+15話『枕』

「結構降ってきちゃったねー……」


 窓ガラスを一枚挟んだ向こう側――どしゃ降りの外を眺めながら、澄乃は静かに呟いた。


 十一月下旬の休み。今日は午前中から澄乃とデートの約束をしていたのだが、どうにも雲行きが怪しい。天気予報を見れば夕方近くまで雨マークが続いていたので、急遽予定を変更して澄乃の自宅でまったりすることにしたのだが……外の様子を見るかぎり、その判断は正解だったようだ。


 外の景色から視線を外し、雄一はソファーに身を沈めた。


「最近、ぼちぼち寒くなってきたしなあ。こういう雨の日は部屋の中でゆっくりするに限る」


「ふふっ、そうだね」


 せっかくのデートが悪天候に見舞われた割には楽しそうに、窓から離れた澄乃は雄一のすぐ隣に腰を下ろした。そのまま寄り添うように肩をくっつけてくる彼女は、今日も今日とて可愛らしい。


 本日の澄乃の服装はニットセーターとショートパンツ、それと両足を覆う厚手のストッキングというシンプルながらも暖かそうなコーディネートだ。それを証明するように、触れ合った箇所からはじんわりとした温もりが伝わってくる。適度な暖房と澄乃が淹れてくれたホットココアも合わされば、実に快適な空間を味わうことができるというものだ。


 横を見れば、澄乃もココアの甘さに頬を弛ませている。手の半分ぐらいがセーターの袖で隠れているのが、雄一としては結構ツボだった。


 そんな風にまったりしていること数分、来客を告げるインターホンの音が部屋の中に響く。立ち上がった澄乃が壁に設置されているモニターに向かうと、少し話した後にモニターを操作した。どうやらエントランスの施錠を解除したようだ。


「なんだって?」


「この前頼んだ通販。予想より早かったけど、もう来たみたい」


 しばらくすれば今度は部屋の前のインターホンが鳴り、澄乃は玄関の方へと向かう。少しの間を置くと、澄乃は割と大きめの段ボール箱を抱えて戻って来た。


「何頼んだんだ?」


 その大きさに興味をそそられた雄一が尋ねると、澄乃は引き出しから取り出したカッターで手早く開封作業を進めていく。


「じゃーん!」


 そんな愛らしさたっぷりの声と共に澄乃が取り出したのは、真空パックで梱包された白い枕だった。枕としては比較的大振りなサイズで、一緒に入っていた商品説明の冊子には、『その寝心地、まるで無重力』という謳い文句が書かれている。


「へえ、枕か」


「うん。この間テレビで見かけて、結構良さそうだから買っちゃったんだー」


 待ちわびたように目を輝かせながら、澄乃は真空パックに慎重にカッターを走らせる。ひとたび真空という枷から解き放たれると、枕は徐々に膨らんで本来の形を取り戻した。


「わっ、想像よりも良い感じ」


 さっそく枕に顔を埋めた澄乃が声を弾ませた。その様子だけでも枕の柔らかさが伝わってくるようで、わざわざ通販で注文しただけの価値はあるようだ。


「雄くんも試してみる?」


「なら失礼して」


 澄乃の申し出を受け取って横向きで枕に顔を埋めてみれば、ほど良い柔らかさが雄一の頭を迎え入れてくれる。さりとて柔らかすぎるということもなく、適度な固さもしっかりとある。


 確かに良い。確かに良い枕なのだが……


(……なんか、違う)


