよ。行こうか」
そう言うと、彼女は満面の笑みで、まるで少年漫画のヒロインのように、うん!と首を大きく縦に振る。店を出ると、小雨は止んでいた。
「ひかりくんってどんな漢字を書くの?ひかりくんはどこに住んでるの?ひかりくんはなんでハヤシライスが好きなの?」
その質問一つ一つに丁寧に応えると、レンは満足そうに、ありがとう、と笑う。
「わたしはね蓮の花のハスって書いて蓮だよ。光と一緒で一文字だね」
それから二人で僕の家まで歩いた。このあと何をするかなんてお互いわかりきっていて、家までの道のり、交わした言葉はほんの少しだけだった。
蓮は何度も僕の名前を呼んだ。クリスマスプレゼントをもらった子供みたいにはしゃいだ笑顔で。僕らはお互いのくぼみを、でっぱりを、身体の全部でなぞりあった。生きている喜びを共有し合うようなセックスだった。二人とも前髪がおでこに張り付くほどに汗をかいて、それを見て笑いあった。
「ねえ、光。楽しかったねえ」
とっても。と仰向けに天井を見上げながら蓮は笑う。
「こんなにはしゃぎながらしたの初めてだよ」
まだ息が切れてて上手く声が出ない。
「はしゃぐって、ぴったりだね。今日のあたしたちの、さっきまでに」
今日のあたしたちの、さっきまで。さらりとしていて気持ちが良くて正直な言葉だと思った。
滅多にないことだけれど、今日は吉田に感謝する日だ。
ねえ、ねえ!蓮が僕の肩を揺すって言う。
「ねえ、お腹すいてない?さっきなにも食べずに抜け出してきちゃったから、あたしお腹ぺこぺこで死んじゃいそう」
そう言われると自分も昼食を食べてからなにも食べておらず、ひどく空腹なことに気がついた。
「なにが好き?あたしね、お肉が食べたいな焼肉とか」
うん。いいよ。今から焼肉を食べるのはすごく自然なことのような気がした。
「じゃあ、パパッと準備してすぐいこ!」
グイグイとぼくの右腕を引っ張る蓮はバランスを崩して僕の上にドサリと倒れ込んだ。二人は短いキスをして、夜の街に肉を求めて歩き出す。
日曜日になっても蓮はまだ僕の家に居る。たまにふらっと居なくなって、帰ったのだろうかと思っても、数時間すると帰ってくる。一人暮らしなのか、親は心配しないのか、と気になりはしたけれど、彼女がここに居たいと思っているのであれば、今の僕には追い出す理由もない。何も聞かずにそのままにしている。家にいる間、蓮は窓の外を眺めているか、僕にくっついて嬉しそうに笑っているかのどちらかだ。蓮の身体はとても細いけれど、同じように、とても細いゆりさんの身体とは決定的に違う。ゆりさんの身体は無機物的だ。血が通っている動物だということを忘れさせる白い肌に薄い葉脈のような血管が透ける。蓮の身体は、しなやかで有機的な生き物の身体だ、自ら熱を発して自らを照らしている。
月曜日。
「今日、大学に行くけど蓮はどうする?」
そう聞くと、ついていく。と楽しそうに答えた。
二限の講義で吉田に会った時、吉田の目と口がまん丸に開いていたのが面白かった。
「なんで?」
予想していた通りの質問に、僕が口を開く前に蓮が答える。
「居たかったの」
率直で嘘がない答えに吉田も、おお、そうか。と言ったきりもう何も聞かないことに決めたらしかった。昼食は吉田と三人で近くのトンカツ屋で食べることにした。蓮は終始嬉しそうにしていたが、他の大学のキャンパスに入ることが初めてだったらしく、本当は学食で食べたかったと少しだけ愚痴をこぼしていた。
大学からの帰り道、蓮と並んで歩いていると、珍しく外に出ているゆりさんと出くわした。あら、と微笑むゆりさんに、こんにちは、とビックリマークのつきそうな元気な声で蓮が挨拶と自己紹介をする。
こんな可愛らしい子、キミだけで独り占めしちゃうなんてずるい、私にもおすそ分けしてちょうだい。
「じゃあ行きましょう」
と僕らの返答は待たずにゆりさんはスラスラと歩いていく。横目で蓮を見るとニコニコと笑ってゆりさんに向かって小走りで近づき横に並ぶ、今日はなんて不可思議な日なんだと僕は呆れながらも、二人の後を追って三人並んで夕方の光に照らされて歩く。僕らの影は長く細くくっきりと伸びている。
僕とゆりさんのお気に入りの喫茶店で軽い食事を食べた後、ゆりさんと僕は紅茶、蓮はコーヒー、そして、三人ともレアチーズケーキを頼んでたくさんの会話をした。
「レンちゃんは、ヒカリくんの事が好きなの?」
あたし、これまで女の子のことしか好きになった事がなくて、男の子で初めて光を好きになっちゃったんです。だからなんだかとっても嬉しくて。ゆりさんも光が好きなんですよね?まっすぐゆりさんのことを見つめてまっすぐ言葉を吐く。
「あら、それは見る目があるのね。私はね、好きなんてものじゃないの、愛しているの」
「素敵です。こんな人に愛されている光が羨ましい」
二人とも、僕の話をしているというのに僕の方なんて一度も見ずにお互いの目だけを見つめあって話をしている。時間がそのまま染み付いたような喫茶店で綺麗な生き物同士が、お互いを確かめ合うように会話をするその風景は、きっと第三者が三人の関係を聞くと、おかしいと口を揃えて言うはずなのに、まるで間違った要素は一つもなく、僕は幸福を感じてしまう。
ああ、もう、やはり今日は不可思議な日だと、僕は再度呆れて、一人黙って煙草に火をつける。気がつくと二人とも揃って微笑みながらこちらを見つめている。
その夜は短いようでとても長く、ゆりさんと僕の家の分かれ道まで、僕は二人に挟まれ、両側から手を繋がれて歩いた。月が空から消えてしまう日で、いつもより少しだけ多くの星が見えていた。
「明日、あたし帰るね。だから、連絡先交換しよ。また、ゆりさんにも会いたい」
もちろん。断る理由なんてどこにもない。
それに、どうやら僕は彼女のことを好きになってしまったらしい。
夜のニュースは明日から首都圏が梅雨入りすると伝えている。長い雨は、毎年のように、僕らが秋、冬、春と積み上げてきたものを流しては、真夏を連れてくる。夏はいつも何かを終わらせて去って行く、今年の夏は何を終わらせるのだろうか、何を終わらせられても僕はきっと文句一つ言わないだろう。終わっていったもの達は僕の中で川底の丸石のように綺麗に輝いて残るのだから。
夢をみていた。
ひどく不安にさせる夢だった。雨の中ひかりを探してさまよう夢。ここがどこかも分からずに、そこにひかりが居るのかも分からないまま、わたしは傘もささずに歩き続けていた。わたしがこれまでの人生を費やして作り上げてきた幸福がどこかへ消えてしまう事が恐ろしくて、わたしは泣いていた。頬を伝う水は雨なのか涙なのか分からなかったが、ぐしょ濡れの顔がさらに濡れて、水で腕に張り付いたシャツがうっとおしくて袖を破り捨ててしまいたいと思った。
雨の音で目を覚ました。首都圏は先週から梅雨入りしたらしく、今日も朝からざあざあと雨が降っている。あの夢はこの音のせいだったのだろうか、きっとそうだ。と自分に言い聞かせて安心させる。今日は午後からの授業で、今はまだ朝の六時だ。恐ろしい夢のせいで二度寝する気にはなれず、ゆっくりとストレッチをしてお気に入りのパン屋で朝食を摂ることにした。朝にストレッチをするのは好きだ。全身に血が回り、正しくお腹が空き、その日がどんな天気であれ、良い日になる気がする。きっと今頃パン屋では今日の朝のためのパンを仕込んでいるだろう、町で一番の早起きはパン屋さんなのよ。といつか母親が教えてくれたのを思い出す。
顔を洗い、さっと化粧をして身支度をする。どの靴を履こうかと雨のせいで悩んでしまう。靴を決めなければ服が決められない。昨日の夜、ペディキュアを塗ったからサンダルが履きたかったけれど、濡れると気持ちが悪いと思い、水を通しにくい革靴を履くことにした。そもそも、なぜ梅雨だとわかっているのにペディキュアなんて塗ってしまったのだろうか。
道路に面したテラス席でわたしは深煎りのブレンドコーヒーにミルクを落としながら、ぼうっと地面に落ちる水滴たちを眺めている。梅雨の空気はしっとりと肌に張り付いて、わたしの輪郭を濃くしている気がする。傘をさす人々が窮屈そうにすれ違っていく。ひかりのことを考える。ずっとわたしの側にいて、いつまでも側に置くと決めていたひかり。大学に入って一年目に唐突に大切な人ができたと言われた。今思えば、あの時が最後のチャンスだったのかもしれない、彼から離れることができる最後のチャンス。わたしはそれを選び取ることができなかった。そっか、それでもいつでも連絡して。と、そう答えたわたしは正解だったのだろうか、分からない。分からないけれども、もうどうしようもない。現にひかりは今だにわたしに連絡をよこして、わたしのことを好きだと言い、わたし達は身体を重ねる。それで良い。そう言い聞かせなければ、これまでのわたしの人生はなんだったのか分からなくなってしまう。今はもう考えるのはやめよう。
