+40話『湯上がりの魅力』

「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛」


 背中から腰にかけて与えられる断続的な振動に、雄一の口から震え混じりの声が漏れ出る。


 風呂上がり。やはり先に戻ってきたのは雄一らしく、数十分前に別れた大浴場の入口前の待合スペースに澄乃の姿は無い。宣言通り待つためにくつろごうとした矢先、ちょうど良く空いていた有料のマッサージチェアを発見。これ幸いと硬貨を投入してみれば、ものの数分で立ち上がる気力が無くなってしまった。


 温泉で弛緩した身体を叩き、揉み、解していく機械の刺激。時折ゴリッと筋肉に喰い込んでくることもあるが、それがまた痛気持ち良く、初めてまともに体験したマッサージチェアにはなかなかたまらないものがあった。今は無理だとしても、将来もう少し広い部屋に住むことになったら買ってみようか、なんて考えすら思い浮かんでしまうほど。


 そんな風に心も身体も緩み切っていたからこそ、背後から忍び寄ってきた別種の刺激に雄一はたまらず声を上げることとなった。


「おーまたせっ」


「うえっ!?」


 突如として首筋に押し付けられるひやっとした感触。弾かれたように腰を浮かせて後ろに振り返れば、マッサージチェアの背もたれに肘をついた澄乃がニンマリとした笑みで雄一を見下ろしていた。


「ふっふー、クリスマスの日のお返し。雄くんって結構可愛い声出すんだねぇ」


 くすくすと鈴を転がしたような声で笑う澄乃の両手には、それぞれ一本ずつ瓶の牛乳がある。今し方、首に押し付けられたのはその片方だろう。


「男に向かって可愛いとかゆーな」


「えへへ、ごめんなさい。お詫びに私の奢りで一本どうぞ」


「ゴチになります」


 後ろから前に回り込んできた澄乃から、白い液体で満たされた瓶を受け取る。そこで初めて、雄一は湯上がりの澄乃の浴衣姿を目の当たりにした。


「どうかな?」


 少し照れ臭そうに微笑む澄乃を包むのは、白地に青の模様が入った男女共通の浴衣。その上から女性用の臙脂えんじ色の羽織に袖を通している。


 浴衣の袖を摘まんでコンパクトに両手を広げる恋人の姿はとても微笑ましい。


 火照りで赤みが差した頬。しっとりと湿り気を帯び、シュシュでまとめて肩口から前に垂らした髪。ゆったりとした浴衣に包まれながらも、女性らしい起伏を感じさせる体躯。そして、それらを彩る澄乃の柔らかな笑顔。


 風呂上がりの澄乃なら何度か見た。浴衣姿だって夏に一度見たし、色合いだけで考えてもその時よりも地味なはず。だというのに、数多の要素と澄乃自身が誇る魅力が掛け合わさった結果、華やかな雰囲気が何倍にも増幅されている。


 着用しているものは同じ浴衣だというのに、人が変わるだけでこうも違うものか。


「さすがというか何というか……よく似合ってるよ」


「ふふっ、お気に召したようで何より」


 幸せそうに表情を緩める澄乃がたまらなく可愛らしい。そう思ったのは雄一だけではないらしく、今し方、近くを通りかかった大学生ぐらいの男三人組が澄乃を見てあからさまに惚けていた。そしてその視線が雄一に向いたかと思うと、真ん中の一人が悔しそうに、両側の二人がその肩を叩いて廊下の奥へ消えていった。


 ああいった反応をされると少しだけ申し訳ない気持ちになるが、やっぱりこのポジションを譲る気はさらさら無いし、澄乃は自分だけの恋人でいてもらいたい。


 そのためにも、雄一も雄一で澄乃に見合うだけの男になれるように心掛けなければ。ちょうど良く手の中には重要な栄養素であるカルシウムがあるので、手始めにこれを余さず摂取するとしよう。


 栓を開けて口を付ければ、人口の甘味料とは違う牛乳本来の自然な甘みが口内に広がっていく。


「瓶の飲み物って何だか不思議と美味しく感じるよねぇ」


「確かに。コーラも瓶が一番美味いんだよなぁ」


 他愛ない会話を重ねながら牛乳を飲み進める。その最中、なぜか雄一の顔を見た澄乃が小さく吹き出した。


「どうした?」


「ふっ、ふふっ……サンタさんはもう時季外れだと思うよ……っ」


「サンタ?」


 笑いの混じった言葉に?マークを浮かべると、澄乃はポーチから折り畳み式の手鏡を出して雄一へと向ける。


「ヒゲ、生えちゃってるよ?」


 澄乃の指摘通り、雄一の鼻と上唇の間には牛乳の白い跡が残っていた。なるほど、確かにサンタに見えなくもない。


 勢い良く飲み過ぎたか、などと冷静に自分の行動を振り返りつつ手で拭おうとすると、それよりも先に澄乃が一歩前に出る。


「じっとして」


 柔らかな声音と共に、鼻腔をくすぐるどこか甘い香り。澄乃は自分の首にかけていたハンドタオルで雄一の口許を拭うと、幼い子供に向けるような優しい笑顔で雄一を見た。


「はい、綺麗になったよ」


 至近距離での微笑みは破壊力抜群。


 別に自分でできたとか、子供扱いされたみたいで納得いかないとか、人前で恥ずかしいとか、たぶんさっきまで澄乃が使ってたタオルだよなぁとか、色々な考えが渦巻いて結果的に雄一の頬は熱を帯びていく。


 ……とりあえず善意でやってくれたわけだから一言お礼だけでも。


「…………さんきゅ」


 そっぽを向きながらの言葉は自分の想像以上にか細くて、そんな雄一に澄乃はまた小さく吹き出した。

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