+22話『ここに誓いを』

 衝撃に押されて、ソファのスプリングが抗議するかのように音を立てた。


 黒い革張りの座面に美しい銀髪が広がり、その中央に位置する澄乃の顔は驚きで染められている。


「雄、くん……?」


 雄一に押し倒された体勢のまま、澄乃は掠れた声で言葉を紡いだ。ゆっくり顔を下ろしていくと、透き通った藍色の瞳はよりいっそう大きく見開かれる。澄乃の唇が何かを言おうと蠢くその前に、雄一は自分の唇で噛み付くように塞いだ。


 待って――もしかしたら、そんな類の言葉を言おうとしたのかもしれない。でも到底我慢なんてできなくて、雄一は込み上げる欲望のままに澄乃の唇を貪る。


 甘い。甘くて仕方がない。これまで何度も味わったはずの柔らかさや瑞々しさが、どうしようもないぐらい甘く感じた。


 雄一の襟元を掴む澄乃の手にぎゅっと力がこもるけれど、決して雄一のことを押し退けようとはしてこない。むしろ突然の行動に翻弄されながらも、必死に応えるように顎を上げてくれる。それをいいことに雄一は何度も唇を押し当て、たっぷりと感触を味わってから顔を離した。


 荒く、そして浅い呼吸を繰り返す澄乃。羞恥で濡れた瞳はとろんとした眼差しで雄一を見上げている。


 ――そこに映る自分は今、どんな顔をしているだろう。


 そんな疑問が一瞬脳裏を掠めるが、すぐに頭の中からこぼれ落ちて消えていく。


 もう自分のことなんてどうでもよかった。ただ目の前で無防備に横たわる澄乃のことしか考えられなくて、全ての意識が彼女に奪われる。


 中途半端に捲れ上がったスカートから覗く、ストッキングに包まれた肉付きの良い太もも。ニットの布地の下で忙しなく上下する、大きな二つの膨らみ。熟れたリンゴのように真っ赤に染まった両頬。


 されるがままを受け入れるかのように、澄乃の目が閉じられる。唾液で濡れた唇から熱い吐息が色香と共にこぼれ、それに誘われるように雄一は再び顔を近付けた。 


 もう一度、今度はもっと深く。


 そんな想いで澄乃の肩を掴んだ瞬間――気付く。




 彼女の肩が、小刻みに震えていることに。



 

「――澄乃」


 静かにその名を呼ぶと、澄乃は恐る恐る目を開いた。


 少しだけ冷静になれた今なら分かる。その藍色の瞳の奥に、少なからず怯えが含まれていることが。


「俺は、澄乃が好きだ」


 澄乃のことを真っ正面から見つめながら、雄一は想いを伝える。


「これまでも、これからも、この先何があってもずっと、澄乃の隣にいたいと思ってる。だから正直に言ってくれ。……怖いか?」


 はっと、澄乃の目が大きく見開かれたのも束の間、すぐに申し訳なさそうに伏せられた。


「……ちょっと、怖い。でも――」


 囁くような告白の後、すぐに顔を上げる澄乃。頭に優しく置いた手でその動きを制すると、雄一は澄乃を落ち着かせるように笑顔を浮かべる。


「ん、分かった。今日はもう、これ以上進めない」


 急に押し倒してごめん、と付け足して、雄一は澄乃の背中に手を回してその身体を抱き起こした。


「えっ、でも……雄くん、辛くないの……? 今日だって、私からお泊まりに誘ったのに……っ」


 言葉の途中で、澄乃の視線が一瞬下を向いた。その先に何があったのかは自分でもよく分かっているけど、所詮は生理反応。それ以上に大事なことがある。


「澄乃を怖がらせる方がよっぽど辛い。だから気にすんな」


 何度も口にしたお決まりの言葉と共に、澄乃の頭を優しく撫でる。澄乃はなおも食い下がろうとする素振りを見せるが、雄一の気持ちは変わらなかった。


 受け入れてくれるかどうか。それに限れば、きっと澄乃は雄一の行いを受け入れてくれるだろう。でも、たぶん無理もしてる。


 自分から雄一の欲望を煽るような真似をした以上、求められたら受け入れるべきだと、澄乃はそんなことを考えているんだと思う。その気持ちに甘えて澄乃の全てを愛することができれば、至上の快楽が味わえるとも思う。