出来立てだったシナモンロールは、もうその温度を失っていた、それでも、優しい甘さはわたしに溶けていく。少し行儀は悪いが残りを一口で口に押し込み、コーヒーで流し込む。
携帯を見ると、友人達のグループで昼食を摂ろうとの連絡が入っていた。少し早めに大学に行き、午後の授業の予習を済ませておこう。彼女たちの話はいつも長くなるから。
「ねえ聞いて、この間デートに誘われた男の子なんだけどさ、デートコースもその後のディナーも全部ありきたりでさー、やっぱもっと大人な人がいいな」
友人のマイは、いつも通りの愚痴をこぼす。大人、大人と。一緒に同じように年月を重ねていくことの出来ない人の何が魅力的なのだろうか。落ち着いていてお金があることなのだろうか。そんなもの、つまらない。その人が通った道を、なぞるように、なぞらされるようにする恋愛にどんな価値があるのだろう。ひかりのことしか好きになったことがないわたしに恋愛を語るような資格など無いかもしれないが、自分よりも人生経験を積んだ人間に着いて行くよりも、わたしではない誰かの方を向いているひかりを見ている方がずっと良い。悔しいけれど、ゆりさんの話をするときの彼の横顔はゾッとするほど綺麗だ。
「ねえ、ツバキには浮いた話ないの?いつも私達だけ話してて、ツバキのそういう話、一切聞いたことないから気になるな」
「わたしは、何もないよ。それに恋愛ってよく分からないし、今は良いかな」
彼女達にひかりの事を話す気にはなれない。理解してもらえるとも思えないし、ひかりの事を勝手にイメージして欲しくないのだ。
「んー、真面目だなぁ。若い時間なんてあっという間に過ぎていくんだよ?勿体無いよー」
勿体無い事をしているのは、あなた達の方だ、と言いたい気持ちはきちんと隠して、うん。良い人がいたら頑張ってみるね。と笑ってみせる。
わたしが安心してひかりの話をできる友人は香子だけだ。二人ともしっかりしていて似た者同士だと周りは言うが、間違っている。周りに対しての顔を作ってしっかり者を演じるわたしと、常にありのままでいる香子は正反対だ。窮屈そうだね。初めて話した時にそう言われたのを今でも覚えている。
毎週木曜日は香子と夕食を食べることになっている。窮屈そうだねと、そう言われたあの日から、どうしてわたしと彼女が仲良くなったのかは色々な理由があるだろうし、かといって明確な理由を見つけることもできない。木曜日に夕食を食べるようになったのは、木曜日の最後の授業が被っていたからだ。学年の上がった今は、もう授業が被る事はないけれど、その習慣だけは残っている。
授業の後、いつもの待ち合わせ場所に着くと、先についていた彼女が待っていた。いつものように、全身コムデギャルソンの黒い洋服に身を包んで。決して身長の高くない彼女だが、その黒はとても良く彼女の一部になっている。全てを惹きつけるような引力を持ちながら、全てを否定して何色にも染まろうとしない、彼女の黒。
わたしはいつもそれに憧れている。
「おまたせ。今日はどこに行く?」
いつもわたし達は、三つほどの決まった店をその日の気分でローテーションしている。今日の彼女は渋谷にある喫茶店の気分らしい。わたしも特別その他の二つのお店に行きたい気分でもなく、今日は彼女に任せようと思っていたから、二つ返事をして、改札を通り電車に乗る。
「今日は煙草の吸えるお店が良くてさ。ごめんね」
席について、注文した料理の来る前に煙草に火をつける。
「いいの。わたし、香子が煙草を吸っているところを見るの好きだから」
ふふふ、と笑って
「ヒカリくんが吸っているところほどじゃないでしょ?」
とわたしをからかう。
「最近はどうなの、ヒカリくんとゆりさん?だっけ、」
「分からない。けれど、わたしはひかりに会えているし、ひかりもわたしに会いたいと思う時がある、それで幸せなの。ひかりが誰を好きであろうと、わたしは側を離れないつもり」
「椿ってさ、たまに、凄いゾッとするようなことをサラッと言うよね」
まあ、そういうところ、好きなんだけど。と煙草の火を消して、ウェイターの運んできた料理を受け取る。
彼女は自分の話は滅多にしない。彼女の口から、誰が好きだとか、恋人がだとか、そういった言葉を聞いたことはない。けれど、月に何度か、いつもとは違うシャンプーの匂いがする。だから、きっと恋人のような存在がいるのだろう、と勝手に想像している。わざわざ聞かなくても、知らなくても、わたし達の友情が希薄になることはないのだから、聞いたこともない。
そこから先は他愛もない話をした、夏休みの予定や、彼女のバイトの愚痴や、次は行ったことのないお店にチャレンジしてみようなんていう話を。
帰りの電車で、店に傘を忘れてきてしまったことを思い出した。店を出るときは雨が止んでいたせいだ。コンビニで買った、換えの効くビニール傘で良かった。電車はわたしを運んでいく。わたしの住む街の駅へと。どうしてひかりと同じ最寄駅にしなかったのと香子に尋ねられたことがある。怖かったのだ、いつでも、電車がなくても、会えてしまう場所にいる事が。ひかりに求められてわざわざ呼ばなければ会えない存在でいたかった。だから、大学だって別の大学を受験した。そうしたら、ひかりはもっとわたしから離れられなくなると思っていたから。しかし、今思えばその判断は間違っていたのかもしれない。ゆりさんという存在はいつもわたしの判断の正しさを揺るがしてくる。
山手線から乗り換えると、車内はとても静かになった。正しい。そう思った。車窓から見える景色は、明かりのついたビルと民家が交互に流れていく。この週末、ひかりは何をしているのだろう、きっと、バイトをしているか、家でダラけているか、女の子と時間を共に過ごしているかだろう。ひかりの行動は大体その三パターンだ。もしダラけるのであれば、土曜日にでも家に行きたい。お気に入りのパン屋さんで美味しいライ麦パンをかって、翌日、朝食でも作って二人で食べよう。スマートフォンをポーチから取り出して彼に連絡をする。土曜日なにしてる?と。
家に帰り、浴室から出るとスマートフォンの画面が明るく光っていた。ひかりからの返信だった。
ゆりさんと軽井沢にいる。来週まで帰らない。
大学はどうしているの?単位は大丈夫?どうして軽井沢?それらの疑問を全て飲み込んで、わたしは、そっか。楽しんでね。とだけ返信する。きっと、帰ってきたらひかりはわたしを家に誘うだろう。わたしがどんなに慎重に言葉を選んでも、わたしの心を見抜いてしまうのだ。会いたい。という心を。
土曜日は久しぶりに映画館にでも行こう。新宿にあるお気に入りの映画館へ。そこは香子が教えてくれた。待合のスペースに喫煙室があるから好きなのだと言っていたが、煙草を吸わないわたしでもその映画館の持つ雰囲気は好きだと思った。あらゆる娯楽の中で映画が一番好きだ。たった二時間から三時間の間にたくさんの人生達が詰め込まれている。綺麗なものもあれば、目を背けたくなるようなものもある。けれど、どの映画もわたしを非日常へと連れ去ってくれる。ひかりに出会ってなければ、わたしが歩むかもしれなかった人生。多くの恋をして、多くの人と別れ、泣いて、笑う。映画はたくさんの、そんな風な愛おしい日常達を観させてくれる。
さっさと、肌のケアを済ませてしまって寝よう。土曜日、もし香子を誘ったら着いて来てくれるだろうか。明日、昼休みに一緒にご飯を食べることにしたのだった。その時にでも誘ってみよう。
目を閉じて、軽井沢にいるらしい、ひかりとゆりさんの事を考えてみる。顔も分からない彼女をわたしはひかりを通してしか知らない。わたしの一番大切な人に、大切にされている人。どうしても、嫌いになれる気がしない。好きになれる気もしないのだけれど、不思議な気持ちだ。まだ、この気持ちに名前はつけられない。もしかしたら死ぬまで名前が見つけられないものかもしれない。
