+39話『束の間でも惜しんで』
足湯をたっぷりと堪能した後、中断しておいた館内の散策を再開。各所から覗く景色や土産物屋を回り終えたところで、そろそろ大浴場に行こうという運びになった。
一度部屋に戻って着替えなどを準備してから大浴場へと向かう。その道すがら、今回の目玉である温泉に期待を寄せて、澄乃は小さく鼻歌を口ずさんでいた。だがいざ大浴場の暖簾(のれん)を前にすると、ほんの微かではあるが、しょんぼりと眉尻を下げるのが見て取れた。
二人の目前には、『男』と書かれた青の暖簾と『女』と書かれた赤の暖簾。残念だがここで一旦お別れだ。無意識に落ちたであろう澄乃の肩をぽんぽんと叩くと、「あ」と声を上げた彼女が雄一を見上げる。
「たぶん私の方が時間かかっちゃうと思うから、あがったら先にお部屋に戻ってていいからね?」
澄乃の腕の中には、着替えやタオルに加えて防水性の化粧ポーチがある。雄一と違って自前で色々と用意している辺り、女の子の肌や髪のケアというものは本当に大変なのだろう。それ故にまず間違いなく雄一の方が先にあがることになるから、待ちくたびれないように部屋に戻っていい――澄乃が言いたいのはそういうことだ。
こちらへの気遣いを忘れない恋人の姿に小さく笑みを浮かべると、雄一は澄乃の頭をゆっくりと撫でた。
「待ってるよ。せっかくの旅行なんだし、できるだけ二人で一緒にいたいからな」
引っかかりのないさらさらの髪に指を通しながら告げると、雄一の手の下で澄乃はぱちくりと目を瞬かせる。
澄乃の整った外見は持って生まれたものだけでなく、彼女の弛まぬ努力によって培われているものだ。相応の手間暇がかかるのは当然だし、そういった頑張り屋さんなところも雄一の好きな澄乃の美点だ。
そもそも澄乃がそれだけ力を注ぐのだって、いつか本人が言った通り『好きな人には少しでも綺麗だって思ってもらいたい』からだろう。そんな健気な想いを汲み取らずに一人だけくつろぐなど愚の骨頂。罰当たりもいいところだ。
「澄乃の浴衣姿も早く見たいしな」
おどけた口調でそう言えば、頬を赤らめた澄乃が顔を俯かせる。かと思えば澄乃は雄一の袖を指先で摘まみ、そのまま引っ張ってどこかへ連れて行こうとする。
「澄乃?」
「いいからちょっと来て」
振り返らず送られた言葉には、どこか有無を言わせない響きがあった。
何か怒らせることでも言ったかな、と首を傾げる雄一を他所に澄乃はずんずんと進んでいく。
辿り着いた先はフロアの端、人目につきにくい奥まった部分。澄乃は陰になったその場所に雄一の身体を押し込めるや否や――真正面からぎゅうっと抱き着いた。
「お、おい、澄乃?」
突然の行動に目を白黒させる雄一に構わず、胸に顔を埋めてはぐりぐりと動かす澄乃。少ししてから上目遣いの視線を送ってきた澄乃の頬は朱に染まり、ついでにぷくーっと膨れてもいる。
「雄くんのばか」
澄乃の形の良い唇が拗ねたように尖る。
「別れ際にきゅんとするようなこと言ってくるから、我慢できなくなっちゃった。だからちょっとこうさせて」
「きゅんとって」
随分と可愛らしい文句だった。
何やらご立腹らしい澄乃は再び雄一の胸に顔を押し付ける。そのまますりすりと、まるで子猫が自分の匂いを擦り付けるように。マーキングめいたその行為があまりにも愛らしくて、思わず頬が緩んでしまうのが抑えられない。
念のため周囲に目を配ってみてもこちらに近付いてくる人影は無さそうなので、ならばきゅんとさせた分の責任は取らせていただくとしよう。
「――んっ」
華奢な身体を抱き締め返してつむじに鼻先を押し付ければ、澄乃がくすぐったそうに声を上げた。けれど澄乃は雄一から離れようとはせず、それならそれで雄一も彼女の温もりや匂いを堪能していく。
もしかしたら人に見られるかもしれない場所で、何をやっているんだか。ふとそんな冷静な考えが頭の片隅をよぎるが、かといってやめる気にもなれなかった。二人きりの旅行で少し大胆になっているのかもしれない。
結局たっぷり時間をかけてお互いの存在を確かめ合ったところで、澄乃との抱擁は終わった。雄一を見上げる澄乃は満足そうにはにかみを浮かべる。
「ふふっ、わがまま聞いてくれてありがとう」
「どういたしまして。澄乃のわがままならお安い御用だ」
ダメ押しとばかりに優しく頭を撫でると、澄乃はふにゃりと表情を緩めて心地良さそうに目を細めた。そんな表情の移り変わりはずっと眺めていても飽きないが、さすがに際限が無くなりそうなのでここらで潮時にしよう。
「一応言っとくけど、別に早くあがろうとか考えなくていいからな? 俺もゆっくり入るつもりだし」
「うん、そうする。気合入れて浴衣着てくるから、楽しみにしててね」
「ん、期待してる」
最後に軽く笑い合い、二人は大浴場の前で束の間の別れを迎えた。
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