 それでもやっぱり、自分の大切な人を怖がらせたくない。全ての恐怖を取り除くことは無理でも、できるかぎり和らげてあげたい。


 心に秘めたそんな想いを直に伝えるように、雄一はそっと、澄乃の頭を胸に抱き寄せる。


「言ったろ? ずっと隣にいたいって。だから焦らなくていいさ。俺はいつまでも待つから……二人でゆっくり進んでいこう」


「雄くん……」


 雄一の胸の中で鼻をすするような音が聞こえた。ゆっくり丁寧にを心掛けながら、労わるように繰り返し澄乃の頭を撫で続ける。


 ――さて、これで潔く締めることができたら良かったのだが、さすがにそうもいかなかった。


「……あのさ、澄乃。ちょっとだけ……前言撤回していい?」


「え?」


 こちらを不思議そうに見上げる澄乃から目を逸らしつつ、雄一は気まずそうに頬を掻く。


「澄乃の言った通りさ……正直、結構辛いし、限界ギリギリな部分はある。だから……」


 先ほど澄乃に伝えたことは嘘偽りのない本心だけれど、心の奥の情欲は依然として残ったままだし、同じ状況になった時に次も我慢できるかと問われたら、正直自信は無い。


 だから欲しい。もっと強固な枷――明確な期限・・・・・が。


「……いっそ、決めるってのはどうだ?」


「……決める?」


「ああ。つまり、二人で話し合って、いつにするか決める……みたいな……」


 いつまでも待つ、とカッコつけた宣言の後に、なんだか随分と往生際の悪い発言をしている自覚はある。けどいつまでも耐えればいいかを明確にできれば、その日までは頑張れるような気がした。


 雄一の言葉の意味が飲み込めずにきょとんと首を傾げる澄乃だったが、やがて意図を察したのか、分かりやすく頬を紅潮させていく。そして、こくりと頷いた。


「うん……そうしよっか」


 どうやら提案を飲んでくれたらしい。


「えっと、いつがいいんだろ……。雄くんはあるの? 希望の日とか、そういうの……」


「いや、今のところ特には……」


 できれば早い方がいい、という本音はもちろん封じ込める。


「むしろ澄乃に決めてもらった方がいいかもな……」


「え、私?」


「ああ。もちろん丸投げするわけじゃないんだけど……ほら、女の子にはあるんだろ? 良い日とか、悪い日とか……」


 さすがに具体的な周期とかそういったことは分からないが、最低限の知識として、求めるべきではない日があることは知っている。そもそも女性側の方が負担の大きい話だと思うので、そういった意味でも澄乃に決めてもらった方が望ましいだろう。


 考え込むように顔を伏せた澄乃は、少しの間を置いてから雄一を見る。


「――二月二十七日」


 澄乃が口にしたのは、一見何の脈絡もない日付。けどその日は、雄一にとって大きな意味のある日だった。


「その日って……」


「うん、雄くんの誕生日」


 以前、ふとした会話の中で誕生日を教え合ったことがある。雄一が二月で、澄乃が三月。お互いの誕生日が意外と近いことに軽く笑ったのだったか。


「その日は土曜日で、次の日はお休みでしょ? だから、今日みたいにお泊まりして……そ、それで……」


 頬どころか耳の先まで真っ赤にし、ふるふると羞恥に震える澄乃。やがて意を決したのか、潤んだ瞳で真っ直ぐに雄一を見て――


「わ、私をプレゼント、みたいな……?」


 そんなとんでもない爆弾発言を口にした。


 数秒、雄一の思考は完全に停止する。それとは裏腹に勝手に動き出した身体が澄乃をまたソファに押し倒そうとしたところで、ギリギリかき集めたなけなしの理性で動きを食い止めた。


(あっぶねぇぇぇぇ……!)


 今のは本当に危なかった。あと一歩、いや、半歩で一線を踏み越えていた。そして踏み越えたら最後、今度こそ本当に、澄乃の全部を自分のモノにしていた確信がある。踏み止まることができたのは、一重にタッチの差で成立したばかりの約束があったからだろう。しといて良かった。


「本当にその日でいいのか……? 別に急ぐ必要なんてないんだぞ?」


「心配してくれてありがとう。でも大丈夫だよ。怖い気持ちはもちろんあるけど……雄くんともっと先に進みたいって気持ちは、私にもちゃんとあるから」


「澄乃……」


 ……ああ、もう、本当に、この子が恋人で良かったと、心からそう思う。


「じゃあ、とりあえずその日に向けて、お互い準備しておくということで……」


「うん……分かり、ました」


 澄乃は真っ赤なまま。そして自分の頬に集まった熱量を考えるに、雄一も同等ないしはそれ以上に真っ赤で、二人の間には今さらいたたまれない空気が流れる。


 それでもお互いの気持ちが通じ合ったことが、最高に幸せだった。

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