気がつくとわたしは寝ていた。最後に想像したのは、二人が薄く明かりのついた部屋で、読書をしているところだった。二人で一つの本を、ページはひかりがめくり、ゆりさんは時折ひかりの耳元で小さく囁いて微笑む。彼ら以外誰もいないはずの部屋で内緒話をするように。
新宿の映画館は、土曜日ということもあってか、少し混んでいる。香子は用事があるらしく、わたし一人で行こうと思っていたのだが、それを近くで聞いていたマイが行きたいと言い出し、わたしは今、彼女と二人、並んで映画を観ている。映画は札幌を舞台に三名の男女の群青色をした青春を描いているものだった。映像も、キャストも、物語も、全てわたしの好みに合っていて、この映画が自分にとって大切なものになるのが観ている途中でさえ分かった。
「ねえ、どうだった?」
外に出るなりマイは話し出す。
「なんか、こーゆーの、良くわかんない、難しいね。だけど、なんだか綺麗な映画だなって思ったよ。ツバキってこーゆーのが好きなんだね。少し意外」
映画を観た後、わたしはできるのであればしばらく無言でいたい。観た後の感動をすぐ言葉に変えてしまっては、それはもう感動ではなくなって、ただの感想になってしまう。それが自分が好きだと思った映画ならなおさらだ。
「うん。すごく良かった。意外、なのかな?」
「え!すごく意外だよ。少しエッチなシーンもあったし、純愛って感じじゃなかったじゃん」
純愛。わたしにとってはとても純愛に思えた。そもそも、恋愛なんていうものに定型なんて存在するのだろうか。当人たちの抱く感情が純粋であるのならば、それは外から見てどうであれ純愛と呼べるとわたしは思う。もしかするとこれは、ひかりとわたしの関係に対する言い訳なのかもしれない。きっと、ひかりのことを話したのなら、マイはさらに驚くのだろう。そんなの間違ってる、と言い出すかもしれない。香子は映画を観た後、あまり感想を言わない。好きだったか、そうではなかったか、そのぐらいだ。彼女は基本的に人の感情に干渉してこようとしない。そして、自分の感情も、あまり人に見せることはない。だから居心地がいいのだ。
「そういえばさ、ツバキって、どうして香子ちゃんと仲良くなったの?二人ともしっかりしてて、気は合いそうだけどさ。なんだか、香子ちゃんって周りにバリア張ってるって感じで苦手。私、誰とも群れたりしないわ。って感じでさ、少し怖いよね。それに比べてツバキはみんなに優しいし、頼りやすいし、本当にいい子だよね」
香子の良さを分からないなんて、なんて勿体無いことをしているのだろう。わたしがみんなに心から優しくしたことなんて無い。平等に優しさの真似事をしている方が生きやすいだけなのだ。わたしはいい子なんかじゃない。ずるい子だ。
「でも、たまにさ、本当にたまに、ツバキは誰のことも好きじゃないんじゃないかって思ったりもするよ」
どきりとする。こんなに鋭いことを言う子だったのかと驚くほど。
「そんなことないよ。周りにいてくれる人のことは、みんな大切にしたいの」
「ふうん、そっか。やっぱ優しいね。でも、まあ、もし隠しているツバキが居て、それを私に見せてもいいな〜って思ったらさ、いつでも見せてよ」
もしかして、わたしは彼女のことを誤解していたのかもしれない。大人との恋愛に憧れる、幼く、少し思慮の足りない子だとばかり思っていた。
夕食は二人で安いイタリアンを食べた。少しお酒も飲んで、デザートが運ばれてきたところで、彼女が口を開く。
「私さ、いつも大人がいい大人がいいって言うじゃん?あれね、嘘なの。大人の方が楽なだけ。お金も持ってるし、それにさ、お小遣いくれるし。好きって良く分からないんだよね。だから、私は大人に自分の若さを売ってお金にするの。だけど、たまにとってもとっても寂しくなって、誰かに抱きしめてもらって、寝るまでずっと撫でてもらいたくなる」
少し黙って彼女は続ける。
「だけど、私ってバカじゃん?だから、どうしたらいいか全然わかんないんだよね」
そう言って笑う彼女はとても悲しそうで、わたしは、今日の今この瞬間まで彼女のことを大きく誤解していたことを恥じた。もしかしたら、彼女にもひかりのことを話しても大丈夫かもしれないと思うまでに、彼女への印象は変わっていた。お酒の力も借りてか、あのね。と切り出して、ひかりの話をする。わたしとひかりの話。ひかりとその周りの女の子たちの話。ひかりとゆりさんの話。彼女はわたしが話し終えて氷の溶けてしまったお水を一口飲むまで一度も口を挟まなかった。そして、わたしに今まで見せたことのないような顔で言う。
「もう一軒行こうか、二十四時間やってる喫茶店知ってるんだよね」
きっとわたしも今まで彼女に見せたことのないような顔で頷いていただろう。それからわたしたちは終電の時間になるまで話していた。どちらの終電だったかは記憶が曖昧で覚えていない。ただ、ツバキ、今度どこか遠くまで行かない?彼女のその一言が強く頭に残っている。どこか遠く。今思えば、わたしはいざとなればひかりのもとへすぐ駆けつけられる場所にしか出かけたことがなかった。彼がわたしを求めた時に会えないのが怖いのだ。確かに、良いかもしれない。一度、どう策を尽くしても彼に会いに行けぬ場所に行ってみることも。しばらくしたら夏休みになる。もし香子も同意してくれれば、三人でどこかに泊まりに行ってみるのも悪くない。マイは香子のことが苦手だと言っていたけれど、きっと大丈夫だ。そもそも、ちゃんと話さない限り、香子に対して良い印象を持つ人の方が少ないのだから。
今年の梅雨は例年より長くなるらしく、来週いっぱいまで雨らしい。雨の音は部屋の中まで入り込んできて、日曜日の朝を灰色に染める。片付けなければいけない課題も、人との用事も、ひかりに呼ばれる可能性もない。こんな日は久しぶりな気がする。読みさしの本でも読み切ってしまおう。まだ午前中だけれど、バスタブにお湯を張る。昔からお風呂に浸かりながら本を読むのが好きだった。母親から、行儀が悪いからやめなさいと言われていたのを思い出す。ぬるい温度はわたしを柔らかく包んでくれる。世の中から手のひらでわたしを切り取るみたいに。いつかテレビで見たモツァレラチーズを職人が素手でちぎり取る作業を思い出した。浴室では、時間の流れが分からなくなる。外からの光も入らず、雨の音も聞こえない。まるで本当に世界から取り残されたような気がして、少し寂しくなった。そして、ひかりにとても会いたいと思った。気を紛らわそうと、慣れもしない鼻歌を歌ってみたが、逆効果だったらしく、寂しさに拍車をかけてしまった。本はあと、数ページで読み終えてしまうけれど、もう出てしまおう。浴槽じゃなくたって本は読める。
身体を拭いて、時計を見るとお風呂に入る前から三十分ほどしか経っていなかった。今日という一日の、残された膨大な時間にわたしは絶望する。そのまま昼間のテレビを観て、お腹が空いて、昼食を食べ、そして、またお腹が空いて夕食を食べ、途切れることなく降り続く雨の音を聞きながら、一日が終わっていった。読みかけの本はあれから一度も開かれることはなかった。
夏休みの予定は、九州に行くことになった。意外にも香子はマイと一緒に旅行することを快く受け入れてくれた。大したことは何も起きず、ただいつも通りの一週間が過ぎて、梅雨が明けた。
突き刺すような日差しの季節がやってきた。
そして、ひかりは帰ってこなかった。
いつまでも続きそうな夏の暑さはあまりにもあっけなく終わって、秋が来た。夏休みの旅行は楽しかったように思う。友情と呼ばれるものを初めて実感できた気がした。マイと香子も拍子抜けするほど簡単に仲良くなった。今ではわたし抜きでも遊びに街に出たりするらしい。旅行の後も、夏休み中よく三人で遊んだ。きっと、これが充実した休暇というものなのだろう。でも、ひかりのいない夏なんてあまりに空虚だ。夏に限らず、ひかりのいないわたしの日々はどれだけ他の出来事が意味をつけようとしてきても、決して意味を持つことはない。何度かひかりの家を訪ねてみたこともある。けれど、毎回決まって誰も出てくることはなかった。知らない女の子でも出てきてくれた方がまだマシだった。
イチョウの木が鮮やかな黄色に包まれて、似たようなコートが道を行き交う。ひかりはどこへ消えてしまったのだろう。ひかりに照らされてないわたしなんか、存在していないも同然だ。
