+11話『我慢とちょっとの欲(前編)』

「ん……んぅー……?」


 甘さを含んだ可愛らしい声が聞こえた。手持ち無沙汰で何となくいじっていたパンダのぬいぐるみから意識を外すと、雄一の背後では澄乃がもぞもぞと身体を揺らしている。


 近付いて顔を寄せてみれば、ゆっくりと開かれた瞼から透き通った藍色の瞳が現れ、どこかとろんとした眼差しで雄一を見る。


「おはよう、澄乃」


 少し魔が差した雄一はまだ半覚醒状態の澄乃の頬を優しく撫でてみた。すると澄乃はふにゃりと表情を緩め、子猫が親猫に甘えるようにすりすりと頬擦りを繰り返してくる。寝起きがゆるゆるなのは相変わらずのようだ。


 とはいえ、それも長くは続かない。


 二十秒ほどの時間が経つと澄乃からの頬擦りが止まる。代わりに七割ぐらいの開きだった瞼が完全に開かれ、次いで藍色の瞳にしっかり意思のこもった光が灯った。


「ひぅ……!」


 小さな悲鳴を上げた澄乃が勢い良く布団で顔を隠す。それから鼻先まで恐る恐る布団を下げると、潤んだ瞳で雄一のことを睨んできた。なんだか眠る前にも見た光景だ。


「おはようございます……」


「おはよう。ちゃんと眠れたか?」


「それは大丈夫だけど……。うぅー……また雄くんに寝起き見られたぁ……!」


 羞恥で震える澄乃に雄一はたまらず吹き出してしまう。別に恥ずかしがることなんてない。むしろ自信を持っていいぐらい魅力的な姿だったのが、本人としては隙を晒してしまったのが恥ずかしいらしい。


「そりゃあ、そばにいてくれって言われたからなあ。むしろ務めを全うしたことを褒めて欲しいところだけど?」


「……ありがとうございます」


「目、逸らし過ぎだろ」


 澄乃の顔半分は布団で隠れたままな上、視線は明後日の方向を向いている。真っ赤なのは風邪の影響だけではないだろうが、これ以上言及すると物理的な反撃を喰らいそうなので控えておこう。


 丁寧に頭を撫でて澄乃のご機嫌を取った後、スポーツドリンクと一緒に体温計も渡す。


「熱はどうだ?」


「……微妙、かな」


 澄乃が着衣を直すのを待ってから向き直ると、体温計には『37.4℃』の計測結果が表示されていた。


 薬を服用した割にはあまり下がっていない。まあ食べたのもりんごだけでそこまで栄養が摂れたわけでもないので、もう少し時間が経ってからある程度しっかりとした食事をすれば好調に向かうだろう。


 とりあえず。


「割と汗はかいてるみたいだし、一度着替えた方がいいかもな。シャワーぐらいなら浴びれそうか?」


 上半身を起こした澄乃の首筋を汗が伝う。パジャマも少なからず汗を吸ってしまったようで、張り付いた布地が起伏に富んだ澄乃のボディラインを強調して少し目のやり場に困った。


「んー……まだだるいから、シャワーもちょっと……」


「分かった、じゃあお湯とタオル用意してくる」


 汗を拭かないと身体が冷えてしまう。素肌を晒す都合上、さすがに実際に拭くのは澄乃自身にやってもらうしかないが、準備と後片付けぐらいなら雄一でもできる。


「雄くん」


 洗面所に向かおうとした雄一を澄乃が引き留めた。


「どうした?」


「えっと……今日は、甘えていいんだよ、ね……?」


 念押しのような言葉。まだ雄一に頼ることに躊躇があるのだろうか。


「言っただろ? 好きなだけ甘えてこい」


 雄一は胸を叩いてそう宣言した。そしてその力強い言葉を受け、澄乃はおずおずと手を挙げた。


「じゃあ、お願いがあります……」












 蛇口からお湯が流れ出す。それがプラスチック製の桶に溜まっていくのを待ちながら、雄一はふと目の前の鏡に映る自分の顔に意識を向けた。


 ――これから決死の戦いに向かう軍人のような顔付きだ。


 理由は言わずもがな、先ほど澄乃から言われた一つの“お願い”にある。


『背中、自分だと届かないから……雄くんが拭いて』


 正直、聞いた時は耳を疑った。なにせその申し出は、澄乃が自分に無防備な素肌を曝け出すことに他ならないからだ。


 無論、澄乃の言うことはもっともだし、恋人という間柄を考えればそうおかしい話でもない。けれど雄一も思春期の男子。シチュエーション的にどうしても昂ぶってしまうものがある。


(……ここは踏ん張りどころだな)


 お湯が溜まったところで桶を脇にどかし、今度は冷水を出す。顔面に二、三回冷水を浴びせた後、雄一は桶とタオルを持って澄乃の待つ寝室へ向かった。


 このお願いはいわば澄乃からの信頼の表れだ。


 雄一なら決して情欲に屈しず、不埒な行動に走ることはない。そう信じてくれるからこそ、こうして雄一を頼ってくれているのだ。


 ならば、それに応えないで何がヒーローか。


 決意を胸に寝室の戸を開くと、すでに着替えを用意した澄乃がベッドの上で待機していた。


「用意、できたぞ……」


「うん……じゃ、じゃあ、お願いします」


 まずサイドテーブルに桶とタオルを置き、雄一は後ろを向く。一拍置いて背後から衣擦れの音が聞こえてきて、雄一の心拍数は極限にまで高まっていった。生殺しもいいところだ。


 やがて雄一には聞き慣れないパチンと“何か”を外すような音が聞こえ、少しの間無音の空間が訪れる。


「……こっち、向いていいよ?」


 澄乃からの合図。


 たっぷり深呼吸してから振り返ると――そこには雄一の想像以上の光景が広がっていた。

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