+55話『誕生日の朝に』
「――雄くん」
しっとりと熱を帯びた言葉が雄一の鼓膜を揺さぶる。
見上げれば目の前に澄乃の姿があり、雄一をベッドに押し倒すように覆い被さっていた。服装こそ何度か見た寝間着姿だが上半身は大きくはだけていて、真っ白な素肌と清楚な色合いの下着が晒されている。けれどそれを気にする様子もなく、澄乃は雄一の頬をゆっくりとした手付きで撫でた。
身じろぎの拍子に大きな双丘が深い渓谷を形成し、雄一の目は自然とその一点に吸い寄せられる。そんなあからさまな視線の動きは当然澄乃に気付かれていて、それでも彼女はくすりと耳に心地よい音色で笑い、
むしろ、もっと見てと言わんばかりに身体を寄せ、薄暗い部屋の中で二人の身体がぴたりと重なった。
全身に伝播する火照ったような熱。胸の辺りに感じる圧倒的な質量とやわらかさ。首筋を澄乃の吐息がくすぐり、それだけで飛び上がりそうなほどぞくぞくとした衝撃が背筋を駆け巡る。
これはマズい、この感触に浸り続けるとマズいと、さっきから雄一の理性はひっきりなしに警鐘を鳴らしている。
体重はもちろん、単純な力だって雄一の方が上だ。押し返そうと思えば簡単に押し返せるはず――なのに、身体はちっとも動いてくれなかった。
操り人形の糸が切れてしまったように、まさしく骨抜きにされてしまったように。まだなんとか理性的でいられる頭に反して、とっくに雄一の身体は澄乃からのアプローチに屈服していた。
やがて澄乃はわずかに身を起こし、雄一の顔を真正面から覗き込んでくる。お互いの額が触れ合うぐらいに近付き、ふやけそうなくらいに潤んだ藍色の瞳が雄一を捉える。
桜色の唇を彩るのは、魔性の女すら裸足で逃げ出しかねないほどの艶やかな笑み。
「雄くんの好きにして、いいんだよ……?」
その言葉がトリガーだった。雄一の全身は瞬く間に力を取り戻し、澄乃の肢体を覆う邪魔な衣服を根こそぎ奪い去って――。
朝、目を開ければ、そこには見知った天井が広がっていた。
「…………」
右を向く。折り畳みのテーブルや座椅子など、雄一のいつもの生活スペースが広がっている。
左を向く。無機質な壁があるだけ。
改めて正面。やっぱりいつも通り。
誰かに押し倒されているわけでもない、一人で目覚めるいつも通りの朝。
「……~~っ!」
ぱちぱちと数回瞬きをした後、雄一は顔面を両手で覆い、陸の上に打ち上げられた魚のようにベッドの上で悶え出した。
(なんつーもん見てんだ俺は……!?)
