+31話『これからも、ずっと(後編)』

「少し、私の昔話をしていいですか?」


 澄乃は短く告げる。桜子と晴信は特に口を挟む様子も無く、黙って澄乃の方に目を向けた。それを肯定の意と捉えると、一言「ありがとうございます」と前置きしてから、澄乃は静かに語り始める。


「実を言うと私、今年の夏ぐらいまで母親との折り合いが悪かったんです」


 その言葉を皮切りに、澄乃の昔話は進んでいく。


 父であるまさるの死。


 そこから狂い始めたかすみとの関係。


 自らが口走った最悪の言葉。


 それをきっかけに始めた一人暮らし。


 雄一との出会いや、共に過ごした時間。


 彼に勇気をもらって、霞との復縁を望み、そして一度は拒絶されてしまったこと。


 その一つ一つの思い出を、自分自身も噛み締めるように、澄乃はゆっくりと語っていく。


 気付けばカップの中身は空になっていて、桜子が新しいハーブティーを用意してくれる傍ら、そっと澄乃の肩に手を置いた。


「そんなことがあったの……。辛かったでしょうね」


「……はい。母に電話で『来ないで』って言われた時には……なんかもう、頭の中とか、目の前とか、全部真っ暗になっちゃって……それから自分がどこをどう歩いたのか、ちっとも覚えてないんです。気付いたら、雄くんの家の近くの公園にいて……」


 どしゃ降りの雨の中、ブランコで一人項垂れていた。


 たぶん、無意識に雄一のことを求めていた結果だろう。全てが暗闇に閉ざされてしまった状況で、ただ一つ、澄乃自身の深層心理に根付いていた希望に縋った。


 まるで明かりに群がる羽虫のような、ひどくちっぽけな存在。それでも雄一はそんな澄乃を見つけ、手を差し伸べてくれた。


 あの時の言葉に、温もりに、力強さに――どれほど救われたことか。


「雄くんが『任せろ』って言ってくれた時……私、本当に嬉しかったんです。ああ、この人がいてくれて良かったって。おかげで母とも仲直りできて、今は昔と同じように笑い合えるようになれました」


 ……もし雄一に出会うことがなければ、自分はどうなっていただろうか。きっと今でも霞との復縁を果たせず、あまつさえ諦めて、上辺うわべだけ取り繕った惰性のような日々を過ごしていたと思う。


「私にとって雄くんは、本当に大好きな人で……それと同じぐらい、感謝してもし切れないくらいの恩人なんです」


 今の自分から心から笑える日々を過ごせるのは、他でもない、雄一がいてくれたからこそだ。


「だから私、実は密かに決めてることがあるんです」


 ここから先は雄一には――それこそ他の誰にも打ち明けたことのなかった、澄乃の心の奥底に秘めた誓い。


「もしいつか、雄くんが辛かったり、苦しんだりする時がきたら――今度は私が助けてあげようって」


 雄一から貰った恩義に報いたい。もちろんそういう気持ちもあるけれど、それ以上に、好きな人を支えてあげたかった。あの時の彼がそうしてくれたように。


「だから安心してください。責任とかそんなの関係無しに……私はこれからもずっと、雄くんのそばにいたいって思ってますから」


 心からの言葉を、柔らかな笑みに乗せて告げる。


 正真正銘の本心。これが今の自分の、嘘偽りの無い気持ちだ。


 向かいの二人が、どこか放心したような様子で自分を見つめていた。


 少し感情が高ぶってしまったが、冷静になってみると、相当恥ずかしいことを言ってしまった気がするような……。


「ま、まぁ、もっとも、雄くんがそんなことにならないのが一番ですけど……」


 無性に気恥ずかしさが込み上げてきて、早口で捲し立てる澄乃。誤魔化すようにハーブティーを一息で飲み切ると、思わずすぐに俯いてしまう。顔からある程度の熱が引くのを待った後、ちらりと相手の反応は窺ってみる。


 桜子と晴信は――それぞれの目からぽろぽろと雫をこぼしていた。


「え、えぇぇええ!?」


 これには澄乃も慌てざるを得なかった。黙ったまま何も言ってこないのかと思えば、急に大の大人が二人揃って涙を流している。さすがに経験したことのない事態に、澄乃はわたわたと手を振ってしまう。


「あ、あの……私何か、変なこと言っちゃいました……っ!?」


「ちがっ、違うのよ……! なんだかとても……感動しちゃって……っ!」


「私も……年甲斐もなく、涙腺に……!」


 とりあえず手近にあったティッシュ箱を澄乃が差し出すと、二人は何枚か抜き取って目元を拭った。ひとしきり涙が治まってから、桜子が「澄乃ちゃん」と声をかける。


「改めて、これからも雄一のことをお願いね。私たちはあなたたちの関係を、心の底から祝福するわ」


「……はい、ありがとうございます」


 先ほどの桜子たちを倣うように、深々と頭を下げる澄乃。そうして三人で笑い合う。


「さて、堅苦しい話はここまでにしましょう! 澄乃ちゃんも付き合ってもらって悪かったわね」


「いえ、私の方こそ色々と話を聞かせてもらって、ありがとうございます」


「澄乃ちゃんって本当に良いコねぇ……」


 桜子はしみじみと頷いた後、何やらじっと澄乃のことを見つめてくる。


「あの、桜子さん……?」


「うーん、中身も良ければ外見も抜群……。肌なんてすごい白くて綺麗……ただ若いだけじゃないわね……」


「あ、ありがとうございます……?」


 ぶつぶつと、どこぞの批評家のように呟く桜子。その圧に押されて少し身を引いてしまうと、逆に桜子は身を乗り出して澄乃の手を掴んだ。


「ねぇ、澄乃ちゃんって普段どんなお肌のケアしてるの? 何かオススメの化粧水とかあるのかしら?」


「まぁ、お気に入りのものとかなら……」


「この際だし色々と聞かせてもらっていいかしら? 私、すごく興味が湧いてきちゃったの!」


「え、あの、はい、大丈夫ですけど……」


 言葉とは裏腹に、澄乃の頬がひくっと引きつる。何せ今の桜子の目の奥に、獲物を前にした肉食動物のような光を垣間見たからだ。


 だが相手は恋人の母親。当然無下にするわけにもいかず、澄乃はごくりと唾を飲み込んで覚悟を決めた。


「母さん、ほどほどにしてあげるんだよ」


 晴信は手際よく三人分のティーカップセットを片付けると、そう言い残して台所へと向かう。


 その言葉は果たして聞こえていたのかどうか。たぶん、聞こえてない。












「ゆ、雄くん、優衣ちゃん……おかえりぃ~……」


「どしたの澄乃さん……」


「取って食わないんじゃなかったのかよ……」


 しばらくして雄一と優衣が帰宅すると、澄乃はぐったりとした様子でソファに沈んでいた。代わりに桜子はほくほくしていた。

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