短編読切「医者」
うちの職場には医者がいるようだ。
その人たちはいかにも優しそうな顔をしている。
皆優しそうな顔をするので、
今日こそはと思い、安藤さんに相談してみた。
安藤さんは、事務で長年勤めているおばさんだ。
「岩田課長に理由を話せないまま、自分が一方的にミスをしたように取られてしまったんじゃないかなと思って…それから岩田課長が冷たくなったような…」
「そうなのね…」
「課長は、僕にだけ仕事を多く振ってるような気がするんです。
それも厄介な案件ばかり…。
仕事の内容も重いし、課長に嫌われたんじゃないかと思って毎日眠れなくて…。
それで、胸のこの辺りが重くなって…」
「気のせいだから大丈夫よ」
「気のせい?」
「そう。あなたの心臓は健康だし、重くなってると感じるのは気のせいよ」
「そうですか…ずっと…痛むのですが…」
「気にしないの」
「気にしない?」
「そんな胸が痛いことなんて、気にしなきゃいいのよ」
「だけど…安藤さんだって、ボロボロですよ」
「私は大丈夫よ。どこも悪くないから」
柔らかな笑顔で笑う安藤さんは、心なしか少し辛そうに見えた。
明る日、いつものように電車に乗っていると、通勤バッグを握る手に何か冷たい感触がした。
手が濡れている。
これはなんだろう。
頬をそっと撫でると、濡れていた。
気づかない間に泣いていたようだ。
電車の中なのに、雑音が聞こえない。
これはいい。
到着するまで静かに乗っていられるぞ。
僕は少し嬉しい気持ちになった。
涙の理由は、分からない。
どの駅で降りるんだったかな。僕はどこへ向かっているのだろう。
・
「あの時は気づいたら涙が出ていてびっくりしたというか…」
「あ〜それ俺もよくあったなあ」
今日の医者は竹下さんだ。
1つ年上で、いつも気さくに話しかけてくれる先輩だ。
「竹下さんもですか?」
「そうなんだよなあ〜
でもそういうものなんだよなあ〜」
「よくあることなんですかね」
「よくあるよ〜。
お前は頑張ってんだからさ、そのまま続けりゃいつか課長みたいになるって!」
「なれますかね」
僕は口角を上げて笑って見せた。
それは、いつかの安藤さんの笑い方だ。
「そうそう笑って笑って〜。だいたいそのくらいで悩むなんてお前も・・・・・」
すると、社内で毎日鳴り響いていた電話の音も、
先輩の心無い励ましも
課長の怒鳴り声も
安藤さんのから笑いも
すべて止んで、静寂が訪れた。
このまま、何も見えなくなって、何も聞こえなくなって、何も感じなくなってしまえたら
なんて素晴らしい世界なんだろう。
そうか、僕はその世界を目指していたのかもしれないな。
僕は少し嬉しい気持ちになった。
・
うちの職場には医者がいる。
なんでも大丈夫と、問題ないと診断してくれる優秀な医者だ。
きっと誰かが僕の心臓を刺したとしても、どこも刺されていないと言ってくれるだろう。
「間もなく本日の最終電車が出発します。駆け込み乗車は…」
ヨレヨレのスーツを着た会社員が、電車に向かってすごい勢いで走っていった。
外は雪がちらついている。
電車の黄色い照明があたたかく迎えてくれそうだ。
僕はあたたかそうな車内になぜか惹かれなくて、
もっと明るい、白い光を頼りに走った。
ああ、僕は初めて自分の思うように走っているぞ。
この疾走感は誰にも分かるまい。
駅員が真っ青な顔で走ってくる。
僕は笑いながら、大きな光の中に飛び込んだ。
その瞬間、かつて体験したことのない衝撃が身体中を駆け巡った。
これは、痛みだ。強烈な痛みだ。
どうしてだろう。
医者に見てもらったはずだが、どこか悪かったのだろうか。
うっすら目を開けると、沢山のなにかが自分に向けられていた。
白くて長い・・・これは、手か?
沢山の手が向けられているのか?
いや、違う。
あれはスマートフォンだ。
僕は笑った。ありったけの笑みで。
ああ、分かった。やっと、分かった。
ここに生きた人間は一人もいなかったんだな。
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