+60話『今夜は寝かせない』

 無事に初体験を終えた後は、二人で一緒にお風呂。


 そうして入浴を済ませると、澄乃から二つのわがままをおねだりされた。湯上がり、加えて上目遣いの破壊力はそれはもうすさまじく、中身を聞くことすらなく雄一は承諾。さて、ではそのわがままは何だったのかというと――


「やっぱりぶかぶかだよねぇ」


 雄一の私物であるジャージを着込んだ澄乃が、両手を広げながら朗らかに呟いた。


 わがままその一は、雄一の寝間着を貸して欲しいとのこと。


 もちろん澄乃が持参した宿泊荷物の中にはベビードール以外の寝間着も入っているだろうけど、どうせならということで求められてしまった次第だ。雄一としても、自分の衣服を着た恋人の姿などという素敵な姿は見てみたかったので、とりあえず洗濯済みのジャージ上下を献上させてもらった。


 澄乃が口にした通り、雄一のジャージは彼女にとってオーバーサイズである。袖は指先がギリギリ出るぐらいだし、裾だって股は完全に隠れて腿にまで及んでいる。そのくせ胸にプリントされているメーカーのロゴがいつもより突き出ているのは、つまりはそういうことだ。


 ちなみにさすがに歩きづらいからと、ジャージの下は脱いで脇に畳んで置いてある。つまりなめらかな脚線美を描く素足が惜しげもなく晒され、加えてその上にある下着すらも見え――ない。


 神のイタズラか、はたまた世界線の収束か。見えそうで、ギリッギリで見えない。ついさっき一線を踏み越えた故の澄乃の無防備さなのだろうが、少しは気を付けてもらいたいところである。


 ――無論、もったいないから雄一の方から「やめてくれ」なんて言わないけども。


「……んぅ、雄くんの匂いがする」


「ちゃんと洗濯はしてあるぞ」


「臭いとかそういうのじゃないよ。良い匂いだなぁって」


 風呂上がりで肌を火照らせた澄乃は、首をすぼめて襟回りの匂いをすんすんと嗅いでいる。気に入ってくれるのは嬉しいのだが、せめて本人の目の届かないところでこっそりやって欲しい。むず痒くてブレイクダンスでもしたくなる。


「ほら、やるんならさっさとやるぞ」


 ご満悦な澄乃の手を引いて座椅子に座らせると、雄一はその後ろへ。そして雄一が手に取ったのは、澄乃の荷物の一つであるヘアケア用の梳きブラシだ。


 わがままその二――それは雄一に髪の手入れをしてもらいたいというものだった。ドライヤーでの乾燥等はすでに終わっているので、雄一には最後の仕上げを任された形だ。


 やることは澄乃の綺麗かつ長い銀髪にブラシを通すだけ。言葉にすれば単純明快な作業だが、いざ直面すると少し臆してしまう。


「本当に俺でいいのか? 女の子の髪の手入れなんてやったことないぞ」


「優しくしてくれれば大丈夫。雄くんなら安心して任せられるよ」


 ふんす、と本人じゃないのに自信満々に断言する澄乃。それだけ信頼されていると思うと頬が緩むが、気を抜いてもいられない。なにせこの髪は、澄乃が日頃の自分磨きで特に力を入れている部分だろうし、これまで何度もその研鑽を雄一は味わってきた。


 澄乃に気付かれないように深呼吸をし、とりあえず端の方から手入れを始めていく。澄乃の簡単なレクチャーによると、最初は毛先から手入れを行うらしいので、まずはそこの絡まりをほどきにかかる。一通り終われば今度は根本からブラシをあてがい、わずかに残っている引っかかりをほぐすよう、優しくゆっくり滑らせた。


 自らの手で、澄乃の髪が徐々に普段のキューティクルを取り戻していく様子を見ていると、雄一の胸には得も言われぬ達成感が広がっていく。


「こんな感じで大丈夫か?」


 特に何も言われないので手は止めず、背中越しに澄乃に尋ねる。


「うん、良い感じ。初めてだなんて言ってたけど、雄くん上手だね」


「まぁ、初心者なぶん、真心は込めさせてもらってるからな」


「ふふっ、ありがとう」


 澄乃の顔が綻んでいるのは気配で伝わってきた。満足頂けているようなら何よりなので、そのまま澄乃の小さな鼻歌をBGMにブラッシングを続けていく。やがて最後の一房を終えたところで、雄一はブラシを置いた。