突然、スマートフォンから着信音が鳴り響く。今時、知り合いが電話番号に直接かけてくる事なんてない。みんなアプリの機能で通話をするから。だから、基本的に電話番号にかけられてくる通知は、よくわからないセールスだったり、電気会社やガス会社からの乗り換えの案内ばかりだ。けれど、その日は何か違うと思った。なぜだろうか、この電話を取らなければならない気がして、わたしは座っていた席を立ち、カフェの店外へと出て電話を取る。
「あ、こんにちは。椿ちゃん?」
相手が名乗る前に直感的に分かってしまう。ゆりさんだ。初めて聞く声なのに、もうそれはゆりさんそのものだった。ひかりの大切な人。その人の声だ。
「私、百合です。ひかりくんから私のこと聞いてるかしら」
「はい。はじめまして椿です」
声が震えてしまう。ひかりと関係なしにこの人から電話がかかってくるわけがない。ひかりは帰ってきたのだろうか、いや、帰ってきたのならばわたしにもひかりから連絡が来るはずだ、もしかしてひかりに何かあったのだろうか。考えても分からない。とりあえずこの人に会わなければ、もはや、それは義務のような気がした。
「あのね、明後日の日曜日、会えるかな?ひかりくんの最寄駅で待ち合わせで、私、携帯電話って持ってないから、改札の前で待ってるね。私かどうか分かるか不安だけれど」
「大丈夫です」
日曜日に会えることが大丈夫なのか、ゆりさんのことが分かるかどうかが大丈夫なのか、自分でもよく分からないが、わたしは一秒もあけずそう答えていた。
「そう、よかった」
じゃあ、日曜日の午後一時に駅で。そう言ってゆりさんは電話を切った。
心臓が今までにないスピードで血を全身に運んでいるのが分かる。指先でも鼓動を感じることができる。その後、どうやって席に戻り、どうやって会計を済ませ、どうやって家に帰り、そして、次の日の土曜日どうを過ごしたのか記憶が無い。ただ、日曜日の十二時四十五分にひかりの最寄駅に着いた時、ひどく疲れていた。一昨日から、全身が狂ったように脈打っているせいだ。
改札を抜けるとゆりさんが居た。一目で分かる。彼女以外、あり得ないと。
「あら、こんにちは」
わたしが彼女に気づくのとほぼ同時に彼女もこちらに気づく。
「こんにちは、えっと」
言葉に詰まって立ち尽くしてしまうわたしとは対照的にゆりさんは静かに、ゆったりと綺麗に話す。
「あと一人くるの。蓮ちゃんっていう女の子よ。みんな揃ったら近くの喫茶店に行きましょう」
蓮ちゃんというその女の子は一時ぴったりに改札を抜けてきた。エネルギーの塊のような子だった。少しそわそわしているように見えるのはきっとわたしと同じ理由からだろう。
「じゃあ行きましょうか」
蓮ちゃんはゆりさんに対して、はじめましてではなく、お久しぶりですと挨拶していた。わたしが会ったこともない二人なのに、なぜか見たことがあるように感じるのは、二人のどこかにひかりがいるからだろうか。
「ねえ、椿ちゃんって凄く光の匂いがする。匂いというか、光の雰囲気がする」
「それは、蓮ちゃんもよ」
ふふ、とゆりさんは笑う。
「ゆりさんもですよ」
わたし達は顔を見合わせ、何かに納得したように頷く。
「あのね、今日二人を呼んだ理由なんだけど」
喫茶店に着き、ブレンドのコーヒー二つと紅茶が一つ運ばれてくると、ゆりさんが話し出した。わたしと蓮ちゃんの唾を飲む音が重なる。
「ヒカリくんからね、二人の電話番号を預かってて、僕が秋になっても帰って来なかったら二人に連絡して会って欲しいって言われたの。そして、みんなで仲良くして欲しいって」
「それは、つまり、どういうことですか?」
「んー、そのままの意味じゃないかしら。ただそう言われたの。でも、私も二人と会いたいと思っていたし、ヒカリくんが帰ってこなかったら二人と一緒に彼のことを待っていようと思っていたの」
困ってしまう。横を見ると蓮ちゃんは何故か嬉しそうな顔をしていた。
「でも、光がそう言うんだったら、そうしましょう。あたし、椿ちゃんにもずっと会ってみたかったの」
わけがわからない。だけど、そうする他にわたしに選択肢はない。この二人と居ると、一人でいる時よりもひかりを感じることができる。
そこから先の出来事は、わたしの常識を超えていた。ゆりさんが、わたし達二人に、自分の家で一緒に住まないかと提案し、蓮ちゃんはすぐさまその提案に賛成した。わたしは考える余裕もないまま、流れに身をまかせるしかなかった。二ヶ月後には三人での共同生活が始まっていた。
わたしと蓮ちゃんが大学に向かうのをゆりさんが見送り、帰ってくると、大抵はゆりさんが居る。たまに長すぎる昼寝をしていた蓮ちゃんが瞼をこすりながら、おかえりと、あくびと一緒に吐き出す。
三人の共同生活は驚くほど上手くいっている。多分それはゆりさんの経済力も助けになってのことだろうが、二人に対しての不満は一切ないし、二人も不満を漏らすことはない。
「そういえば、二人とも光とセックスはしたんだよね?」
ある日の夕食、蓮ちゃんが突然切り出す。
「したわよ」
どう答えようか、迷っているうちにゆりさんが答える。二人とも、貴女は?という顔でこちらを見つめてくる。
「うん。あるよ」
蓮ちゃんは満足そうに頷いて、えへへ、なんだか嬉しいなぁ、と笑っている。
「あたし達みんな、光で繋がってるんだね」
ただ文面だけを見たら、とても下品なはずのその言葉が全くそう感じないのは、わたしがおかしくなってしまったからなのだろうか。その後はひかりとの行為の話になった。一番驚いたのはゆりさんがひかりと一度しかしていないということだ。軽井沢に行っていた時、最終日に一度だけ。
「なんだか、面白いわねえ」
ゆりさんはにこやかにそう言って蓮ちゃんは大きく頷くが、面白いと思っていいのだろうか。いや、もう、わたしにはこの状況を処理することができない。だから、二人の意見をわたしの意見にするしかないのかもしれない。
ひかり。どこへ行ってしまったの。早くわたし達の前に姿を現して。奇妙としか言えないこの生活に慣れてしまっている自分が怖い。まるで、晴天の中で降る雨の下に居続けているようだ。日常の隣に潜む、名前のない世界にわたし達は生きている。きっとゆりさんは産まれてからずうっとここで暮らしてきたのだろう。ひかりもそこに招かれ、そして、わたし達二人も招かれてしまった。招待を受け入れてしまったのであればもう抜け出すことはできない。生きていくのだ、ここで。ひかりを待ちながら。ひかりが帰ってきた時、わたし達はどこへ向かうのだろうか、向かう場所はあるのだろうか、今は考えることをやめよう。その時が来たら答えは見つかるはずだから。
日々は、あっという間に、とてもスムーズに過ぎていった。わたしと蓮ちゃんは大学を卒業して、就職をした。内定祝いや卒業祝い、就職祝いも全て三人で行った。もちろんその間も、わたしは香子やマイと遊んだり、卒業旅行にマイの希望で韓国まで旅をしたりと真っ当な大学生の様な事をしたし、蓮ちゃんの方も、よく学校の友達と出かけていた。しかし、大学生活を思い出そうとしても、ひかり、ゆりさんと蓮ちゃん、そして三人の家のことしか思い浮かんでこない。わたしの思い出は正常な世界の側に置いてけぼりにされてしまっている。こちら側に生きているわたしにはもう、こちら側の出来事しか鮮明に思い出すことはできなくなってしまっていた。
今日は久しぶりに香子とマイとの夕食だ。就職をして一年近く経っても、わたし達は相変わらず時折集まっては近況を報告しあい、仕事の愚痴を吐き、美味しいものを食べ、適量のお酒を飲む。
「それにしてもビックリだよね。まさか香子がママになるなんてさ」
「私も、ほんとビックリ。こんな未来想像してもいなかったもの。一生バリバリのキャリアウーマンで結婚もせず仕事一筋の人生を送るつもりだったのに」
そう言いながら、香子はとても幸せそうな表情をしている。妊娠が分かったのはつい最近で、まだ家族とわたし達二人にしか話してないらしい。半年前、私、結婚するの、と驚かせてきたばかりなのに、もう次のサプライズだ。結婚式もまだだというのに。
「香子の結婚式、来年の夏だったよね?あと半年くらいか〜、楽しみだな。わたしマタニティ用ののウエディングドレスって初めて見るな」
