美女と河童と偽りのない思い 2

 新入生の夢と希望に満ちた足音、輝かしい未来を語る声が大学に響き渡る。それはその発信源から離れた1号館にまで届いていた。去年は僕もその中の一員だったことが遠い昔の夢の中の出来事のように感じられた。4月の風の冷たさも、あの時の僕は気がついていなかった。


「や、やあ、カバオくんに柳田くん。き、君たち二人だけなのかな?」


 くたびれた面長の男がそう言いながらこちらに近づいてきた。新歓が始まって最初に僕たちに声をかけてきたのは、『三ツ山大学オカルト研究会』の元部長、4回生の影山かげやま先輩だった。


「影山先輩、来てくれたんですか? ありがとうございます。今の所、僕とカバオだけです。浮島うきしま先輩と只野ただの部長は来てませんね。部長は昨日は来ると言っていたんですが」


 僕が答えると、影山先輩は思い出したように言付けた。


「そ、そう、そうだ。浮島は今日、就活の説明会があるみたいで、その、来られそうにないみたいなんだ。た、只野から聞いたんだが、かか肝心の只野が来てないのか。あいつも就活始めたのか?」


「あの人に限って、それはないでしょう。そもそも就職する気があるのかもわからないですし、まともな職に就ける気もしないですけど」


「リンタロー、ひどいこと言うな。しかし、浮島先輩がいないとなれば、俺のハニートラップ作戦が台無しになるじゃないか。くそ、一体どうすれば……」


 何だその作戦は。大方の想像はつくが。


「ととととにかく、僕たちだけでも頑張ろう。ぼ、僕はこの一年で卒業だけど、オカ研が無くなるのはやっぱり寂しいしね」


「大丈夫です、絶対無くならせませんよ。それどころか、僕とカバオでオカ研をもっと大きくしてみせますよ」


「おおおお、た、頼もしい」


 威勢のいいセリフを吐いたものの、不安は拭えなかった。オカ研が無くなるとしたら、それは自分のせいに他ならない。だからこそこの新歓に賭けているのだ。それなのに――


「部長が来ていないってやっぱりおかしいでしょ!」僕の焦りは脳内から口腔まで膨らみ、彼方の賑わいを呪うように吐き出された。僕の怒声に驚いたカバオと影山先輩は目を合わせて苦笑いするだけだった。


「けどよ、リンタロー。只野先輩がここにいないのはある意味好材料じゃないか。あの人、悪い人じゃないけど癖が強いというか、変というか、頭がおかしいというか。俺は嫌いじゃないけど、新入生には刺激が強いぜ、きっと」


 只野部長だって、ついさっきまで新入生の美女に夢うつつを抜かしていたカバオにそんなことは言われたくないだろう。だが、彼の言うことも一理ある。只野部長は確かにカバオがマトモに見える程には変人だ。あらゆる心霊現象から、UFO、UMA、都市伝説、はては怪しげで胡散臭い黒魔術をも愛する、オカ研で最もオカルトな存在が只野部長なのだ。


「だぁれぇがぁ、変だって~?」


 突然、いやに聞き慣れた低い声が僕たちの耳に響いた。この梅雨のように粘着質な声の持ち主こそ、まさに只野部長だった。彼は草陰から忍び寄ったヘビのようにいつの間にかカバオの背後に立っていた。カバオを見下ろせる程の高身長でありながら、その体躯は驚くほど細い。長い髪に隠れた、陰鬱な三白眼はカバオをジッと睨んでおり、不敵な笑みを浮かべる口元から犬歯がちらりと覗いていた。カバオの大きく筋肉質な体は、停止ボタンを押したみたいにピクリとも動かなくなっていた。ヘビに睨まれたゴリラである。


