+47話『穏やかな目覚め』

 ぼんやりと意識が覚醒していく中、雄一はふと頭を撫でられる感触に気付く。まるで深いところに沈んでいたものをゆっくりと掬い上げてくれるような、慈愛と母性に満ちた優しい手付き。


 感触の原因を探ろうと薄く目を開けてみると、やはり予想通り、目の前には雄一の頭を楽しそうに撫でている澄乃がいた。雄一の目覚めに気付いた澄乃はぱちりと藍色の瞳を瞬かせると、やがて口許に緩やかな弧を描いた。


「おはよう」


「……はよ」


「ごめんね、ひょっとして起こしちゃった?」


「いや――ふぁ――全然」


 欠伸混じりの返しになってしまったが、目覚めとしてはむしろ最高のものだった。澄乃から頭を撫でてもらうのが心地良いのはもちろん、起きて一番最初に目にするのが澄乃自身だというのも素晴らしい。カーテンの隙間から差し込む朝の穏やかな日差しに照らされた澄乃の笑顔は見ているだけで活力が湧いてきて、改めて自分が絶世の美少女と付き合っていることを思い知らされる。


「にしても、澄乃が先に起きてるなんて珍しいな」


 二人で夜を共にした時の翌朝は雄一が先に起きてばかりだった。ひょっとして寝心地が悪かったのかと一抹の不安を覚えたが、「そうだねぇ」と清々しい表情で笑う澄乃を見るかぎり偶然の結果なのだろう。


「おかげで雄くんの寝顔、堪能しちゃった。朝から大満足」


「男の寝顔なんて見て楽しいかぁ?」


「もちろん楽しいよ? 色々と新しい発見もあるし……それに、大好きな人の寝顔だもん」


 屈託のない笑みでそう告げられて雄一の頬に熱が宿る。情欲を刺激するようなものとはまた違った、肌触りの良い天使の羽で全身をくすぐられるようなむず痒さ。朝っぱらからストレートな想いをぶつけられるのは、なかなかに心臓に悪い。


 あからさまに視線をさまよわせる雄一に澄乃がくすくすと笑う中、枕元に置かれた澄乃のスマホが雄一の目に留まる。昨夜は充電ケーブルに繋いだ状態だったはずだが、すでに取り外されているし位置も微妙に変わっている。


 ――ふむ。


「なぁ澄乃」


「なに?」


「スマホのカメラ」


「っ!?」


 昨日と同じような反応だった。ということは昨日と同じように何かを隠していることは自明の理であり、今度は澄乃が視線はさまよわせる番となった。まぁ、何を隠しているかなんてほぼ分かったようなものだが。


「人様の寝顔を隠し撮りなんて、随分と行儀が悪いんじゃないんですかねぇ?」


 わざと意地悪く口許を歪め、こっちだってしたことないのに、という文句を暗に視線に込めてみれば、澄乃はふるふると震えながらスマホを手に取り魔の手から守るように自分の胸に抱いた。


「け、消せというんですか……っ!?」


 くわっ。


 なんだろう。その、まるで今まで何度も苦楽を共にしてきた愛犬を自らの手で捨ててこいと言われた飼い主のような悲壮感は。心配しなくてもそんなつもりはないから安心して欲しい。


「別に消せなんて言わないよ」


 震える頭をぽんぽんと叩きながらそう言えば、澄乃は分かりやすいぐらいに眉尻を下げて安堵の表情を浮かべた。よほど満足のいく一枚でも撮れたのだろうか。被写体が気の抜けているであろう自分の寝顔というのはやや恥ずかしいものを覚えるが、澄乃が幸せそうなら喜んで差し出そう。


 しかし、それはそれとして。


「ところで澄乃、こういう言葉は知ってるか?」


「? なに?」


 元々はアメリカのとある小説の日本語訳版に登場する言葉だったか。雄一がその言葉を知ったのは漫画か何かがきっかけだったが、雄一よりもずっと聡明な澄乃のことなら恐らく知っているだろう。


「撃っていいのは撃たれる覚悟のある奴だけだ」


「……え?」


「今度から俺の前で寝る時は覚悟しとけよ?」


 ニヤリと口の端を吊り上げながら告げると、しばらくぱちぱちと瞬きを繰り返した澄乃はやがて雄一の言葉の意味を理解し、両頬を鮮やかな薔薇色に染め上げていった。


 隠し撮りというのはたとえ恋仲といえど不作法かもしれないが、すでにこちらは一枚撮られている身なのだし、同じように一枚撮らせてもらうぐらいなら当然の権利と言えるだろう。むしろ事前申告しているだけまだ優しいかもしれない。


 ということは澄乃も理解しているらしく、いつか来るであろうその時を想像して瞳を伏せながらも首を横に振る素振りはなかった。


「せ、せめて見苦しくない程度にお願いします……」


「心配しなくてもいつも可愛いって」


 いっそ美術館で『天使の寝顔』と紹介されても素直に頷けるぐらいなのだ。澄乃の心配なんてまさしく杞憂。それは今まで何度も彼女の寝顔を見てきた雄一が、自信を持って保証できる。


 恥ずかしさで一層身を縮こませる澄乃の頭を軽く撫でてから、雄一は自分のスマホへと手を伸ばした。


「写真か……。そういえば俺たちってあんまり写真とか撮らないよな?」


「あ、言われてみれば確かに」


 思い返せば、ツーショットなんて夏に遊びに行った遊園地の時ぐらいか。先日手に入れた元旦の朝の一枚が脳裏に浮かんだが、あれは意図しなかったものだし羞恥がぶり返すだけなので一旦ノーカウントにしておく。


 雄一はどちらかというとその時その瞬間を楽しむ性質たちだし、今までの経験から考えるに澄乃もそういったタイプなのだろう。もちろん写真に残さずとも彼女の様々な表情はしかと記憶に刻み込んでいるつもりだが、改めて形に残すというのも悪くない。


「試しに何か撮ってみる?」


「じゃあ、おはよう記念ってことで一緒に一枚」


 尋ねる澄乃にスマホのカメラを起動しながら答えた。別に枚数制限があるわけでもないのだから、とりあえず思い付いたところから始めてみよう。「え、このまま?」と一瞬面を喰らった澄乃も、雄一が催促するようにスマホを振れば緩く息をついて身を擦り寄せてくる。そのままスマホの方に視線を向けながら、雄一の頬に自分のそれをぴとりと重ねた。


 少し顔を横に向ければ、すぐにでもキスできそうな体勢。澄乃特有の花のような甘い香りと柔らかさをその身に感じつつ、二人の顔がほど良くフレームに収まる位置で雄一はシャッターボタンをタップした。


 軽い動作音の後、少しの読み込み時間を挟んで表示される一枚の写真。


 さてどんな感じになったかと澄乃と一緒に画面を見て……ちょっと息が詰まった。


 布団の上で身を寄せ合う年頃の男女。寝ている内に軽く乱れてしまったお互いの浴衣。ついでに多少汗もかいてしまった肌はほんのり熱と艶を帯び、髪も少し素肌に張り付いている。


 どれこれも一つの要素としては大したことはないけれど、全てが組み合わさった結果――まるでそういう行為の後・・・・・・・・のような雰囲気が漂っていた。


『…………』


 流れる沈黙。くっついたままの頬の熱量が増しているのは自分か、澄乃か、それとも両方か。


「……これ、間違っても他の人には見せられないね?」


「……ああ」


「……でもあとで私のスマホにも送って」


「……了解」


 どんな危ない一枚だろうと、消すという選択肢は無かった。

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