 素晴らしいという評価を下すには、何か物足りなさを感じてしまう雄一だった。


「あれ、雄くんには微妙だった?」


 雄一の些細な表情の変化に気付いたのか、澄乃が疑問の声を上げる。


「ああ、いや、枕自体は良いと思うんだけど……なんかしっくりこないというか……」


 以前にもっと良い枕に出会った覚えがあるというか。


 いつどこで、というのが曖昧でいまいち思い出せないのだが、確かに出会った気がするのだ。


「――って、悪いな。せっかく買ったのに水を差すようなこと言って」


「気にしないでいいよ。好みは人それぞれだもん。……でも、どんな枕なんだろう? かなりお高いもの?」


「んー……店で見かけたって覚えもないんだよなあ」


 そもそも雄一は枕が変わっても熟睡できる方なので、それほど質に凝っているわけでもない。それこそ一人暮らしを始める時に購入した以降、特に気に留めたこともないはずだ。


 と、なぜか自分よりも「うーん」と首を捻っている澄乃を見て――ふと思い出した。


「あ……」


「何、思い出した?」


「……いや、ただの気のせいだった」


「……雄くん、今、目を逸らしたよね?」


 目敏い。


「知ってる? 雄くんが誤魔化す時って、右上を見る癖があるの」


「え、嘘だろ!?」


「うん、嘘。でもその反応を見ると、誤魔化したのは当たりみたいだね」


「……ハメやがったな」


「ふっふー、引っかかったー」


 得意気に胸を張る澄乃。そんな愛くるしい笑顔を浮かべられると、何も言えなくなってしまう。


「それで、一体どんな枕なの?」


「あー、それは……その……」


「え、そんな言えないようなものなの?」


「言えないわけじゃないけど……」


 そう、別に正直に伝えたところで問題があるわけではない。ただ……非常に恥ずかしい思いをするだけだ。


 とはいえ澄乃も興味津々なご様子なので、雄一は諦めて白状することに決めた。


「――ざまくら」


「え? なんて?」


「だから……澄乃の、膝枕」


「…………」


 言ってしまったが最後、澄乃のことを直視できずに雄一は視線を逸らす。とんだ羞恥プレイもいいところだった。それ以上何も言えず黙っていると、気付けば澄乃が小刻みに肩を震わせているのが目に入る。


「笑うことないだろ」


「ご、ごめん……っ。で、でも、一体何を言い出すのかって、思ってたら、ふっ、ふふふ……!」


 くすくすと鈴を転がすような音色で笑う澄乃。分かっていたがやはり恥ずかしく、雄一は鼻を鳴らして腕を組んだ。


 けれど実際、雄一にとっては澄乃の膝枕が一番なのだから仕方ない。花火大会の時に一度してもらっただけだが、あの時の光景や感触は今でも鮮明に焼き付いている。忘れたくても忘れられないし、もちろん忘れたくもない。


「それで……どうする?」


 ひとしきり笑った後、澄乃が体勢を変えた。ソファに深く腰を下ろして身体を伸ばし、両足も綺麗に揃える。


 整った顔立ちを彩るのは、どこか挑発的な小悪魔スマイル。わざとらしく首を傾げている辺りこちらを煽っているのは明白で、それに素直に従うのは負けた気がする。……が、一度味わった魅惑の感触を思い出してしまい、しかも目の前に垂涎の機会をぶら下げられたが最後、もはや雄一に抗う術など残っていなかった。


「お願いします」


「はい、どうぞいらっしゃい」


 雄一の言葉に満足そうに頷いた澄乃が、ぽんぽんと自分の腿を叩く。甘い蜜に誘われるように頭を預けてみれば、やはりそこには、この世に存在するどの枕にも負けないと言えるほどの極上の寝心地が待っていた。


 澄乃の服が足を曝け出すショートパンツなので、雄一の後頭部と澄乃の腿を隔てるのは厚手のストッキング一枚のみ。到底それだけでは遮ることのできない温もりと柔らかさが伝わってきて、雄一の心臓がドクドクと鼓動を速めていく。


 感触もさることながら、仰向けの視界に広がる光景も絶景の一言だ。ニットセーターの布地を押し上げる二つの山と、雄一を見下ろす恋人のたおやかな微笑み。二つの魅力を余すことなく味わうことができて、これまた素晴らしくてたまらない。


「ご感想は?」


「控えめに言って……最高」


「ふふっ、なら頭ナデナデも追加してみようかなー」


 澄乃の細い指先が雄一の髪をくすぐり、そのままゆっくりと優しい手付きで頭を撫でられる。高鳴る鼓動はそのままに、澄乃から撫でられるたびに緩やかな幸福感が雄一の内に広がっていく。


