+30話『これからも、ずっと(前編)』

「雄一は、元気にやれているだろうか?」


 晴信のそんな言葉は、ひどく憂いを帯びているように聞こえた。


「えっと、それはどういう意味で……?」


「言葉通りの意味で構わないよ。君の目から見て、普段の雄一はどんな感じなのかと思ってね」


「そういうことなら……元気だと思います」


 少なくとも澄乃が見ている限りではそうだ。大きな事故や病気に見舞われることはなかったし、特別深い悩みを抱えているようにも見えない。至って平穏無事な日常のはず。


 けれどわざわざ場を設けてまで聞いてくるということは、何か特別な事情でもあるのだろうか?


 と、そこまで考えが及んだところで、最悪の可能性が澄乃の脳裏を過った。


「ひょっとして、雄くんに何かあるんですか……!? 重い持病とか、そういうの……!」


 自分が気付いていないだけで、何か爆弾めいたものを抱えているのかも。もしそうなら、到底見過ごすことなどできはしない。だがそんな澄乃の憂慮に対し、晴信は先ほどと同じような笑顔を浮かべた。


「ああ、それは心配しなくて大丈夫。そりゃたまに風邪の一つや二つぐらいは引くけど、雄一は至って健康体だよ」


「本当ですか? なら、いいんですけど……」


「ふふっ、澄乃ちゃんったら、本当に雄一のことを大事に想ってくれてるのね」


 新たに二客のティーカップセットを用意してきた桜子が、淡い微笑を澄乃に向ける。彼女からの指摘に頬が熱くなるのを感じるけれど、そこは素直に頷いた。


 誰よりも好きで、誰よりも大事な自分の想い人。もし雄一に何かあったりしたら、きっと自分は夜も眠れない。晴信と桜子からの雰囲気から察するに、雄一が健康であることは真実のようなので一安心だ。


 でも、だったら一体……?


 いまいち相手の意図が掴めず、困惑するばかりの澄乃。対する晴信も手探りな様子で腕を組んでいた。


「うーん、どこから話せばいいかな……?」


「そうね……。ねぇ澄乃ちゃん、私たち家族が、昔事故にあったって話は知ってるかしら?」


 自身と晴信の前にそれぞれ一客ずつ、ハーブティーに注がれたカップを置いた桜子が晴信の後を引き継ぐ。その問いに澄乃は頷いた。


「はい。雄くんが小五の……六年とちょっと前の話ですよね? 以前、雄くんから直接聞きました」


「そう、それなら話が早いわ」


 晴信の隣に腰を下ろした桜子はカップに口を付け、その味わいを楽しんでからゆっくりと口を開いた。


「あれは本当に大きな事故でね、重傷だった私たち二人がこうして今も生きていられるのだって、奇跡みたいなものなのよ」


 桜子が衣服に包まれた右腕をそっと撫でた。……もしかしたら、多少なりとも傷が残っているのかもしれない。けれどほとんど無意識の行動だったらしく、桜子は何食わぬ顔で話を続ける。


「あの時は優衣にはもちろん、雄一にもたくさん迷惑をかけたわ。私たちが眠ってる間、ずっとあの子が優衣を支えてくれたんだもの」


 その話は澄乃も聞いている。


 両親を頼れない以上、自分が妹を支えなければならない。そんな想いの下に必死に耐え続け、やがて限界が来て、心が折れかけていたその時に――雄一は一人の恩人ヒーローに救われたと。


 今の雄一を形作ることになった、始まりの日の出来事。


「その時からね、雄一は変わったのよ」


「え?」


 零れ落ちたような桜子の言葉を、澄乃はたまらず聞き返した。


「変わったって言っても、別に人格が変わったとかそういうレベルじゃないわ。でも……うん……やっぱり変わった」


 もう一度カップに口を付ける桜子。ほんの微かな湯気を浴びるその表情には、気付けば寂寥にも似た色が浮かんでいた。


「今じゃしっかりしてる方だけど、昔の雄一って結構やんちゃ坊主だったのよ? 優衣ともよく喧嘩してたし、わがままなところもあったし、私も晴信さんも手を焼いたわ」


 視線を交わして、過去を懐かしむように桜子と晴信は笑う。それはまるで、無くしてしまった宝物に想いを馳せているようにも見えた。


「それが急に変わって……物分かりが良くなった、とでも言えばいいのかしら? もちろん、一つは一つは些細な変化だった。言われなくても勉強するようになったとか、よく家事を手伝ってくれるようになったとか、そういうありふれたもの。担任の先生からも『最近大人になりましたね』って褒められて、とても嬉しかったわ」


