+43話『あなたの背中』
「まずは軽くシャワーね」
宣言通り、澄乃はまずシャワーを手に取った。雄一が目を閉じて一拍置いた後、頭上から適度な温度のお湯が降りかかる。頭皮を温めていくように丁寧に、ついでに澄乃の柔らかな指が雄一の髪を優しく梳いていく。
しばらくそうやって髪表面の汚れを洗い流した後、次に澄乃はシャンプーのボトルを手に取り、手の平に出した中身を擦って泡立てる。
「気を付けるけど、目に染みたりしたらすぐに言ってね?」
澄乃からの呼びかけには目を閉じたまま首肯で応じると、雄一の頭にシャンプーの泡と澄乃の手が同時に舞い降りた。まずはシャンプーを馴染ませるように髪全体へと塗り広げ、それから指先で頭皮のツボを刺激するようにぐっ、ぐっと押し込んでくる。
まるでマッサージめいた澄乃の手付きは、雄一にとって今までやったことのないような洗い方だった。
「かゆいところはありませんかー?」
少し調子が出てきたのか、美容師の真似をした澄乃の言葉に自然と笑みがこぼれる。
「かゆくはないけど、なんかちょっとくすぐったいな。こんな風に洗ったことなかったし」
「男の子の場合だと、もっとわしゃわしゃーって感じかな?」
「そうそう、そんな感じ」
「あんまり強くしちゃうと髪を痛めちゃうからね。こういうのはゆっくり丁寧にやるのがコツなんです」
「なるほどなぁ」
その結果が澄乃の綺麗な銀髪というわけか。最近は雄一も髪の手入れにそこそこ気を配っているつもりだが、まだまだ澄乃の足元にも及ばないらしい。この洗い方にしても、彼女が日常的に行っている数あるケアのほんの一部でしかないだろう。
今までだって雑に扱ってきたつもりはないが、今後澄乃の髪に触れる時は今まで以上に丁寧を心がけようと、雄一は密かに心に決めた。
ほどなくしてシャンプーは洗い流され、今度は背中へ。
澄乃は新たにスポンジとボディソープでふわふわな泡を生み出し、その白いかたまりをスポンジごと雄一の背中へ押し当てる。きめ細かい泡と少しごわついたスポンジ、それから時折背中を滑るなめらかな人肌の感触。これまたゆっくり丁寧な手付きなので、得も言われぬ心地良さと幸福感が雄一の心を占めていく。
誰かに洗ってもらうというのも悪くない。むしろ良い。混浴を計画してくれた澄乃にはほとほと頭が上がらなくなってしまう。
「ふんふんふふ~ん」
雄一が心の中で合掌していると、後ろから微かな鼻歌が聞こえてくる。鏡越しに見える澄乃は上機嫌に頬を緩ませ、雄一の背中を小気味よいペースで洗っていた。
「……改めてまじまじと見てみると、雄くんの背中って大きいよねぇ」
背中全体に泡を塗り広げて一段落したのか、動きを止めた澄乃が小さな呟きを漏らした。
「そりゃな。俺は身長もある方だし」
同世代の男子の平均よりは結構上だし、日常的に筋トレにも勤しんでいる。体格だって相応にがっしりするだろう。
そんな雄一の返事を受けると、澄乃は「そういう意味もあるけど」とささやかな笑みをこぼす。
「頼りがいがあるって意味だよ。本当に……頼れる背中だなぁって」
澄乃の両手が肩甲骨辺りに添えられたかと思うと、やんわりと押し込まれる。雄一の身体はほんの少し前のめりにはなるけれど、澄乃からの行いをしっかりと受け止めた。
「ねぇ雄くん、春のオリエンテーションのこと覚えてる?」
「クラス対抗スポーツ大会のヤツだろ? 俺と澄乃が実行委員の」
「そうそう。その途中で私がうっかり崖から落ちちゃって、雄くんが助けに来てくれた」
「姿が見えないからどこ行ったんだろうと思って探してみれば、アレだったからなぁ。見つけた時はマジで血の気が引いた」
「あはは、その節は色々とご迷惑おかけしました……」
恥ずかしがるような笑いが浴室に響いた後、訪れる束の間の静寂。澄乃の手の平が肩甲骨から雄一の両肩へ移動し、さらに柔らかな肢体が寄り添うように近付いてくる。
それはまるで、いつかの思い出を再現するように。
「こんな風に雄くんに背負ってもらって、お互い色々とお話して……。そういえば、あの時からだったかなぁ」
「何が?」
「――雄くんのこと、男の子として意識し始めたの」
耳元でいたずらっぽく囁かれる声。
「その前だって優しい人だなぁとは思ってたんだよ? でも意識し始めたのは、やっぱりその時から。雄くんが私に向かって、急に『好きだ』なんて言い出すもんだからびっくりしちゃった」
「ちょ、ちょっと待て。その時も言ったけど、告白じゃなくてあくまで人としてって意味で――」
「分かってるよ。……でもね、だからこそ嬉しかったの。私のことを認めて、頑張れって言ってくれたような気がして」
雄一の左肩に澄乃が顎を乗せる。鏡に映った彼女は感触に浸るように両目を閉じ、口許を緩やかに弛ませていた。
「いつもありがとう、雄くん」
「……こちらこそ、いつもありがとう」
艶めいた唇が紡いだ言葉に、明瞭な口調で同じ言葉を返した。聞き惚れるように笑みを深めた澄乃は、やがて「そういえばさ」と目を開く。
「雄くんっていつから私のこと好きだったの?」
「俺? 俺は……好きだって自覚したのは、花火大会の時だったかなぁ」
「あー、あの時なんだ。じゃあ好きって気持ちに関しては私の方が先輩だね」
からかい混じりのその言葉に雄一の眉がピクリと反応した。
「そりゃ単純な長さでいったらそうかもしれないけど、気持ちの強さなら負けないからな?」
「む、私だって負けてないもん。というか私の方が絶対強いから」
「いやいや、俺の方が――」
思わず振り向いて反論しようとした矢先、雄一の視線からさっと身を隠した澄乃は軽やかな動きで雄一の右肩へ回り込む。そのまま唇を耳に押し付けるぐらいに近付けると、
「大好きだよ、雄くん」
たっぷりの甘い想いを沁み込ませた言葉が、先ほどよりも一層縮まった距離で囁かれた。脳内に直接響いたかと錯覚してしまうほどの囁きは雄一の脳を震わせ、心を震わせ、全身を甘美な痺れが伝播していく。
一種の金縛りに陥った雄一を見て、澄乃は勝ち誇ったように笑う。
「ふっふー、私の勝ちってことでいいかな」
「いやっ、つーかさ……っ」
囁きはもちろんだけど、それと同じぐらいに雄一を色んな意味で硬直させるものもあって。
なんか割と良い話な雰囲気だったから、あえて指摘するのもどうかと思って黙っていたけれど。
「さっきから、すごい当たってるんだけど……」
「…………っ」
思いっ切りシャワーをぶっかけられた。
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