「い、いつの間に来ていたんですか、只野先輩……?」


「さあなぁ? それと、カバオ。俺のことは只野部長と呼べと言ったはずだがなぁ。まあいい。ところでよぉ、ハニートラップ作戦てやつ、俺にも聞かせてくれねえかぁ?」


 言い逃れができないことを悟ったカバオは静かに僕に微笑んだ。それは戦争映画のワンシーンのようだった。先に行ってるぜ。後はまかせた。彼は僕の心にそう囁いていた。







「まぁ、俺は可愛い後輩の様子を眺めに来ただけでなぁ。部長という立場でありながら悪いが、新歓はお前らにまかせておく」


「そ、そんな。部長、なにか早急の用事でもあるんですかい!?」


 体中に梵字で書かれたお札のようなものを貼られたカバオが叫んだ。全身お札まみれのその姿はミノムシのようだった。


「そうさぁ。ついでに影山先輩も借りていくぜ。すごい心霊写真が手に入ったんだ。見てくださいよ、影山先輩。この女の顔ですが……」


 オカルトスイッチの入った只野部長を抑止する手段を僕たちは持ち合わせていない。彼を制御できるのは、幼馴染であり、副部長でもある浮島先輩くらいなのだ。影山先輩も心霊オタクなので写真に目を輝かせている。僕は二人の協力は諦めて別れを告げた。





「このオカ研に足りないのはきっと協調性だろうな」


 ため息を付いている僕をみて、カバオは静かにうなずいた。


「あとは、危機感だな」


 遠い目をする僕たちの前に、未だ生体反応は無い。新歓が始まってまだ30分も経っていないが、活気に満ちた雑音が冷たい風に乗ってこちらに届くばかりだ。新歓の足音はまるで、映画のスクリーンの中で行われているかのように、僕たちの世界を揺らしてはくれなかった。







 彼女が現れるまでは。


「見ろよ、リンタロー。だれかこっちに歩いてきたぜ」


 そういってすぐに、カバオの声が震えだした。なにか見てはいけないものでも見たのだろうか。


「女、女だ……」


 カバオはうわ言のように呟いている。そうだ、女だ。確かに女が1人、こちらへ向かって歩いている。他のサークルが横に並んでいる中、僕は確信していたのだ。間違いなくその女性はオカ研に向けて歩んでいることを。僕と彼女の視線は完全に重なり合い、平行に伸びた2本の線は電車の線路のようにこの女性をこちらへ運んでいるようだった。


「見ろよ、女だ。女がいるぞ!」


 当たり前のことをまるでUFOでも見たみたいにカバオが騒ぎ出した。生憎、僕にはこの問いかけに対して、面白可笑しく返すテクニックは持ち合わせていなかった。


「あぁ、そうだね。女はどこにでもいるよ」


「み、見ろよ、服を着ていやがる!」


「うん。男も女も外では服を着るもんなんだよ」


「繊細で華やかな刺繍で織り込まれた紺のレースブラウスにカーキ色のラップスカートを合わせたコーディネート。ブラウンカラーのパンプスに小さめの黒いバッグ。とても大人びた雰囲気だ。全体的に濃い目のカラーをチョイスしながらも知的な雰囲気を印象付けられるのは、ファッションのなせる業か。それとも彼女の美しさ所以か! まるでルネサンス時代の絵画が現代に転生したような、歴史の重みを感じる気品に溢れているぞ! ウヒョー!」


「なんだかよく分からないけど、カバオって結構、ファッションに詳しいのな」


 僕は素っ気ない返事をしながらも、内心、カバオには同意していた。確かに今、視線で繋がっている彼女の美しさは否定のしようもない。大地に対して直角に伸びた背骨。それをキープしながら歩く様。足元には赤い絨毯の幻影が見えそうになる。緩やかに流れる上流の川のように優雅に揺れる黒髪は、陽光に触れると青とも紫とも言えない光を反射させていた。僕は小さい頃に田舎で見た、夜空に浮かぶ天の川を思い出した。とても小さい頃の思い出なので、きっと誇張された記憶なのだろうが、それはまさに満天の星空だった。子供ながらにもその光景にはとても感動したし、同時に少し怖くもなっていた。あまりにも現実離れしていたその映像は別世界への入り口のようにも見えていたからだ。その時と同じ感情が、こちらを見つめながら歩く女性に湧き出していた。