羨ましそうに話すマイも、大学四年生の時に付き合い始めた一つ年下の彼氏とはうまくいっているらしい。カレが就職をしたら同棲を始めるのだと、いつだったか、横顔を夕日に照らされながら話していたのを覚えている。わたしの数少ない友人二人が二人とも幸せに満ち溢れていることに、わたしは安心する。この二人が正常な世界で幸せに暮らしているとおもうだけで、救われている自分がいる。もう、わたしはたまに顔を出すことしかできない、そちらの世界との唯一の繋がりなのだから。
「ねえ、ツバキはどうなの?さっきからニコニコ私たちの話聞いてるだけじゃん」
お酒を飲んで普段以上に饒舌になったマイが問い詰めてくる。香子はお酒は飲んでいないが、私も気になるなぁ、と言いたげな顔で訴えかけてくる。
「うーん、まだ帰ってこないんだよね」
なにかを誤魔化すように半笑いになってしまう。
「まだ帰ってこないんだよね、じゃないでしょ!どうするの?このままいつまでも待つ気?一生帰ってこないかもしれないんだよ?」
助けを求めるように香子の方を見る。
「この件に関しては、私もマイと同意見かもしれない。椿の生き方を尊重したいけど、見ていて不安にもなる。友達だもの」
ごめん。二人とも。これはもう、わたしの意思でどうにかなるものじゃないの。どこかで決まってしまったことなのだ。
どうやって二人に伝えたらいいか分からない。
「ごめん。多分、わたし、もうこの生き方しかできない」
これが今のわたしにできる精一杯の誠実さだった。
「んーー、もう、今日は帰さないからね。もちろん香子は旦那さんのところに帰ってもらうけど、ツバキは朝まで付き合ってもらうから!」
なんて優しい友人を持ったのだろうか。二人は絶対にこれ以上踏み込んでは行けない場所には踏み込もうとはしてこない。でも、それでいてわたしを突き放したりはせず、同じ空間に居られる時はなるべく側に寄り添おうとしてくれる。
そうだね。カラオケにでも行っちゃおうか。せっかくの金曜日だしね。本当は嬉しくて泣きたい気持ちを抑えて、わたしは笑う。
「いいなぁ、羨ましい。私もこの子を産んで落ち着いたら、二人と朝まで遊びたい」
「そうよ、旦那さんにも育児はさせなきゃね」
三人の笑い声が、イタリアンレストランに響く。よかった。この空間では、時間は止まったりなんてせず、当たり前に流れていた。
「春になったら海に行きましょう」
ある冬、土曜日の夜、ゆりさんが思い出したようにそう言った。
「いいですね」
わたしと蓮ちゃんはほぼ同時に声を被らせて答える。こういう時に声まで被ってしまうようになってしまったかと、なんとも言えない気持ちで目を合わせる。
外では雪が軽やかに落ちていく。空気の動きに身を任せて、地面に待つ仲間たちのもとへと。
「二人は今年のお正月はどうするの?」
「あたしは、デザイナー仲間とみんなで年越しパーティーです」
蓮ちゃんは、服飾系の学校を卒業して、そのまま大手のアパレル企業の専属デザイナーになってしまった。業界に詳しくないわたしにも、それが簡単にやってのけられるものではないと分かる。
「わたしは、ここにいます」
去年と一昨年は実家に帰って来いと親に言われて、実家で年越しをしたけれど、ひかりのいない地元は、わたしの帰る場所とは思えなくて居心地が悪かった。今年は仕事が忙しいとか適当な理由をつけて帰らずにいようと思っている。
「じゃあ、一緒に年越しね」
「でも、でも、その前に三人でクリスマスパーティーしましょうよ」
あたしだけ仲間はずれなんてずるい、と蓮ちゃんはむくれる。
「仲間はずれになんかしてないわよ。それに、私たち、死ぬまで一緒じゃない」
ゆりさんのその言葉に屈託なく笑って頷く蓮ちゃんが怖い。そして、理性では怖いと思っているが、本能では受け入れているわたしもどうかしているのだろう。
「クリスマスも、もう一週間後ね、ヒカリくんが居なくなって二年と半年も経つのね。なんだか時間が進んでいる気がしないわ」
そうか、ひかりが居なくなってそんなに多くの時間が過ぎていったのか、もしこのままひかりが帰ってこず、わたしは年老い、死んでいくとしたら、わたしの人生に何の意味があったのか分からなくなってしまいそうだ。
蓮ちゃんの方を見ると、親指の付け根を噛みながら、何か考えているようだった。
「ほら、また噛み癖出てるよ」
一緒に暮らしていると、その人の癖がよく分かる。彼女は何かに集中している時、自分の指を噛む癖がある。
「あ、、気づかなかった。もし、光が帰ってこなかったら、あたしの人生、二十一歳で止まったも同然だなぁ、と思って。考えてた」
ならば、わたしの人生も二十一歳で止まったも同然だ。
そういえば、わたしはゆりさんの年齢を知らない。今まで聞く機会もなかったけれど、二年以上一緒に住んでいて、年齢を知らないということは、今思えばとても不自然な気がした。わたし達はなぜか誕生日を祝いあったりはしてこなかったからかもしれない。それはきっとひかりのいない世界で歳をとることをどこかで拒否していたのだろう。
「そういえば、ゆりさんは何歳なんですか?」
「ああ、二人とも知らなかったのね。ヒカリくんから聞いていると思ってた。二人とヒカリくんの九つ歳上よ」
そこまで歳が離れていたとは思わなかった。外見では歳が判断できない人だとは思っていたが、せいぜい三つ四つの歳の差だと思っていた。
「驚きました。たしかにゆりさん、肌とかあたしなんかよりすっごい綺麗で、シワもなくて、歳のわからない人だな〜って思っていたけど、そんなにお姉さんだったんですね。あたしきっとあと十回人生を送ってもゆりさんみたいにはなれないなぁ」
まさにそうだ、と蓮ちゃんの言葉に同意する。
ありがとう、綺麗だなんて照れちゃうわ。と本当に、本気で照れている。ここまで美しくて、無垢で、そして、得体の知れない生物をわたしは他に知らない。
「クリスマス、楽しみね。待ち遠しい」
ゆりさんは立ち上がり、自分の寝室へと向かう。寝室といっても、彼女のベッドはもともとのリビングにあり、カーテンで仕切りを作り、そこが彼女の部屋になっている。広すぎるほどのダイニングがリビングとして使われ、余った四つの部屋のうち二つがわたし達の部屋だ。
「椿、明日仕事ないよね、ちょっと散歩しよ」
寒いねぇ〜、手袋つけてきたら良かったな、薄く積もった雪をキシキシ音を立てて踏み潰しながら蓮ちゃんはこちらを振り向く。
「ねえ、蓮ちゃんの中の光の話、聞かせて」
手、繋いでくれたら良いよ。そう言いながら、わたしの返答を待たずに指を絡めて話し出す。
「光は、あたしにとって救いだった。あたしね、女の子しか好きになったこと無いって言ったっけ?多分ね、あれ間違ってるの。女の子のことも好きじゃなかったのきっと。光に対しての感情が好きっていうものなら、あたしは光のことしか好きになったことがない。いつもいつも、楽しいことを探してた。あまりにつまらない生活に色彩を与えたくて何でもやってみた。でもね、光とあった時、そんなあたしの努力なんて全部台無しになっちゃうぐらい、世界が色彩を帯びたの。この人を思い続けることだけが、あたしの人生だって思った。ねえ、椿の知ってる光の話もしてよ。あたしとゆりさんの知らない昔の光の事とかさ」
救い、か。痛いほど分かる。わたしは昔からひかりのいる世界で生きてきた。けれど、ひかりに出会えずに歩んできた蓮ちゃんの人生は酷くつまらないものだったのだろう。
「ひかりはね、昔っからずるかったよ。いつでも、わたしにていねいに触れて、純粋な優しさをわたしにくれた。そしてね、それら全部がずるくないのが、ずるかった」
「もう、昔から光は光だったんだね。それは、椿、幸せだったねえ、そして、大変だったね。よく他のもの全部がどうでもよくなったりしなかったね。あ、ここ、光と初めて会った時、二人で焼肉食べにきたお店。懐かしい。きっと、この辺りの道を、あたしも椿もゆりさんも光と一緒に歩いたんだよね。もしも四人で歩いたらあたし達、周りの人からどう見られるんだろう」
ひかりの話をする蓮ちゃんはいつも楽しそうだ。二人が居なくても、わたしはひかりをずっと待てるのだろうか。他の男の人を好きになることは絶対にないと言い切れる。だからこそ、一人で待っていたら、わたしはどこかで自殺の道を選んでいただろう。あるいは、ひかりを探してあてもなく世界中をさまよい、どちらにしろどこかで死んでいただろう。ひかりにはそれがバレていたのかもしれない。わたし達三人の誰一人として欠けずに生きていけるような場を用意してくれたのだろう。なんて傲慢で、なんて優しく、なんて非情なのだろう。