よりにもよって、あんな夢を。
よりにもよって、あんな澄乃を。
よりにもよって、あんな
不埒な欲望を全力で頭の中から放り投げ、昂ぶった心身を落ち着かせるために深呼吸を繰り返す。回数が一桁を超えたあたりで少しは平静を取り戻せたので、顔を覆ったまま指の間からベッドの脇に置かれた目覚まし時計に視線をやった。
――『2/27 SAT』のデジタル表示。
「とうとう来やがったか……」
雄一の誕生日。澄乃と二人で決めた、約束の日。
来やがった、なんて言うとまるで嫌な日が到来したみたいだが、実際はその真逆だ。今日という日が来ることを待ち望んでいたし、雄一にとって最も喜ばしい日になることは想像に難くない。
それに向けての準備も、まあ、色々と済ませてきたつもりだ。
けれど心の方はどっしりと構えるにはまだ不安定らしく、今もこうして暴れて雄一の身体の熱を高めていく。澄乃を夢に見たことこそ何度かあれ、今日ほど際どい姿はさすがに初めてだった。
「こんなんで大丈夫なのかよ、俺は……」
想像でこれなら、実際に目の当たりにした暁にはどうなることやら。
思わずこぼれた情けない呟きは、もちろん誰も答えることなく朝の空気に霧散していく。
……まあ、今さら四の五の言っても仕方がない。雄一があたふたしている間にも着実にその時は迫って来るし、ここまで来て「やっぱ別の日に」なんて先延ばしにする気はもちろん無い。何せこうして夢に見てしまうぐらい、自分の欲は臨界点に達しているらしいのだから。
「……筋トレでもするか」
幸か不幸か、今日の目覚めは普段よりもだいぶ早く、家を出るまでには一時間以上の余裕がある。とりあえず今の内に、身体の奥に溜まったエネルギーを少しでも発散させるとしよう。
筋トレでかいた汗をシャワーで流した後、雄一は身支度を整えて学校へと向かうことに。普段よりもまだ幾分時間は早いが、どうせ家にいても特別することがないので早々に出た形だ。
今日は天気が良い。空からの気持ちの良い朝日が通学路を照らし、それに浄化されたかのように澄み切った空気が雄一の肌を撫でる。深呼吸で新鮮な酸素を取り入れるだけで、朝から清々しい気分になってくるほどだ。
「ふう……」
とりあえず、起き抜けに比べたら気分も落ち着いている。少し熱を入れすぎた感のある筋トレではあったが、身体の奥で燻っていた余計なエネルギーは汗と一緒に体外へ流れ出てくれたので結果オーライだ。
だが冷静になれた分、今度は急に罪悪感が湧き上がってくる。
なにせあくまで夢の中でとはいえ、澄乃にはだいぶ自分勝手な妄想を反映させてしまったのだ。もちろん恋人相手にそういう欲を抱くこと自体をおかしいとは思わないけれど……あのまま夢が続いていたら、きっと澄乃に蹂躙紛いのことをしていたような気がする。
……なるほど、ひょっとしたら今朝のアレは、自分の理性が出した警告のようなものなのかもしれない。肝に銘じなければ。
色々と考え込んでいた内に、校舎へと続く長い上り坂へと差し掛かっていた。澄乃は比較的早い時間に登校しているらしいので、恐らくもう教室にいる頃合いだろう。澄乃に要らぬ心配や不安を与えないよう、改めて平静でいようと心に決め――。
「あ、雄くん」
「っ!?」
ようとした刹那、死角から声をかけられて雄一の身は竦み上がった。変な声を上げなかっただけ良かったと思いつつ振り向くと、こちらへ向けて花が咲いたような笑顔を浮かべる澄乃と目が合う。
「お、おはよう澄乃」
「おはよう。……なんだか顔が赤いけど、大丈夫?」
「え、き、気のせいじゃないか」
「……本当に? そう言ってまだ風邪を引いたの隠してたりして」
素早く距離を詰め、雄一の額に手を当てる澄乃。間近に迫った整った顔立ちに今朝の蠱惑的な笑みが重なって、雄一の心臓がドクンと大きく跳ねる。
「んー……まあ、平熱の範囲かな」
心配してくれる以上、
「分かってると思うけど、無理しちゃダメだからね?」
「分かってるって。澄乃に怒られたくないし」
いつか見た圧のある笑顔は未だに記憶に色濃く残っている。澄乃の笑顔は好きだけど、あれが向けられるのだけはちょっと勘弁してもらいたい。雄一の言葉に澄乃は「なら良し」と指を引っ込め、そのまま下ろした手で雄一の手を握った。
「行こ、雄くん」
「ん」
声を弾ませる澄乃に手を引かれ、長い上り坂を登り始める。綻んだ澄乃の表情が朝日に照らされて輝く。彼女のそんな表情をしかと胸に刻み、改めて雄一は『大事にしたい』という想いを強めるのだった。
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