 そう語る桜子の笑顔からは、やはり物悲しさが抜けていない。


「当然、真っ当に成長してくれてたわけだから、親としても誇らしい変化だった。……でもね、正直ちょっと……寂しくもあったのよ」


「寂しい、ですか……?」


「ええ、何だか急に私たちの手を離れたような気がしちゃって。それこそわがままな話よね、子供の成長を純粋に喜んであげられないなんて」


 不満があるわけではない。それでもずっとそばにいた家族がいつの間に変わってしまうのは、喪失感めいた気持ちを抱いてしまうのかもしれない。澄乃に同じような経験は無いが、言わんとしていることは何となく理解できた。


「特に気掛かりだったのは……そんな風に正しくあろうとするあまり、どこかで無理してるんじゃないかってこと。ほら、今のあの子って、自分よりも周りを優先しがちじゃない?」


「……そう、ですね」


 こっちはすぐに理解できた。何せつい最近、それを痛感したばかりだから。


 ――クリスマスの夜、雄一に押し倒された時のこと。あのまま一線を超えてもおかしくはない状況だったし、澄乃自身、それを受け入れていたつもりだった。けれど自分でも気付かない恐怖は確かにあって、そして雄一は決してそれを見逃さなかった。そればかりか、自らの欲を抑え込んででも澄乃を優しく労わってくれた。改めて、本当に良い人に巡り合えたと思った。


「私たちもできるだけ気にかけてはみたんだけど、内容が内容だけに、面と向かって訊いてみるわけにもね。結局そのままで、いつの間にか雄一は高校生よ」


 それもそうだろう。仮に雄一が人知れず何かを抱えていたとして、きっとそれを他人に悟らせないように振舞う。周りの心配はする癖に、自分の心配は極力させまいとする――そういう気質を持っているのが、英河雄一という人間だ。


 無論、そういった部分も好ましいし、澄乃が雄一に想いを寄せるようになった要因の一つでもあるから、決して間違いだとも思わない。


 ……けれど、気掛かりにならないかどうかはまた別問題だ。


「そんな感じだったから、雄一が『一人暮らしさせてもらえないか?』って言い出した時は結構驚いたものさ」


 今まで静かに話を聞いていた晴信が言った。


「それと同時に嬉しくもあった。何だか、久しぶりに雄一本人の口からわがままを聞いた気がしてね。高校生で一人暮らしをさせるっていうのは不安の方が大きかったけど、私たちの方でも色々と考えた結果、雄一の判断を信じてみることにしたんだ」


 家事の手伝いの甲斐もあってそこそこの生活力は身に付いていたしね、と晴信は笑って付け加える。


「まぁ、つまるところ、雄一が問題なく日々を過ごせているかどうかを、近くにいる人の目を通して直接聞いてみたかったというわけだよ。もちろんさっき言った通り、雄一が好きになった人に会ってみたかったのも本心さ」


「澄乃ちゃんから見ても大丈夫そうなら、とりあえず一安心ね。こんな素敵な恋人さんもできたことだし」


 締め括るような言葉の後、桜子が居住まいを正す。その視線は真っ直ぐに澄乃に注がれ、澄乃の方も自然と背筋が伸びた。


「澄乃ちゃん、これからも雄一のこと見守ってあげると嬉しいわ。あの子、自分でも気づかない内に無理しちゃうかもしれないから……そういう時にそばにいてくれる人がいると、私たちも安心できるの」


 ゆっくりと桜子が、そしてあの後に続いて晴信も頭を下げる。軽い会釈などではなく、とても真摯な気持ちが込められた深いもの。まだ成人すらしてない少女に、一回りも二回りも年上の大人が二人揃って、最大限の敬意を払った礼をしていた。


 わずかばかりの時間を置いた後、急に焦ったように桜子が顔を上げる。


「――って、ごめんなさい。これじゃまるで、責任を押し付けるみたいになっちゃうわね。とにかく、何というか、私たちが言いたいことは――」


「大丈夫です」


 続く桜子の言葉を、澄乃はやんわりとした口調で遮った。


 大丈夫、そんな風に畏まらなくたっていい。


 だって、とっくに。


「元から私は、そのつもりですから」


 自分の心は決まっているのだから。

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