「――くぁ」


 暖房+澄乃からもたらされる温もりが睡魔を引き連れてきたらしく、雄一の口から大きな欠伸が漏れた。


「眠いんだったら、このままお昼寝でもする?」


「いや、せっかくのデートでそれは……」


 魅力的な申し出ではあるが、せっかくの休みに澄乃をほったらかして、一人夢の世界を満喫するのはいかがなものか。しかし澄乃は緩く首を振って、雄一の言葉の先を制する。


「気にしない気にしない。いつもは私が甘え気味だし、今日は雄くんが私に甘える日ということで」


「……本当にいいのか?」


「もちろん。その代わり、私は私で雄くんの寝顔を堪能させてもらいまーす」


 満面の笑顔でそう言われてしまったら、逆らう気など微塵も起きない。「じゃあ、お言葉に甘えて」の言葉を最後に、雄一は睡魔と心地良さに身を委ねて瞳を閉じた。


「――おやすみなさい」


 そんな言葉の後に雄一の額を、ちゅっ、と柔らかな熱が撫でた。















 心地良い微睡まどろみから目を覚ますと、雄一の眼前にはベージュの布地が広がっていた。眠る前の経緯を思い出した脳により、それが澄乃のセーターであることを認識。どうやら寝返りを打った拍子に、澄乃のお腹に顔を埋める形になったらしい。


 引き締まってる割に柔らかい感触から顔を離すと、耳元に優しい声音が降りかかる。


「おはよう、雄くん」


 声の方に向いてみれば、慈愛の眼差しを向ける澄乃と目が合った。


「……どれくらい寝てた?」


「えっと……一時間ちょっとかな。もう少し寝てても良かったのに」


「さすがに澄乃の膝も痺れるだろ」


 長時間の膝枕は相手の負担だ。名残惜しさを振り払って身体を起こし、雄一は軽く首を回す。たった一時間程度の睡眠だというのに、驚くほど身体の調子が良い気がする。


「寝心地はどうでしたか?」


「文句無しで最高。毎日こうしたいぐらいだ」


「……それはひょっとして、同棲のお誘い?」


「いや、さすがにそれはまだ……。ここは一つ、予約ってことで手を打ってもらえると」


「んー……キャンセル不可が条件かなあ」


「乗った」


 ピンと伸びた澄乃の人差し指に雄一が小指を絡めれば、澄乃の笑みはより一層深くなる。そのまま少し形の違った指切りをしたところで、不意に澄乃が身を乗り出した。


「よしっ、今度は私が雄くんに甘える番ね」


「あれ、今日は俺が甘える日じゃなかったのか?」


「……ダメ?」


「いえいえ、どうぞお好きなように」


 そんな風にしょぼくれた顔を見せられては、是が非でも甘えさせてやりたいと思うもの。こちらは十分満たされたわけだし、ここから先は攻守交替だ。


「うーん……それなら、私も雄くんを枕にしようかな」


「え、俺を? 構わないけど、男の膝なんて固いだけだと思うけどな」


 生憎と日々の筋トレにより雄一の腿にはそこそこ筋肉が付いているので、澄乃の膝枕のような寝心地は期待できないはずだ。とはいえ本人が望むなら異論は無いので、雄一は背筋を正して澄乃を迎え入れる体勢を整えた。


「じゃあ、失礼しまーす」


 …………。


 ……。


 …。


「……あの、澄乃さん?」


「なんでしょう?」


「これ違くないか?」


 雄一がたまらずそう口にしたのには理由がある。


 てっきり先ほどの澄乃を真似て膝枕をすればいいとばかり思っていたのだが、雄一の予想に反して体勢がおかしい。


 澄乃の頭が辿り着いた先は雄一の膝でなく首元辺りで、腰に回した両腕で力いっぱい雄一に身を寄せてきている。どこをどう考えても膝枕でなく、完全に抱き着かれている形だった。押し当てられた二つの柔らかな感触も考慮すれば、雄一としてはこちらの体勢の方が正直喜ばしいのだが、澄乃の行動には疑問符が浮かんでしまう。


「俺を枕にするって話はどこへ」


「ちゃんと枕にしてるよ? 抱き枕」


「……あー、そういう……」


 ――なるほど、枕だ。疑う余地も無いほど、確かに枕である。


「一本取られたな」


「えへへ、まだまだ離さないよーだ」


 ぎゅう、とさらに力を入れて密着してくる澄乃。すりすりと頬擦りしてくる動きに応えて頭を抱き寄せれば、澄乃はふにゃりと、幸せに満ち溢れた笑顔を浮かべるのだった。

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