「ヒールの高さを加味すると、身長は163、4cmくらいかな。正にモデル顔負けのプロポーションだ。美しい。仮に、もしダヴィンチが今の時代に転生してきたなら、きっと彼女をモデルに新たな作品を生み出すだろう。そうか、この女性こそが三ツ山大学新入生の神セブンの1人……」


 美しい女性は僕の目の前で立ち止まった。僕と彼女の間にはサークル紹介用の資料が置かれたテーブルがあるだけだったが、彼女の存在は今にも息が吹きかかるくらいに近く、テレビの向こう側のように遠く感じた。不意に自身の口臭が心配になったので少し横を見ながら視線を合わせ続けた


「はじめまして、日本文化学科一回生、四分谷しぶたに 璃子りこと申します。一分、二分の四分に谷と書いて四分谷です」


 四分谷 璃子と名乗る女性は、視線を一切逸らすこと無く、聡明に自己紹介をした。歳不相応に凛とした態度だ。そして透明感、というより淡白、無機質な声だった。それは完璧に近い美貌に対してお粗末な演技をする女優のように。


「り、璃子ちゃんだ! やっぱりあの璃子ちゃんだ! わーい!」


 カバオが突然はしゃぎだした。



「あら、私のことを知っていらっしゃるんですか?」


「そりゃあもう、入学試験トップの点数で合格した、我が大学開校以来、最高の才女とも言われている貴方様を知らないはずないでしょう! 今年の一回生の女子はハイレベルだと評判だ。そんな中でも単純なルックス、顔面偏差値だけなら間違いなくトップクラスと騒がれていた女性こそ、四分谷 璃子ちゃんなんだよ! まさに美そのもの! 美が服を着て歩いている! 大事なことなのでもう一回言わせてくれ。服を着た美! お前も知っていただろう、なあ、リンタロー?」


「いや、知らん」


 冷たい返事で返すことしかできなかったが、仕方がない。だって知らないんだから。そんな事を知っているのはカバオぐらいだろう。大体、入学前の女性の名前を知っている時点でこいつからほのかに犯罪の匂いがする。


「はじめまして。蒲田かばた 昭雄あきおと申します。20歳、趣味はキャンプとフットサル。好きな映画は『グーニーズ』です。高校生のときにはラグビーをやっておりまして」


「ありがとうございます。あなたは?」


 カバオの自己紹介などそっちのけで四分谷璃子は僕に問いかけた。バイトの面接以来の緊張が走った。立場的には逆のはずなのに、なぜか会話の主導権が四分谷に握られている気がした。


「あ、あぁ、僕は柳田やなぎだ柳田やなぎだ 倫太郎りんたろうといいます。趣味は、ええと特に無いけど、強いて言うなら読書なのかな。SFとかホラー小説をよく読んだりしますね」


「趣味は聞いていません。それとも、私も答えるべきでしたか? 柳田先輩」


 四分谷の素っ気ない返事に、僕は眉をしかめるしかできなかった。


「いや、いや、別に問題ないです」


「そんなことより、ここ、『三ツ山大学オカルト研究会』で間違いないですか?」


 やはり彼女の目的はオカ研だった。このような美女がオカ研にくるなどなにかの間違いか、それとも冷やかしかもしれない。僕は警戒しながら答えた。


「そうです。ここがオカ研ですよ。入部希望ですか?」


 僕の事務的な返事の後、しばしの沈黙。それは春風とともに彼女が吹き飛ばしてしまった。



「私と一緒に、河童を探してくれませんか」


 春風は強く、湿っており、少し暖かかった。

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