+12話『我慢とちょっとの欲(後編)』

 長い髪は手でまとめて肩口から前へ。パジャマはもちろん、下着すら取り払われた澄乃の背中が惜しげもなく雄一の眼前に晒されている。


(うっわ、白……)


 まず初めに抱いた感想はそれだった。


 澄乃の背中はさながら誰にも踏み荒らされていない新雪のよう。火照った身体のせいで少し赤みは差しているが、それでもシミ一つない白い素肌は文句無しに綺麗だった。


 うなじから一粒の汗が背中を滑り落ち、そのままきゅっとくびれた澄乃の腰へ。その流れる様を目で追いかけた雄一は、思わず叫びたくなるような光景を目の当たりにする。


 澄乃の腰辺り、パジャマの下と素肌の境目――淡い水色の布地がわずかに顔を出していた。澄乃らしい清楚な色合いが雄一の理性に強烈なパンチを叩き込み、つい先ほどしたばかりの決意を粉々に砕いていく。


 目に毒――ではなく眼福なのだが、残念ながらそれを手放しで喜べる状況でない。


 雄一に動きがないことを不思議に思ったのか、澄乃がおずおずと首だけ振り返る。


「えっと、雄くん……?」


「あ、ああ、悪い……! ……始めるぞ」


「うん、お願い……」


 いつまでも悶えてるわけにはいかない。もはや精神的には何ら効果の無い深呼吸を繰り返し、雄一はタオルをお湯に浸けて絞る。そして澄乃の首筋あたりに狙いを定め、ゆっくり近付けていく。


「――んっ」


 触れた瞬間、澄乃の口から短い吐息が漏れた。ただの息遣いが無性に艶めかしく聞こえたのは、きっと自分の意識の問題。だから雄一はひたすら無心に努め、なめらかな背中に浮かぶ汗を拭っていく。


 首、肩甲骨、それから背中の中央と上から順繰りにタオルを滑らせる中、不意に澄乃が「ふふっ」と笑った。


「どうした?」


「雄くんってば、なんだかおっかなびっくりだなあって思って」


「……仕方ないだろ。こんなこと初めてなんだから」


 動揺しっぱなしの自分の精神状態を言い当てられたようで、雄一は思わず唇を尖らせた。


 看病自体は実家にいた頃に妹相手にしたことはあるが、さすがにこんな状況にまで至ったことはない。適切な力加減など分かるはずもないので、とにかく丁寧に優しくだけを心掛けて続けるしかないのだ。


「私はちっちゃい頃、お母さんにしてもらったことがあるかなあ」


「どーせかすみさんに比べたら下手ですよーだ」


「もうっ、そんなことないってば。優しくしてくれるから、すごく気持ち良いよ?」


「……なら良かった」


 澄乃が心地良く思ってくれるのが嬉しい反面、このタイミングで「気持ち良い」という言葉は別の行為を連想するので控えて欲しい。


「ね、せっかくだし、腕の方もお願いしていい?」


 腰の辺りまで拭き終わったところで、澄乃が片腕を軽く上げて振り返る。その拍子に綺麗な脇のライン、それから前面にある豊満な膨らみが少し顔を見せ、雄一の全身の血流は際限なく速くなっていく。もう片方の腕で隠しているので決定的な部分が見えることはないが、その分柔らかそうに形を変える様は相当蠱惑的だった。


 澄乃は見えてることに気付いているのか、気付いていないのか。どちらにしろ確認はできない。


(……しまいにゃ襲うぞ、ったく)


 そんな悪態を心の中で呟く雄一。といっても本当に襲う度胸なんてまだ無いし、風邪を引いている相手に手を出すほど節操がないわけでもない。


 ほどなくして澄乃の両腕も拭き終え、そこから澄乃自身で前の方も済ませたところで終了。正直ちょっと前の方にも手を出してみたかったという一抹の後悔を全力で叩き潰し、雄一は使い終わった桶とタオルを持って寝室を後にした。


 後片付けを終え、再び澄乃の下へ。


 新しいパジャマ(と恐らく下着も)に着替えた澄乃は身体を伸ばしていた。


「はぁ……さっぱりした」


「顔色も良くなってるな。あとは食欲が出れば――」


 雄一の言葉を遮るように、どこからか「ぐぅー」という音が。発生源は言わずもがな、今日は満足な昼食を摂っていない澄乃だろう。みるみるうちに真っ赤に染まる澄乃の顔は自白しているも同然だった。