「いかがでしょうか、お客様?」


「ばっちりです。むしろ自分でするより良い仕上がりかも」


 手入れが完了した髪を指先で弄る澄乃。そこに浮かぶ淡い笑顔にはお世辞でなく、本気でそう思ってくれるのが分かるだけの説得力があった。


「これなら、お泊まりの時は毎回雄くんにお願いしたいぐらいだよ。……って、さすがに迷惑かな?」


「いいぞ、澄乃が望むなら喜んで。むしろいつも楽しませてもらってるんだし、そのぶんお返しさせてくれ」


 澄乃の頭を撫でながら、さっそくさらさらの銀髪を指で梳いていく。この出来栄えに自分も貢献できたのだと思うと、伝わってくる感触はまた格別だ。


 くすぐったそうに目を細めて「ありがとう」と呟いた澄乃は、脱力して雄一の方へと身体を傾けた。快く迎え入れてそのやわらかな肢体を抱きしめれば、腕の中の澄乃はやわらかな笑顔で瞳を閉じる。


 しばらくそうしてまったりしていると、腕の中から「ふわぁ」と可愛らしい欠伸が。澄乃の目尻には涙の玉が浮かんでいる。


「そろそろ寝るか」


 すでに日付も変わっているし、今夜は……まぁ、色々と疲れることをしたのだ。明日に響かせないためにも、素直に眠気に従った方がいいだろう。


「そうだねぇ……。でもこんなに幸せだと、寝るのがちょっともったいないかも……」


「夜更かしは美容の大敵なんだろ? ほら掴まれ」


 眠気で口調が少したどたどしくなってきた澄乃をお姫様抱っこで担ぎ、ベッドへと強制連行。「力持ちだー」と楽しそうにはにかむ澄乃をゆっくりと横たえると、電気を常夜灯に切り替えて雄一もベッドに潜り込む。


 すぐさま雄一の胸元に顔を寄せた澄乃は、何やら一段ととろけた笑みを浮かべた。


「どうした?」


「すごい贅沢してるなぁって思って。雄くんのベッドに、雄くんのジャージに、それから目の前には生雄くん。雄くんフルコースだねぇ……」


 指折り数えてへにゃりと眉尻を下げる澄乃。『俺は食べ物かい』とツッコミを入れたくなったが、雄一からすれば澄乃だってとびきり甘い果実みたいなところがある。結局お互い様かと思い、野暮なことは言わずに澄乃の背中をそっと撫でた。


「雄くんのジャージ良いなぁ。大きいから、全身丸ごと包まれてる感じ……」


「おーい、目の前に本物いるんですけど?」


「えへへー、雄くんが嫉妬してるー……」


(なんだこの可愛い生き物)


 寝ぼけた澄乃恐るべし。眠気がピークに近付きつつあるが故にあどけなさが強く、思ったことをストレートに言葉にしている感じだ。二人きりの時は甘えてくることの多い澄乃だが、今夜はまた一段とその傾向が強いと見える。いっそジャージはそのまま進呈してやろうか。


「そんなに気に入ったのか?」


「うんー……。前に貰ったワイシャツも良かったけど、寝間着として使うにはこっちの方がリラックスできるんだよねぇ……」


「なるほど。――……いやちょっと待て」


 今、なんかすっごい聞き捨てならない言葉を聞いた。


「なぁ澄乃さんや」


「んー、なにー……?」


「前に貰ったワイシャツって何だ?」


「――――あ」


 ピシッ。


 先ほどまでの眠気はいったいどこへ。雄一がじっと見つめる中、大きく目を見開いた澄乃の身体が面白いぐらいに固まる。


「ひょっとしてクリスマス前に、うっかり破ったからって渡したヤツか? 確か大掃除の時にあると便利だから欲しいって話だったよな?」


「や、あの、その、えっと、ね」


「いやいいんだ。あれは澄乃にあげたものなんだから、どう使おうと澄乃の自由だ。使い道をとやかく言うつもりはない。ただ――」


「……た、ただ?」


「何に使ったのか、教えてもらおうか?」


 ビシッ。


 より強く、蛇に睨まれた蛙どころかアナコンダに睨まれたおたまじゃくしのように固まる澄乃。視線だけは上下左右に泳ぎまくっていたのだが、やがて静かにその目を閉じて。


「…………ぐぅ」


「寝るな」


 前言撤回。今夜はまだ寝かせない。

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