+46話『甘えたがり』

 曰く、なんか変なスイッチが入っちゃったみたいとのこと。


 その発言を裏付けるかのように、今まで受け身に回っていた澄乃は雄一を布団に引きずり込むと、有無を言わせずその身体に覆い被さってきた。雄一としては濃密なキスで色々と昂ぶってしまったものを静めるために一呼吸置きたいところだったのだが、自分の胸の上でふにゃりと幸せそうに表情を綻ばせる澄乃を見ていると、到底口を挟む気になどなれはしなかった。


 何より澄乃の目が、『焚きつけたのはそっちだからね?』と訴えている気がしたのだ。事実、一歩踏み込んだのは紛れもなく雄一なので、そういう意味でも澄乃の希望を甘んじて受け入れるほかないだろう。もちろん、嫌な気持ちなんてこれっぽちもない。


「えへへ、雄くーん」


 澄乃は雄一の胸に頬擦りをしながら、子猫がじゃれつくように身をくねらせる。とても愛らしく微笑ましい姿なのだが、子猫というには色々と立派なものをお持ちなのが澄乃だ。すりすりと頬擦りしてくるたびに全身の至る所が澄乃の柔らかさに包まれるので、正直たまらない。美肌効果に優れる温泉に入っただけあって、澄乃の素肌もいつも以上にもちもちすべすべだ。


 期待の上目遣いに応えて澄乃の頭を優しく撫でていけば、一層とろけたような表情を浮かべる澄乃。こうして身体を重ねていると、それだけで穏やかで満たされるような気分になってくる。


 もちろん心の中で燻ぶっている情欲が消えるはことはないけれど、今の澄乃を前にすると、それよりも愛おしさの方がこみ上げてくる。今までだって素直に甘えてくる彼女だったが、今夜は一段とその傾向が強い。まさに変なスイッチが押されてしまったかのような状態で、ならば徹底的に甘やかすことこそ彼氏の務めというものだ。というか単純にしたい。とろけた澄乃をもっと見たい。


 そんな想いを込めながら綺麗な銀髪に指を通していると、緩やかだった澄乃の顔付きが急に変わった。何かをじーっと見定めるような眼差しの先にあるのは、少し乱れた浴衣の襟から覗く雄一の胸筋。


 澄乃の細い指先がその胸板をくすぐる。


「……雄くん、ちょっと太くなった?」


「え゛」


 澄乃の指摘に声が固まった。


 いきなり冷や水を浴びせられたかのように硬直してしまう雄一。そんなことない、と異議を唱えようとしたものの、よくよく考えてみれば思い当たる節が無いわけでもない。秋の始まりから澄乃の家で夕食をご馳走になる機会にたびたび恵まれ、毎回毎回振る舞われる料理の出来栄えのおかげで箸が進んでしまうのだ。


 摂り過ぎた分のカロリーは日頃の筋トレなどで消費するよう雄一なりに気を付けていたつもりだが……どうやら吸収量が上回ってしまったらしい。


 雄一が若干表情を暗くしていると、それに気付いた澄乃が慌てて手を振る。


「ごめんごめんっ、脂肪がついたとかじゃなくて、筋肉がついたって意味だから」


「あ、そっちか。良かったー……」


 心底安堵する。何せ自分の隣に並ぶのは絶世の美少女なのだ。ただでさえ他の追随を許さないほど魅力溢れる存在だというのに、これで雄一のレベルが下がってしまえば澄乃にも申し訳が立たない。少なくとも肉体面に関しては上昇傾向にあるようなので一安心だ。


 分かりやすいぐらいに肩の力を抜く雄一にくすりと笑みを漏らした澄乃は、浴衣の中に滑り込ませた手で雄一の胸板を撫でた。


「何だかなぁ。ただでさえたくましい雄くんが、もっとたくましくなっていく……」


「良いことじゃないか」


「もちろんそうだけど……私も頑張らないとなぁって」


 真剣に眉根を寄せる澄乃に、雄一は思わず呆れて笑ってしまった。


 負けず嫌いというか、何というか。今ですら至高の容姿を誇っているというのに、まだ上を目指そうとするなんて、むしろ彼女の向上心こそたくましい。頑張らないといけないのは雄一の方だ。


「前に澄乃が言ってたろ? 好きな人には少しでも綺麗だって思ってもらいたいって。それと同じだよ」


 好きな人からはカッコいいと思われたい。男性と女性では目指す容姿の方向性は違うだろうけど、根底にある気持ちは同じだ。


 藍色の輝きを見つめながら、澄乃の顔の強張りを解すように手の平で撫でていく。ぱちりと目を瞬かせた澄乃はやがて「そっか」と嬉しそうに笑みを浮かべると、雄一の額に手を伸ばし、風呂上がりでやや垂れ気味の雄一の前髪をかき上げた。


「大好き」


 目と目を合わせて、はっきりと囁かれた一言。遮るものが無いからこそありのままの気持ちが伝わり、身体の芯が澄乃の想いに当てられたかのように熱を帯びた。


 同じ言葉を返そうとした口は、一手早く動いた澄乃に塞がれる。


 鼻腔に届くどこか甘いシャンプーの香りと、熱くて柔らかい唇の感触。先ほどのような深いものでなく、軽く触れ合わせるだけの児戯のようなものだが、伝わってくる気持ちは勝るとも劣らない。何より、キスを終えた後のとろけたような澄乃の笑みは、何度見ても目を奪われずにはいられなかった。こんな可愛らしい笑顔を一人占めできるだけでも自分は十分幸せ者だ。


 そんな幸福感を味わいながら澄乃の背中をゆっくり撫でていると、澄乃は小さな欠伸を漏らした。顔を覗き込めば目の端には小さな涙を見て取れ、ふにゃふにゃと少し気の抜けたような表情になっているのがまた一段と可愛らしい。


「時間も時間だし、寝るか」


「そうだね。明日は朝風呂も入りたいし」


 答えた後にまた欠伸を一つ。どうやら澄乃の眠気はピークに近付きつつあるようなので、就寝に向けての準備を手早く終えてから、二人で同じ布団に入り込む。旅館側が用意してくれたもう一組の布団が物寂しそうに敷かれたままだが、生憎とそちらに出番は無い。


 体勢が落ち着いたところで腕枕を差し出すと、雄一の方へと身を寄せた澄乃は嬉しそうにそこへ頭を乗せた。


「ご機嫌だな」


「うん。最近は雄くんと一晩中一緒にいられることが多いから、私としては大満足です」


 頬を淡く染めてはにかむ澄乃。そんな風に屈託なく言われてしまうと、もっともっと満たしてあげたくなるし、雄一もまた澄乃で満たされたくなってしまう。


 空いている手を澄乃の背中に回してやんわりと抱き寄せ、腕の中に温かな存在をしっかりと迎え入れた。


「おやすみなさい」


「おやすみ」


 もう一度軽く唇を重ね、澄乃の穏やかな笑顔をひとしきり眺めてから、雄一は静かに両目を閉じた。

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