さっきまで降っていた粉雪は止んでいる。
「そろそろ帰ろっか、その前にコンビニに寄って行こ。ハーゲンダッツのバニラが食べたい気分」
蓮ちゃんはわたしの腕をコンビニへと引っ張っていく。
帰ろう。わたし達の家に。わたし達が帰るべき場所に。わたし達がひかりを待つ場所に。何度でも帰ろう。
音を絞ったラジオからディスクジョッキーの声が聞こえてくる。今年も残すところ後一分ですね。皆さま、来年も共に良い年にしていきましょう。それでは、良いお年を。
時報が鳴り、年が明ける。
「ゆりさん。年が明けましたよ」
「あら、もう」
明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。わたし達はお辞儀をしあって少しはにかむ。
ドアが開く音がして、蓮ちゃんが帰ってくる。
「あれ?友達達とパーティーじゃなかったの?」
「うん。そうだったんだけどさ、年越しはやっぱり二人と一緒に居たくて。走ったんだけど間に合わなかった」
悔しそうに息をきらしながら、明けましておめでとう、とお辞儀をする。
「三人揃ったし、おせちでも食べましょうか」
ゆりさんは冷蔵庫にしまっていたおせちを取り出す。
そもそも、おせちを食べる正しいタイミングっていつだっただろうか、きっと、年明けの深夜に食べるものではない。三人でつつくおせちはとても美味しかった。こんな時間にお腹いっぱいになるまで食べてしまった。残りはまた明日にとっておき、もう一度新年の挨拶をしあって、お互いの部屋へと向かう。
部屋に戻ったはいいが、いつまでたっても眠気がやってこない。
目を閉じて去年のこと、今年のことを考えてみる、去年もひかりは帰ってこなかった。今年は帰ってくるのだろうか。帰ってきたら、わたしはどうなるのだろうか、わたし達三人はどうなるのだろうか。世の中は正常に回っている。人が人を救い、人が人を殺している正常な世の中で誰も救わず誰も殺さず、たった一人を待っているだけの異常なわたし達の生活。これはもう、意地というより宗教みたいなものなのだろう。祈りのような生活だと思った。もう、夜が明ける時間だ。寝るためにホットミルクでも作って飲もうと思いダイニングに出て行くと、ゆりさんがいた。
「まだ起きてたのね。眠れないの?」
「はい。ホットミルクでも飲もうかなと思って」
「そう、ちょっとこっちにきて」
自分の部屋へ続くカーテンを開いて手招きする。まだ一度も入ったことのないゆりさんの部屋だ。
「ほら綺麗でしょう」
部屋の中には、窓から青い空気が入り込んで、小さな香水瓶達が優しく光を反射している。
「私、この時間が好き。夜にも朝にも属せない、世界から仲間はずれにされたようなこの時間が」
ゆりさんのシルクの白いパジャマが青い光に淡く染められて綺麗だった。
青い時間はすぐに終わってしまう。もうすでに青は薄くなり、透明になろうとしていた。
「きっと、ヒカリくんもそろそろ帰ってくるわ。帰ってきたら、みんなで美味しいものでも食べに行きましょう」
ひかりは今どこで誰と新年を迎えてるのだろう。
世界を包み込んでいた青は、色を失い透明になっていた。どこかで初日の出が上がったのだろう。
ゆりさんはひかりはそろそろ帰ってくると言った。きっと、帰ってくると。根拠はないのだろう。今年も帰ってこないかもしれない。しかし、彼女がそう言ったというだけで、どこかで安心してしまう。もうホットミルクは要らない。よく眠れる気がした。起きたら三人でまた重箱をつつくのがとても楽しみに思えた。寝よう。ゆっくり、充分に。あと何百回か何千回か、寝ていればひかりに会えるのだ。ゆっくり寝ていればいい。
春になったら海に行こうというゆりさんの提案をわたしがすっかり忘れ去っていた五月。
「今度の連休、熱海の旅館にでも行きましょうか。鎌倉にある別荘でも良いけれど、みんなで温泉に入りたいわ」
「良いですね!熱海って初めて行くなぁ。というか、ゆりさん鎌倉に別荘持ってるんですね」
簡単に進んでいく二人の会話について行けていないわたしに対して
「ほら、みんなで海に行こうって約束したでしょ?」
忘れちゃうなんて寂しいと蓮ちゃんはわざとらしい顔でじっとりとわたしに視線をよこす。
そういえば、そんな話もした気がする。まさか本気で実現させるつもりだとは思っていなかった。三人で出かけると言ってもいつも近くのお店か、遠くても首都圏にあるレストラン程度にしか行ったことがない。この二人との泊まりの旅行なんて想像がつかない。なにせ、ほぼ毎日同じ家で寝ては起きているのだから。
熱海の旅館は想像していた通り、とても綺麗で従業員の気配りの行き届いてる旅館だった。ゆりさんがお金も全て出すと言って予約したのだ、きっとわたし一人では一生泊まることのない宿泊料の旅館なのだろう。怖くて聞きもしないが。
「今日は移動で疲れたし、ゆっくり温泉にでも入って、お料理を頂いて、寝ましょう。朝、海辺に散歩にでも行けたらいいわね」
「あたし、温泉って本当に久しぶり。すっごく楽しみにしてたんですよ」
着くなり、早速浴衣に着替えた蓮ちゃんが二人とも早く早くとはしゃいでいる。
旅館には大浴場もあったが、貸切専用の露天風呂をゆりさんが予約していたためわたし達は大浴場とは別の階に案内される。
露天風呂からは、海が見えた。暗い景色の中、黒い波の先で白い泡がはじけている。ヒノキのお風呂なんてものを初めて見たけれど、なるほどこんなにもいい匂いなのかと感心してしまった。鼻から息を吸い込むと、磯の匂いとヒノキの香り、そしてどこからか森の匂いがやってくる。蓮ちゃんもわたしもかなり浮かれていた。
「ほら、二人とも服なんて着たままじゃせっかくのお風呂が勿体ないわ」
さっさと脱衣所に向かってしまうゆりさんを追いかける。
二人の裸姿を見るのは初めてだと気づく。それぞれひかりと繋がった身体が三つ、何も隠さず、同じお湯の中にいる。このまま、温泉の滑らかな温度にわたし達三人が溶けてしまったら、ひかりはそのお湯を飲むのだろうか、なんて気持ちの悪い想像をしてしまう。
「ふあー、気持ちいいね。月並みだけどさ、温泉に浸かると、生き返る〜って言いたくなるのなんでだろう」
本当に気持ちが良かった。ゆりさんも気持ちよさそうに目を細めて笑う。
「泊まってる間は、このお風呂ずっと抑えているから、清掃時間以外は自由に入れるわよ」
「あたし、明日の朝入ろっかなぁ、日の出も見ながら」
「ここからは日の出は見えないわ、見えるのは夕焼けね。だから、明日の朝はみんなで海にでも散歩に行きましょう。早起きして」
空は暗くなり、星が見えてきた。いつもより多くの星が見える気がしたが、東京と大して変わらない気もした。星はわたしに見られてることなど気にもせず自らを燃やしていた。ここよりも、もっと暗い、闇の中で。
蓮ちゃんに揺すぶられて目を覚ます。
ほら、海に散歩に行くよ。早く準備して。
そんな事を言っていた気がする。外を見るとまだ暗かった。今が何時かも分からないが、わたしは寝ぼけ眼で浴衣の上に上着を羽織る。
昨夜はお風呂を出て、とても美味しい夕食を食べた。お造りはその日水揚げされたであろう新鮮な魚で、お米も普段より数倍美味しかった。わたし達は少しの日本酒を飲んで、上機嫌で三人、文字通り川の字で眠りについた。眠りにつく前にゆりさんが何か呟いていた気がする。わたし達二人に向かって言ったのか、独り言だったのか分からないけれど、どうしようもなく寂しい気分になったのを覚えている。
ゆりさんは海辺がよく似合っていた。冷たーい!と足を水につけてはしゃいでいる蓮ちゃんとうつむきながらたまに何か拾っているゆりさんをわたしは五歩ほど後ろで眺めている。
灰色の砂浜。藍色の海。青い空気。まるでピカソの青の時代の絵画に迷い込んでしまったようだった。
「ほら、見て。綺麗なビーチグラスでしょう。ツバキちゃんとレンちゃんにあげるわ。四つあるから、一つはヒカリくんのね。いつかみんなでお揃いの指輪でも作って、このガラスをはめましょう」
ビーチグラスは角が取れて柔らかな丸みを帯びている。遠い昔にどこかの誰かが使ったガラスの破片が、今わたしの手のひらにある。表面を指の腹で撫でると微かなざらつきが心地いい。ビーチグラスに透けた空気の青がわたしの指先から、肌へ、内臓へ、侵入してくる。このまま静かに、とても静かに青に染まっていって、空気になって、どこかでひかりが吸っているであろうタバコを通って彼の中に入り込んでしまいたい。