 時間は夕飯時より少し早いが、腹の虫の訴えは見過ごせないだろう。


「リクエストがあれば聞くぞ」


「……おうどん。冷凍の、あるから」


「りょーかい」


 蚊の鳴くような声で囁く澄乃に我慢できずに吹き出すと、ぺちんと二の腕を叩かれてしまった。











 少し早めの夕食を終え、二人で適当に談笑。ふとサイドテーブルの上に置かれた目覚まし時計を見た澄乃は「あ」と声を上げた。


「もうこんな時間……。雄くん、そろそろ帰る?」


「明日も学校あるし……そうするかな」


 澄乃の容態も安定してきたので、もう問題はないだろう。明日が登校日でなければもっと遅くても、いっそ泊まっても構わないぐらいだが、こればかりは致し方ない。


「看病してくれてありがとう。こんな時間までごめんね?」


「お安い御用だ。明日も体調悪かったら無理せず休めよ? 言ってくれればまた来るから」


「そこまで心配しなくても、たぶん大丈――」


「澄乃」


「……はい、その時は素直に甘えさせてもらいます」


「結構」


 よくできましたと言わんばかりに頭をぽんぽんと叩けば、ふくれっ面の澄乃の完成である。悪いが心配するなという方が無理な話だ。


「じゃあ帰るよ」


「うん。あっ、なら玄関までお見送りさせて」


「寝といた方がいいんじゃないのか?」


「それは大丈夫。雄くんにたくさん優しくしてもらったから、むしろ元気が有り余ってるぐらいかも」


 ふんすっ、と二つの握り拳を作る澄乃。言葉通り確かに体調は良くなっているようだ。寝てばかりいるのも身体に悪いだろうから、澄乃の申し出を受け入れて二人で玄関へ向かう。


「今日は本当にありがとう。だいぶ暗くなってるし、気を付けて帰ってね」


 雄一が靴を履く傍ら、澄乃は律儀にもお礼を重ねた。


「ん。澄乃こそ気を付けて。水分補給はしっかりな」


 そう言ってドアノブに手をかけようとした矢先、澄乃がわずかに目を伏せたのを雄一の目は捉える。その瞳の奥に垣間見える感情を察した雄一は、澄乃に近付いてその身体を優しく抱き締めた。


 別れ際が寂しいのは雄一も一緒だ。


「お大事に」


 耳元でそっとその言葉を呟けば、身体の力を抜いた澄乃が「うん」と嬉しそうに身を預けてくる。二、三度背中を撫でて、少しだけ離れた澄乃の顔を覗き込んだ。


 玄関の段差の関係上、澄乃の綺麗な顔がいつもよりも近い位置にある。ともすればそれはキスがしやすいということになり、ねだるような藍色の瞳に魅せられた雄一はたまらず桜色の唇に噛み付いた。


 瑞々しく柔らかい感触を丹念に味わい、たっぷり十秒ほど経ってから顔を離せば、澄乃はほんのりと呆れたような笑みを浮かべている。


「もう、風邪を伝染うつしちゃったら悪いから私は我慢してたのに……」


「だったらあんなキスして欲しいなーみたいな目、しないでくれよ」


「……そこまでは我慢できないもん」


 拗ねたように目を逸らす澄乃。無意識なものはどうにもならないらしい。


 というか我慢云々の話になると、どう考えても今日の雄一の方が澄乃以上の我慢を強いられていたわけなのだが、そんな文句はそっと胸の内にしまっておく。


「もし雄くんが風邪引いちゃったら、また私が看病しに行くね?」


「それで今度は澄乃に風邪が伝染うつって、俺がまた看病すると?」


「雄くんに甘えられるのは嬉しいけど……その無限ループはちょっと嫌だなぁ」


「はは、同感。まぁ、ご希望とあればいくらでも甘えてもらっていいですけど?」


「えへへ、ありがとう。じゃあ、もうちょっとだけ雄くんチャージさせて?」


「よしきた」


 雄一の首に顔をうずめる澄乃をぎゅっと抱き締める。澄乃からのお願いを叶えるのはもちろん、雄一もまた、恋人の温もりや柔らかさをしかと味わうのだった。

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