+16話『フェチ、再び』
暦は十二月に入り、ぼちぼち期末テスト、そしてそれが終われば晴れて冬休みを迎える、そんな時期。折り畳み式の三段脚立に跨った雄一は、保健室前の廊下で天井付近の掲示物の貼り替え作業に勤しんでいた。
「悪いわね。昼休みなのに手伝わせちゃって」
そう言って新たなポスターを渡してくるのは、澄乃が風邪の際にもお世話になった養護教諭だ。
「気にしないで下さい。ちょうど通りかかったわけですし、こういう高いところのものは男の方が適任でしょうから」
「うーん、背が高いとたのもしいわねー」
雄一を見上げ養護教諭が笑みを深める。脚立を使えば彼女の身長でも届かないわけではないだろうけど、どうせなら身長の高い雄一が変わった方が作業もスムーズに進む。邪魔になるブレザーを脱いで肩の可動範囲を確保した雄一は、すいすいと貼り替え作業を進めていく。
「そういえば、そろそろテストが近付いてきてるけど、英河くんは大丈夫そう?」
「まあ、一応。ありがたいことに、優秀な先生と一緒に勉強できてるんで」
「先生? ――ああ、白取さん。本当に二人とも真面目ねえ」
しみじみと頷く養護教諭。
「そんな真面目な英河くんなのだし、この間、白取さんが風邪を引いた時には紳士的な看病をしてあげたんでしょうね」
「そりゃ――」
もちろん、と続けようとした瞬間、雄一の脳裏に看病の際の光景が蘇る。
自分の目の前に惜しげもなく晒された、澄乃の白く綺麗な背中。腰辺りに見えてしまった淡い水色の布地と、脇から覗いた柔らかそうな膨らみ。
あの時抱いた劣情は、到底看病の時に抱いていい感情ではなかっただろう。
「――もちろん、ちゃんと真っ当な看病に抑えましたよ」
「抑えました、ね」
「はっ!?」
誤魔化したつもりが墓穴。『抑えた』という発言の時点で、雄一がそういった感情を抱いたことを白状したようなものだった。
「英河くんもやっぱり男の子なのねえ」
「あっ、いやっ、でも本当に変なことは――」
雄一が慌てて取り繕うと振り返った、その時。
――ビリリッ。
「え?」
何かが千切れる音が、雄一の耳に響いた。
「それで、こうなっちゃったと?」
放課後の図書室。期末テストに向けて澄乃と勉強している最中、雄一は昼休みの出来事を彼女に話していた。
澄乃の手に握られているのは雄一の制服のワイシャツであり、二の腕の部分には無残にも引き千切られた跡がある。
どうやら天井からぶら下がっていた金具に引っかかってしまったらしく、不運にも振り返った拍子に破れてしまったのだ。まあ、破れたのがブレザーでなかっただけ良しとしよう。
ちなみにすでに新しいワイシャツを購買で購入し、今はそれを着ている。
「このワイシャツどうするの?」
「その有様だしなあ。ちょうどそろそろ替え時かなって思ってたし、帰ったら捨てるよ」
「……そっか」
雄一が切れたシャーペンの芯を補充している中、広げたワイシャツをじっと見つめる澄乃。補充を終えた雄一がワイシャツを返してもらうために手を差し出すと、澄乃はおずおずと上目遣いに雄一を見た。
「ねえ雄くん。もし捨てるんだったら……私が貰ってもいい?」
「え? なんで?」
澄乃からの突然の申し出に、雄一は首を傾げる。サイズの合わない、そもそももう着ることのできない衣服など、使い道の無さそうなものだが。
「や、ほら、あの……そ、そろそろ年末でしょ? 大掃除の時に、こういういらない布があると便利なんだよね。うん、ただそれだけ。ただそのためだけに欲しいなーって思っただけのお話」
「あー、なるほど。そういうことならいいぞ?」
「そ、そう? じゃ、じゃあ、貰いまーす……」
なぜか尻すぼみな言葉の後に、自分の鞄の中に丁寧に畳んだワイシャツをいそいそとしまう澄乃。それを納得した様子で眺めた雄一は、特に何かを気にすることもなく勉強に戻る。
「…………」
澄乃の唇はしばらくプルプルと震えていた。
夜。入浴や髪の手入れを終えた澄乃は、一人寝室で正座していた。
彼女の前に置かれているのは、本日受け取った雄一のワイシャツ。二の腕の部分の破れは澄乃の手によって綺麗に修繕されている。
とりあえず着る分には問題なさそうなワイシャツをじーっと眺めていた澄乃だが、急にがばっと、両手で顔を覆った。
(やっちゃったぁぁぁぁああああ!)