もし、死ぬ前に走馬灯をみるのであれば、この瞬間はきっとその時わたしの瞼の裏に映るだろう。静かで青い時間に青に染まってしまった女達が、笑いながら浜辺を歩いていく。誰にも知られることのないこの世界で。
「二人はヒカリくんに恋しているの?」
三人並んで砂浜に座り波を眺めているとゆりさんが脈絡もなく切り出す。
「もちろんですよ〜、もう、なんて言うか、恋と呼んで良いのか分からないぐらいに恋をしていますよ」
「可愛いわね、レンちゃんは。いつも真っ直ぐで可愛い」
ツバキちゃんは?とわたしの方を見つめる。
「わたしも、出会った時から今までずっと恋をしています」
「ならみんな一緒なのね、恋したのは私が一番最後かしら」
「え、でも、あたしが光に出会う前からゆりさんは光と出会ってるでしょう?だから、あたしが一番最後じゃないんですか?」
確かにそうだと、わたしも頷く。
「私はね、軽井沢でヒカリくんに恋したの。私達は愛し合って愛し合って、一番最後に恋をしたのよ。ヒカリくんも、二人に恋をしてるわ。そう言っていたもの」
その話、もっと詳しく聞かせてください。と蓮ちゃんがゆりさんに身体を寄せる。
「大丈夫よ。私達三人に恋してる男の子が帰ってこないはずがないじゃない」
蓮ちゃんの質問の答えになっているのかなっていないのか分からない事を言ってゆりさんは立ち上がる。
「宿に帰りましょうか、あと二泊もあるわ、美味しいものを食べて、温泉に浸かって、二人ともお仕事への英気を養ってちょうだい」
熱海から帰っても、度々そのビーチグラスを引き出しから取り出しては、手のひらに乗せて眺めた。あの時わたしが見た色はもう失われてしまったけれど、明け方の青い時間にビーチグラスを透かせば、再びわたしを青く染め上げてくれる。
今日は、大事な日だ。親友の香子の結婚式。朝早く起き、ドレスに着替え、マイと合流して美容室で髪を整えてもらう約束だ。
約束の五分前に美容室に着くと、マイはすでにそこにいた。
「ごめん。待たせた?」
「大丈夫。なんかねえ、香子の結婚式だと思うとソワソワしてよく眠れなくて、早く来すぎちゃったの」
わたし達二人は自分のことのように晴れやかに笑う。いや、もしかしたら、自分のことではないからこそ晴れやかに笑うのかもしれない。
「楽しみ。香子、絶対綺麗。お腹に子供がいながらウエディングドレスを着られるなんて、これ以上の幸せある?」
これは、質問ではないのだろう。キリスト教徒でもないわたし達が教会での式にここまで憧れるのはどういう理由なのだろうか。自分の愛した人と、共に着飾り、周りからの祝福を受ける。理由はそれだけで充分か、と自己完結して、そうね、きっと今日は香子がこの世の誰よりも綺麗だねと鏡ごしにマイに言う。ゆりさんというこの世の生き物ではない一人は除いておくとして、と心の中で付け足す。
予想通り、香子はとても綺麗で、式は素晴らしいものだった。マイは大泣きしながら笑っていた。それを見た香子もメイクが崩れないようにと堪えていたであろう涙を零して、微笑んでいる。
香子のパートナーの男性も人の良さそうな笑みを浮かべて、抱き合うわたしたちを眺めていた。
「香子〜、幸せになるんだよ」
泣きながら、ほとんど聞き取れない声でマイはもう一度抱きつく。
「もう、充分過ぎるくらいに幸せよ。私の幸せを泣きながら祝ってくれる友達がいて、愛している人がいて、その人との子供までお腹の中にいるんだもん。マイが泣き過ぎるから私の涙引っ込んじゃったじゃない」
泣きじゃくるマイに呆れながら、笑う。わたしは今頃になって号泣してしまう。小学生の頃みたいに声を上げてわんわん泣いた。そんなわたしを二人は驚いたように眺めて、そして、優しく包み込んでくれた。
「私のお色直しのメイクさんに二人も一緒に直してもらお」
ほら行くよ。とお腹の大きな香子が一番しっかりと歩み、泣いている大人二人の手を引っ張る。
荷物持ちますよ。と、香子の旦那様が言い。もう、本当に良い人と結婚して。と、またマイは泣きだす。
こんなに泣いたのは、というか、泣くこと自体いつぶりだろうか。何年も涙を流してなかった気がする。思う存分泣いたからか、マイとわたしはとてもお腹が空いてしまって、披露宴の食事ではお腹いっぱいにはなれなかった。
二次会は、双方の本当に仲の良い友人と親族だけを呼んでいたらしく、招かれていた人は十人ほどだった。香子の両親は私達は居ても置物になるだけだからと先にホテルの部屋に帰ってしまったらしい。それ故、香子側の招待客はわたしとマイの二人だけだった。わたし達は三人でずっと話し込み、たまに旦那さんの連れてくる友人を交えては大学の頃の話や、産まれてくる子供の話に花を咲かせた。香子が妊娠していることもあって、二次会は午後十時前にはお開きになった。
「子供産まれてたら、私達にも抱っこさせてね」
マイがそう言ってもう一度涙ぐんでいる時、わたしのスマートフォンが音を鳴らす。画面をみると蓮ちゃんからだった。蓮ちゃんから電話がかかってくることは滅多にない。その上、今日は親友の結婚式だと伝えておいたから、よっぽどの用なのだろうとわたしは二人に謝りを入れて電話に出る。
「椿、落ち着いて聞いてね」
本当に落ち着いて聞いて、と繰り返す。
「うん。分かったから、どうしたの?」
あのね、光が。ひかりという言葉でわたしは念を押されていたにも関わらず、取り乱し、蓮ちゃんの言葉を遮って聞き返してしまう。
「ひかり?ひかりがどうしたの?ひかりに何かあったの?」
わたしの口から出たひかりという言葉にマイと香子も神妙な顔つきになる。
「だから、落ち着いて。最後まで聞いて。光が帰ってきたの。親友の結婚式だって言っていたけど、椿にはすぐ伝えなくちゃと思って」
「帰ってきた?」
ずっと待ち望んでいたことなのに、わたしはその現実がうまく受け入れられない。頭がショートして真っ白になる。
「急にゆりさんの家に帰ってきて、すぐ寝ちゃった。ゆりさんも家に居る。代わるね」
「ゆりさん?ひかりが帰ってきたんですか?」
「そうよ、本当についさっきね」
電話越しの声がとても遠く聞こえる。分かりました、と、弱々しく返しわたしは通話を切る。
「すぐ帰りな。椿、大丈夫?今すぐ帰るのよ」
香子がわたしの肩を掴み真っ直ぐわたしの顔を見る。マイもその後ろで真剣な顔で頷いている。
そのままタクシーを捕まえて、住所を伝え、家に戻る。タクシーの中での事は覚えていない。去っていく景色を呆然と眺めていただけな気がする。着きましたよ、と運転手に声をかけられるまで、家の近くに着いたことさえ気がつかなかった。鍵はかかっていなかった。ドアノブを持つ手が震えている。このドアを開けたらひかりがいる。ひかりがこの部屋の中にいる。ドアノブを回した音が聞こえたのか、蓮ちゃんが出てきてわたしを招き入れる。
「どうしたの、早く入って」
立ち尽くしているわたしの手を引っ張って部屋の中に入っていく。靴を揃える暇もなく、脱ぎ散らかしてしまう。
カーテンの空いたままになっているゆりさんの部屋に入り、ベッドをみると、それは、とても安らかそうな顔をして寝ていた。ああ、ひかりだ。遊び疲れた小学生のような顔で寝ている。ああ、ひかりだ。とまた心の中で繰り返す。待ちに待ったこの日がついにやってきてしまった。
夢をみていた。
夕暮れが沈む道の向こうから、ゆりさん、椿、蓮が手を振っている。不思議なのは、三人とも子供の姿だということだ。三人は僕を呼んでいるようにも、お別れを告げているようにも見えた。僕はそこに向かって歩いて行って良いのか、それとも振り帰って今来た道を戻った方が良いのか分からなくなって泣き出してしまう。三人は僕の方へ駆けだして、どうしたの?と心配する。涙を拭く自分の手が、幼い頃のそれだと気付いたところで夢は終わった。
目覚めると、いつもとは違う天井が目の前にある。僕の家でも、ゆりさんの家でもない。そこで、ゆりさんと一緒に軽井沢の別荘に来ていたのだと気がつく。彼女はいったい幾つの別荘を持っているのだろうか。前に鎌倉にも別荘があると聞いたことがある。
目をこすりながら階段を降りると、彼女が朝食の準備をしていた。朝食の準備といっても、軽井沢にあるベーカリーにパンを届けさせ、彼女は紅茶を淹れているだけなのだが。パンは朝に焼きあがったものなのだろう、小麦粉の良い香りが鼻をくすぐる。
