+44話『熱』
『雄くんのばか』
容赦のないシャワーによって身体中のボディソープが欠片も残らず洗い流された後、顔中を鮮やかな薔薇色に染め上げた澄乃から浴槽への移動を命じられた。
そもそも無意識とはいえ当ててきたのは澄乃なんだけど、と思いこそすれど、それを言ったら今度は顔面にシャワーの洗礼を受けそうな気がしたので、雄一は素直に従うことに。澄乃の態度にしても、怒ってというよりは恥ずかしさから思わずという感じなのは明白だったので、雄一としても理不尽な扱いをされても微笑ましく思えるぐらいだった。
ひとたび浴槽に身を沈めれば、満たされた熱めのお湯が身体の奥底まで染み渡る。身を預けるように肩まで浸かるとその感覚はより顕著になり、雄一の口からはじじくさい唸りが漏れてしまう。
温泉自体はもちろん、それに浸かりながら眺める景色もまた格別。改めてこの貸切風呂を予約してくれた澄乃には感謝の念が尽きない。
当の本人の澄乃はというと、今は雄一の背後で身体を洗っている最中だ。さっきからシャワーの音が続いている辺り、すでにボディソープを粗方洗い流した頃合いだろう。恐らく一枚の名画に勝るとも劣らない様子を見てみたい衝動は未だに煮え滾っているけれど、それを理性で抑えつけ、雄一は前方の景色にのみ視線を注いだ。
ほどなくしてシャワーの音が止み、ぺたぺたと素足の音がすぐ後ろまで近付いてくる。
「ま、まだこっち見ちゃダメだからね?」
「分かってるよ」
本当は見たいけど。
内心でそう一言付け足して、雄一は目を閉じて完全に視界を遮断する。
ぱさり、とタオルの置かれる音と澄乃の息遣い。ちゃぷんという音と同時に雄一の隣でお湯が波打ち、その波紋は瞬く間に大きくなっていく。そしてその波紋が次第に緩やかに落ち着いたところで、少しだけ震えた声が雄一の耳を撫でる。
「もう、いいよ……」
一拍置いて、声のした方へ目を向ける。
いつもよりも少し遠い、拳三つ分ほど離れた距離。しっかり肩まで浸かった澄乃は雄一の視線を受け、恥ずかしそうに首をすくめて唇をお湯の中に沈めた。口許近くでぷくぷくと泡を立てる姿がなんとも可愛らしい。
思わずその頭を撫でようと手を伸ばした雄一だが、直前で停止。先ほどのプチ髪の洗い方講座のことを思い出して躊躇ってしまったのも束の間、逆に澄乃の方からやんわりと頭を押し付けてきた。無言のおねだりがまた可愛らしく、入浴用にまとめた髪を崩さないように気を付けながら澄乃の頭をゆっくりと撫でていく。
ふにゃりと目を細めた澄乃はご満悦だ。
「いい湯だねぇ……」
「ほんとほんと」
澄乃にそう返しながら、雄一は浴槽に沈めた身体を思う存分伸ばす。澄乃の緩んだ表情を見るに、彼女も彼女ですっかり脱力した体勢なのだろう。
この温泉が乳白色のにごり湯で助かった。マナー違反覚悟でお互いの身体をタオルで隠さずに済んだし、肩までしっかり浸かっておけばそうそう視線を逸らす必要も変に縮こまることもない。存分にくつろがずして、何のための温泉か。
「そっちのお風呂はどうだった?」
温泉と景色、その二つを最愛の人と楽しむことに幸せを感じながら話題を振る。
この旅館の大浴場は男湯と女湯が日替わりで交換する方式なので、数時間前に雄一と澄乃は違ったラインナップを味わっている。
「良かったよー。広々としてたし、綺麗な夕焼け見れたし……あ、打たせ湯とかもあった」
「マジか。明日の朝風呂で試してみるかな」
「うんうん。ちょっと勢いは強かったけど、なんだか肩こりが取れたし、私としてもおススメ」
「……なるほど」
神妙に頷いてしまう。
澄乃ぐらいのサイズともなるとやはり相応に肩が凝るらしく、それが解消されるとくれば打たせ湯の効果はなかなか信頼できるものらしい。ちょっと当人には言えないような理由で納得している雄一をよそに、澄乃は緩んだ表情のまま笑みを深めた。
「……恥ずかしいけど、こういうの良いね。好きな人と一緒にお風呂」
「ああ。広い湯舟を二人で独占――貸切さまさまだな」
「そう考えるとアレだよね。私たち、ちょっと贅沢な使い方してるよね」
「というと?」
「だってせっかく広い湯舟なのに、こんなに近くで入ってる」
ふふっと笑う澄乃の言う通り、浴槽内のスペースにはまだまだ余裕がある。独占と言いつつも、二人が使用しているスペースは半分にも満たないだろう。
「だったら、もうちょっと離れるか?」
「……ふーん、雄くんはそういうこと言っちゃうんだ。ならご希望通りに端っこまで離れようかなー?」
「そこまで言ってないだろ……。ウソウソ、悪かった冗談だよ。澄乃さえ良ければ、もうちょっと近付きたいかな」
「うん……喜んで」
嬉しさと恥ずかしさをほど良くブレンドした笑みを浮かべた澄乃が肩を寄せる。拳三つ分ほど空いていた距離がゼロになり、お互いの肩が触れ合う。何も身に付けてないのでいつもみたいに抱き合ったりするわけにはいかないが、素肌と素肌が触れ合う感触は幸せで、またこそばゆくもあった。
にごり湯の下、澄乃の手が雄一の前腕に当たる。そのまま手探りで先の方へと近付くと、手の平同士がぴたりとくっついた。
指と指を絡めた恋人繋ぎ。肩や手の平から伝わってくる澄乃の体温は、お湯に負けないぐらい熱く感じた。髪をまとめたことで露わになった白い首筋に差した薔薇色からも、その熱は顕著に読み取れる。
「のぼせないように気を付けろよ?」
「うん。……でも、まだまだこうしてたいなぁ。貸切の時間もまだ余裕あるし」
「ん、そうだな。まぁ、これ以上くっつくのは勘弁だけど……」
「あはは、それは私も同感……。本当にのぼせちゃいそう……」
(それどころの騒ぎじゃないけどな……。のぼせるというか、溺れるというか)
ただでさえ衣服越しでも魅惑的だというのに、それをダイレクトに味わってしまったらいよいよ抑えられない自信がある。白取澄乃という少女の魅力に身も心もどっぷり溺れてしまうだろう。
まだだ。それはまだ、もうしばらく先の話。
だからその分、別の方法で。
「澄乃」
声に応じて、雄一へ向けて上目遣いの視線を向ける澄乃。いつも以上に潤いのある唇に自身のそれを重ね、少ししてから顔を離す。今度はお返し言わんとばかりに、柔らかな笑みを浮かべた澄乃が同じように唇を寄せる。
何度も何度も。何にも負けない二人の熱を交換し合うのだった。
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