声にならない叫びを上げる。
やってしまった。言ってしまった。欲望が急に頭をもたげて、勢いに任せて、口からでまかせでとんでもないことをしでかしてしまった。
そう、ワイシャツを受け取る際に雄一に伝えた理由は真っ赤な嘘である。いや、大掃除でいらない布があると便利なのは本当だが、このワイシャツの使い道はもっと別だ。
「うぅー……!」
指の隙間からワイシャツを見る。
自分が今から行うとしていることは、とてもじゃないが誰にも言えない。もちろん雄一にも。というか雄一に一番バレたくない。バレたら恥ずかしくて、たぶん死ぬ。心が。
そこまで羞恥を感じるならやめればいい、今ならまだ間に合うと、澄乃の中の冷静な部分がそっと語り掛けてくる。だがそれは、ほんのちょっぴり残った程度の薄っぺらな壁。当然、溢れ出してくる欲望をせき止めることができるわけもなく、澄乃はおもむろに自分の衣服に手をかけた。
着ていた部屋着は脱いで、下着姿に。そして雄一のワイシャツを手に取ると――意を決して袖を通す。そのまま矢継ぎ早に前のボタンを留めていき、終わったところですぐさまベッドに飛び込んで掛け布団を羽織った。
「はぁふぅぁぁぁぁ……」
自分の口から漏れる言葉はもはや言語を成していない。それほどまでにだらしなく口許を緩めた澄乃は、ぶかぶかの袖を鼻先に押し付ける。大きく息を吸い込んでみれば、前に雄一のパーカーで似たようなことをした時以上に濃い残り香が、澄乃の意識を強く揺さぶった。
(これ……雄くんに抱き締められてるみたい……)
好きな人に抱かれながら眠りにつける――疑似的とはいえ、なんと幸せなことだろうか。しかも前回のパーカーと違い、このワイシャツは雄一から譲り受けたもの。つまり返す必要が無い。これから毎日、こうして寝ることができるのだ。
(いや、さすがに毎日はダメかなあ……)
連日着るとなると、次第に自分の匂いが雄一のそれを上書きしてしまうかもしれない。ここは大事に、綿密な計画の下に消費していかなければ。
(って、何考えてるんだろ私……)
もう完全にフェチシズムにどっぷり浸かっている。まさか自分がこんな欲を抱いてしまうなんて、夢にも思わなかった。
それにしても。
(もし、雄くんとこうすることができたら……)
本物の雄一と、抱き締め合いながら眠ることができれば……それはきっと、澄乃にとって最高の幸せになるだろう。
布団にくるまったまま、ベッドのサイドテーブルに置かれたスマホを手に取る。起動させたスケジュール帳に表示されている今月の二十四日――クリスマスには、すでに一つの予定が書きこまれている。
高校の終業式がその日で、授業は半日で終了。そのまま冬休みに入るので、夜には雄一と一緒にイルミネーションを見に行く約束をしているのだ。
どうせなら、そのまま。
「お泊まり、できないかな……」
ポツリと呟いたその言葉は、どうしようもないぐらいの熱を帯びていた。
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