+23話『ホワイトクリスマス』

 ちゃぷん、とお湯の跳ねる音が浴室内に響く。熱めのお湯を張った湯舟に身を沈めた雄一は一人、どこか放心したように天井を見上げた。


「これで良かった……んだよな?」


 誰に聞かせるでもなく呟きながら思い返すのは、少し前の澄乃との一幕。いきなり押し倒して怖がらせたりと、今さら澄乃に対して申し訳ない気持ちでいっぱいになるが、最終的には最愛の人との関係をより深めることができた。厳密には足掛かりを得たに留まるものの、大きな進歩と言っていい。


 わざわざ“その日”を明言するというのは気恥ずかしくもあるが、雄一も澄乃もお互いが初めての恋人で手探りなところもある以上、大事なことほどはっきり言葉にした方がいいだろう。


 言葉にしなくても伝わる――そういった関係はもちろん素晴らしいと思う。けれど何でもかんでも「理解してくれるはず」で片付けてしまうと、いつかどこかで手痛い失敗をおかしてしまうかもしれない。結局、何事もバランスが大事ということだ。


(まあ、決まった以上、後は腹を括るだけだな)


 とにもかくにも一度決めた以上、来るべき時に備えて準備をしなければ。どこまで上手くできるかは分からないが、やはり男としては最大限リードしてあげたいというのが雄一の考えだ。


 手順とか、触れ方とか、必要なモノとか――……。


(……また今度にしよう)


 考え出すと必然的に澄乃のあられもない姿も想像してしまい、腰の辺りの居心地が非常に悪くなる。ただでさえ熱めのお湯で体温が上がっているのだから、これ以上は下手するとのぼせてしまいそうだ。


 湯舟から上がってシャワーを浴びた後、雄一は浴室から出るついでに保温機能をオフにしておく。澄乃は雄一の前に入浴を済ませているので、今頃可愛らしいパジャマ姿でくつろいでいるだろう。


 ちなみにどちらが先に風呂に入るかで、『家主なんだから』雄一と『お客様なんだし』澄乃で対戦が勃発。またもや雄一が勝利を収めたので、澄乃に一番風呂を押し付けた次第である。


 ……一緒に入るという選択肢は、まだ・・お預けだ。


 パーカータイプのスウェット上下に着替え、ドライヤーで軽く髪を乾かしてからリビングへ向かう。


「あれ?」


 澄乃がいない。てっきりソファに座ってふてぶてパンダと戯れているかと思ったのに、室内をぐるりと見回しても見慣れた姿は見受けられない。不思議に思っていると、そんな雄一の肌を微かな冷気が撫でた。


 目で追った先の出処は、ベランダへと繋がる少しだけ開かれた窓。一枚隔てたその先に、ようやく求めていた背中を捉える。わざわざ寒空の下で何を、と澄乃に尋ねようと近付いたところで、雄一は彼女の行動の意味を悟った。


「おぉー」


 雄一の口からこぼれたのは感嘆の言葉。それに反応してこちらに振り向いた澄乃は、ピンクのもこもこルームウェアの上から厚手のブランケットを羽織っていた。


「すごい雪だなあ」


 言いながら澄乃の隣へ。強い冷気が漂う屋外は今、空からしんしんと雪が降り注いでいた。夜空には雲が立ち込めていて星こそ見えないが、街灯を浴びた雪がほのかに白く輝いているようで、なかなかに綺麗な世界が広がっている。


 澄乃も目の前の光景にご満悦な様子だ。「ホワイトクリスマスだねえ」と声を弾ませながら、幼い子供のような眼差しで舞い落ちる雪を眺めている。


「去年は降ったっけ?」


「んー……どうだったかな? 去年はそれどころじゃなかったし」


 苦笑混じりに呟かれた澄乃の言葉を聞いた瞬間、しまったと思った。


 去年のこの時期、澄乃は転校した直後。引っ越しでばたばたしていただろうし、母親である霞との軋轢も色濃く残っていたはずだ。とてもじゃないが、クリスマスのような祝い事に興じることなどできなかっただろう。


 せっかくの日に辛い気持ちを思い出させてしまったことが申し訳なくなり、雄一は「悪い」と口にして澄乃の頭を優しく撫でる。くすぐったそうに目を細めた澄乃は笑顔を浮かべ、もたれるように身を寄せてきた。厚手の布越しでも、澄乃の温もりがじんわりと伝わってくる。


「明日は積もるかな?」


「この分だとな」


 降り続ける雪は衰えの気配を見せない。周囲に目を向けてみれば、建物の屋根などは早くも白く染まり始めていた。この調子だと、明日の朝はそこら中に雪が積もるに違いない。すでに休みに入った学生としては能天気に構えていられるが、社会人の方々は一苦労することになるだろう。


 大変だな、と他人事のような感想を抱いていると、一際強い冷気が肌を刺し、雄一は思わず大きなくしゃみをしてしまう。


「あっ、ごめん、お風呂上りなのに湯冷めしちゃうよね。早く部屋に入ろう」


 こちらを気遣って、くいっと手を引く澄乃。もっともな意見ではあるが、できるならもう少しだけこの景色を――大雪に目を輝かせる澄乃の愛らしい姿を見てみたいと思った。


 だから、雄一は澄乃の羽織ったブランケットを奪って背中に羽織り、そのまま後ろから抱え込むようにして澄乃を抱き締めた。ルームウェアのもこもことした肌触りはもちろん、その下に隠された澄乃の柔らかさと温もりはとても心地良い。


「もうちょっとだけ見ていたいから、こうしてていいか?」


「……もう、返事する前からやってるくせに」


 ぷくりと頬を膨らませた澄乃は雄一の手を取り、そのまま自分の口許へと近付ける。そして、ゆっくりと優しい息を吐いた。澄乃の気遣いのこもった熱い吐息が雄一の両手を温め、突然の行動に胸は高鳴る。振り返った澄乃の表情はどこか小悪魔めいた笑みで彩られていた。


 そんな二人のそばに落ちた一粒の雪は、熱に当てられたように溶けていった。

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