+70話『きっと大丈夫』

「雄くん」


 突如背後からかけられた、自然と心の奥に入り込んでくるような声に振り返れば、そこには見知った少女の姿があった。


「澄、乃……」


 雄一の少し後を走って追ってきたのか、やや乱れた息遣いで佇む澄乃。


 どうして、ここに。


「――っ悪い、すぐに忘れ物見つけるから、ちょっと待っててくれ」


 今の自分はきっとひどい顔をしているから、すぐに澄乃から顔を背けて、雄一は最初からどこにもない忘れ物を探す。自分のバッグの中から適当にタオルでも見繕えばいいかと思い、壁際の荷物置き場に近付く。


 バッグに手を伸ばそうとした、その時。


「雄くん」


 もう一度、今度はすぐ近くでその声が背中を叩いた。同時に手首がやわらかく細い感触に掴まれ、やや火照った人肌の温もりにびくりと震えてしまう。


「ちょっと待ってくれって。もうすぐだから――」


「雄くん」


 三度目には有無言わせぬ力が込められていた。まるで制止の言霊ことだまでも使われたたかのように雄一の身体は硬直し、懸命に背けていた顔も澄乃の手であっさりと振り向かせられる。


 正面から見上げてくる最愛の少女は――やわらかく眉尻を下げて、優しく微笑みを浮かべた。ふわりと澄乃の両腕が首に回され、ちょっと背伸びをした彼女に抱き寄せられる。


 急に何を、とそんなことを言う間もなく澄乃の温もりが与えられ、その熱に溶かされたように雄一の身体は力を無くして壁に寄りかかり、そのままずるずると崩れ落ちていってしまう。


「だいじょうぶ」


 不意に耳元で奏でられる言葉。ぽんぽんと、まるで母親が幼子おさなごをあやすように背中を叩かれる。


「だいじょうぶだから。雄くんなら、きっとだいじょうぶだから」


 強ばってひび割れた心身に沁み込んで、ゆっくりと隙間を満たしてくれるような音色。


 その言葉に、その声音に、雄一は忘れていたかのように詰めていた息を吐いた。


 ……ああ、そうか。澄乃にはとっくに見抜かれていたのか。何より一番見せたくない、不安にさせたくない相手だったのに。なんて情けない。


 一度認めてしまえば自責の念が急に溢れ出して、それが弱音となって雄一の口からこぼれ落ちていく。


「……そんなの、分かんないだろ。今だって俺、こんなんで……これで本番になったら、どうなるか。とんでもない失敗するんじゃないかって……澄乃だって……そう思うだろ?」


「ううん、私はちっともそんな風に思わないよ?」


 雄一の弱音はいとも容易く否定される。


「なんで、そんな風に……」


「だって見てきたもん、雄くんがいつも頑張ってるところ。そんな頑張り屋さんな雄くんだから私は信じられるし、皆も任せてくれたんだと思うよ?」


 声が、心を落ち着かせる。


 やわらかさが、強ばった身体を解きほぐす。


 温もりが、全身の血液を沸き立たせる。


 澄乃から与えられる全てが、雄一に前を向かせようとしてくれる。


「私にとって、雄くんはいつだってカッコいいヒーローなんだから。だから――きっと大丈夫だよ」


 穏やかで優しい声は、さも当然のようにそう告げた。


 ――本当のところ、澄乃の励ましに確かな根拠なんて無いだろう。


 だってこんなのただの主観だ。ともすればそうあって欲しいという願望にも似た、漠然とした無責任な信頼だ。


 根拠なんて無い。確実性なんて無い。大丈夫だなんて確たる保証はどこにもありはしない。


 なのに……どうしてこんなにも気持ちが安らぐのだろうか。


「……澄乃」


 その名を囁いて、相手の顔を覗き込む。当たり前のように出迎えてくれる慈愛に満ちた優しい笑顔。


 カッコいいヒーローだと言い切ってくれた彼女に、ちょっと情けないことを求めてしまうかもしれないけど。


「少しだけ、甘えさせてくれ」


「うん」


 安心できるその笑顔に誘われるまま、雄一は澄乃の胸元に顔を埋める。トクン、トクンと規則正しく聞こえる鼓動はどこか子守歌のような心地良さを与えてくれた。











『オーホッホッホッ、ここまでねヴァルテリオン! いくら貴様が強くとも、たった一人で私たちに勝てるわけがないのよ!』


『大変、このままじゃヴァルテリオンがっ!?』


 テントの布地一枚を挟んだ向こう側から、ヒーローショーの様々な音が聞こえてくる。キャラクターの声、BGM――そして、多くの歓声。


 ショーも中盤、そろそろ自分の出番だ。


 青い装甲を身に纏ったヒーローは人知れず拳を握る。


 震えはまだ続いていた。けれど今まで感じていたものとは違う。身体の奥底から湧き上がる熱で沸騰するような、武者震いとも言うべき震え。早く飛び出したくてうずうずしているような感じだった。


 それもこれも彼女のおかげだ。


 仮面の下で笑い、そして表情を引き締める。


「さーて、そろそろだ。準備はいいかい?」


 爽やかな表情を浮かべる青年の言葉に『ガンドレイク』は胸は叩いて答えた。気力体力共に十分、いつでもいける。


『皆さん、こういう時こそもう一人のヒーローを呼びましょう! きっと応えてくれるはずです!』


 さあ、行くぞ。期待してくれている人たちのために。託してくれた人たちのために。


 そして何より。


『せーのっ!』


 信じてくれた、彼女のために。

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