「あら、美味しいパンが届いたから起こしに行こうと思ってたところだったの。まだ早いのに今日はお寝坊さんじゃないのね」
「なんか、変な夢をみちゃって。それより、そんな量のパン二人じゃ食べきれないよ」
「そうなのよね、いつもここに来るたびに食べきれない量のパンを届けにきてくれるのよ。あとでお向かいの家族に届けに行きましょう。いつもそうしているから」
ゴマ入りのベーグルにクリームチーズと生ハムを挟んで食べる。正直、パンという食べ物を少し馬鹿にしていたのを改めなければと反省する。こんなに美味しいパンがあったなんて驚きだ。
「今日は何をする?」
「何をするって、昨日も一昨日も、何もせずに読書をして、映画を観ただけじゃない。あ、今日は昼の間は晴れるらしいからお散歩にでも出かけようかしら。きっと、この時期は森の匂いが強くて気持ちがいいわ」
梅雨に入って、三日目あたりに、ゆりさんは突然僕を軽井沢に誘った。なんだか毎日雨だから、という理由で。いつでも行けるから、準備したらまたいらっしゃい、と。
僕は一度家に戻り、着替えだけを持ってゆりさんの家のドアを再び開ける。じゃあ、行きましょうか。そう言って、誰かに電話をかけると、十分後には家の前に大きなキャンピングカーが止まっていた。キャンピングカーの中は僕の部屋よりも広く、僕の部屋よりも何もかもが揃っていた。君はたばこ吸うでしょう?灰皿も買って来させたのよ。テーブルにはバカラの灰皿が置かれていた。もらっていっても良いわ、と言うが、僕の部屋にこんなものを置いても、浮いてしまってしょうがないだろうと断っておいた。
雨の切れ間に、向かいの家族にパンを届け、散歩をする。たしかに森の匂いが強く漂っている。たくさんの雨を吸い上げ、緑はその色を濃くして、喜んでいるようだった。道には木漏れ日が揺れている。
「そう言えば、ここにはいつまで居るつもりなの?」
「君が帰りたいと思うまで居るつもりよ」
振り返って彼女は笑う。
帰りたいと思うまで、か。だとしたらそれは蓮や椿に会いたいと思った時なのかも知れない。僕はゆりさんを愛している。けれど、同時にあの二人に対しても特別な感情を抱いている。普通であれば、それは咎められる事なのかもしれない。しかし、その三人は文句の一つも言わないどころか、ゆりさんと蓮はそれをとても喜ばしいものだと思っているようにも感じる。
「レンちゃんとは、私と会った後にも会ったりしてる?」
その質問は嫉妬からくるものではなく、純粋な興味からくるもので、それに会っていることを彼女が望んでいることを僕は知っている。
「うん。何度も会ったよ」
「ツバキちゃんとは?」
「椿とも会ってるよ」
彼女は満足したように頷いてまた歩き出す。
振り向くと、僕らの泊まっている別荘はもう見えなくなっていた。隣を歩く彼女は鼻歌を歌っている。曲名は分からないが、彼女の家でよく流れているピアノ曲だ。周りの景色は全て木々になっていた。枝が風に揺られる音、見えはしないけれど、どこかで流れる川の音、どこかで時折高い音で鳥の鳴く音、彼女の鼻歌、そして四本の足がたてる足音、それらが静かな森の中ではっきりと耳に届く。ざわざわとノイズのような音が聞こえた気がした。それは耳から聞こえてきたわけではなく、多分、心から聞こえてくる音なのだろう。
「聞こえる?」
「うん」
彼女の問いかけに、僕は悟る。多分、おそらく、いやきっと、今日僕らはセックスをするのだろう。彼女の指が僕の指に絡むと二つのノイズがぴったりと重なって和音になった。
僕はこの時を待っていたのだろうか、それとも避けてきたのだろうか。どちらでもない。ただその時が来たのだった。
木漏れ日は急に灰色に変わり、雨が降ってきた。雨はだんだんとその強さを増していく。
絡められた十本の指が来た道を走りながら戻る。わざわざ横を見なくても彼女が笑っているのが伝わってくる。
ドアを開け、お互いのシャツのボタンを外し合う。身体についた雨はシーツが吸い込んでくれるだろう。雨に打たれたというのにゆりさんの身体からは香水の匂いがした。二つの輪郭は形を失い。一つになった。そこにはすべての感情が流れているように感じた。ゆるく、ぬるく、這うように、さみしさが流れる。穏やかにせせらぐ小川のように、幸せをきらきらと乱反射しながら、海へ、ゆっくり、仲間を集めながら。喜びはその小川の上を涼しくそよぐ風になって空へと帰っていく。
お別れを告げられているような気がした。誰から告げられているのかは分からない。
ただ、それは、とても気持ちのいいお別れであった。頭に浮かぶのは、黄金色に焼けたホットケーキの最後の一口、皿に残った溶けたバターとメイプルシロップをすくって食べる一番甘く、そして、一番濃厚な一口、食べてしまうのがもったいない気がして、少し呼吸を置く。しかし食べてみるとそれは口の中で甘く優しく温かく溶けていき、舌の上に少しの切なさと名残を残したままようやくお腹が満たされたと感じる。窓から差し込む淡い日差しに白いお皿が浮かび上がっている。そしてそこに確かにあるのは幸福と呼ぶ以外には言葉の見つからない感情なのだ。そう、そういうお別れだった。
僕は何に別れを告げられたのだろう。何に別れを告げたのだろう。そう思いながら煙草に火をつけようとした時、さっきのざわざわというノイズの正体に気づく。あれは恋なのだ。ゆりさんを死ぬほど愛して、そして今日ついに彼女に恋をしたのか。順序もへったくれもないなと我ながら呆れてしまう。
「ゆりさん。僕は貴女に恋をしてしまったみたいだ」
「恋ってどんなもの?」
「貴女の手、貴女の指先、貴女の瞳、貴女の髪の毛、貴女の香り、貴女の心、貴女の言葉、貴女の息遣いだよ」
「そう、それじゃあ私も今日君に恋をしてしまったらしいわ」
「だけど、今はあの家に帰ることは出来ない。上手く言えないんだけど、帰れないんだ。ゆりさんは先に帰っておいて欲しい。いつになるかは分からないけれども、きっと僕も帰るから」
「分かったわ。帰ってきたら一緒に暮らしましょう。働きたければ働いたらいいし、働きたくなければ働かなくていいわ。ただ一緒に生きるの。それだけで幸せで、それだけが幸せなのよ。きっとね」
ゆりさんの言うことは正しい。僕らにある幸せはそれだけなのだとさっきまでの行為が僕に確信させていた。でも、だからこそ僕は今すぐそうなってしまうことに怯えている。それは、もう後戻りはできない世界で暮らしていくことを意味しているはずだから。
「一緒に暮らす時、椿と蓮にもいて欲しい。もし僕が秋になっても帰って来なかったら、二人と連絡を取って、できれば仲良くしていて欲しいんだ。連絡先は後で教えておくから」
「君にそう言われなくても後で二人の連絡先を聞くつもりだったわ。好きな時に戻っておいで。きっと私たち、三人で仲良く待っているから」
その言葉に安心して、火をつけようとしていた煙草をベッドサイドのテーブルに置き、僕は眠りにつく。雨の音は続き、昼間の空気は煙たく灰色に染まっていた。
夢ではなかった。
本物のひかりが目の前で寝ている。たまらず、ひかりの肩を揺さぶり、起こす。
「ああ、随分久しぶり」
何が随分久しぶりだ、聞きたいことが溢れ出してしまう。
「どこに行っていたの?なぜ帰ってこなかったの?これからはどうするの?」
「水平線を見て、地球って丸いんだなって思ってさ、丸いってことはゴールはないんだよ。そしたら、帰りたくなったんだ」
ひかりは再び目を閉じる。何にも答えになってないじゃないか。
「仕方のない男の子」
ゆりさんが微笑みながらひかりを見つめる。
「ほんとに、そうですよね」
蓮ちゃんはニッコリと笑う。
わたしも、力なく笑ってしまう。こんな時、どういう顔をしていることが正解なのだろう。
正解なんてない。ただ地獄とも、天国とも言えないこの日々に流されていくだけなのだ。わたしが選んだのか、ひかりが選んだのか、ゆりさんに選ばされたのか。きっと、わたし達に人生なんてものはない。ただ長い長いお別れを告げ続けていくだけなのだろう。時たま、日常の残り香を嗅ぎながら。
了
さよならの香り 園田汐 @shiosonoda
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