+10話『至れり尽くせり』

 澄乃の状態に注意しつつ彼女の自宅へ。普段と違いバスを利用しての帰宅(無論、できるだけ周囲と距離を取った)だったが、靴を脱ぐや否や、澄乃は糸が切れたように座り込んでしまった。


「大丈夫か?」


「大丈夫、ちょっと疲れただけだから……」


 やや荒い息と共に澄乃の華奢な肩が上下する。なるべく歩く距離は抑えたが、それでも風邪を引いた身体には荷が重かったようだ。付き添って正解だったと改めて思う。


 さて、早くベッドで休ませなければならないが、こんな状態の澄乃を急かすのも心苦しい。そう判断した雄一は「失礼」と断りを入れてから、澄乃の背中と両足の膝裏に手を差し込んだ。


「えっ、ゆ、雄くん……!?」


「はいはい、病人は大人しくな」


 慌てる澄乃を制して、彼女の細い身体をぐいっと担ぎ上げる。


 いわゆるお姫様抱っこ。雄一の両腕に抱かれた澄乃は目を丸くし、ただでさえ紅潮していた頬が余計に赤くなる。


「い、いきなりっ、こんな……!」


「澄乃へばってるんだし、こっちの方が楽だろ? このままベッドまで運ぶから」


「それは嬉しいけど……! あの……私、重くない……?」


「大したことない。それに鍛えてるんだから心配すんな」


「うぅ……」


 優しく声をかけたものの、澄乃の形の良い眉は下がり気味だ。まあ実際、澄乃がどれだけ軽かろうと人一人分の重さなのだ。そう簡単にひょいひょい運べるものでもないので、澄乃の煮え切らなさも理解できなくはない。


 上手く言いくるめる言葉はないかと悩んでいると、一つの案を雄一は思い付く。割と恥ずかしい台詞だが……この際言ってしまえ。


 澄乃としっかり目を合わせてから、雄一は口を開いた。


「俺にとって澄乃の存在が軽いわけないだろ?」


 束の間の静寂。


 最初はぽけーっと口を半開きにしていた澄乃だが、やがて雄一の言葉の意味を理解し、顔全体をこれでもかと真っ赤にして雄一の胸に顔をうずめた。せめてもの仕返しでぐりぐりと額を押し付けてくるのがくすぐったい。


 そんな可愛らしい恋人の姿を楽しみながら、雄一は寝室へ向けて歩を進める。このまましばらく眺めていたいが、早くベッドに寝かせようと思ってのお姫様抱っこなのだ。そもそもの目的を忘れてはいけない。


 引き続き胸への圧迫感を感じながら、寝室の戸を開いて足を踏み入れる。


「澄乃」


 ベッドの前に立って呼びかけると、ようやく澄乃は顔を離してくれた。けどそっぽを向いて目は合わせてくれない。それはそれで真っ赤に染まった耳が見えてしまうのだが、あえて言及はしない。


 ゆっくりと澄乃の身体をベッドに沈める。


「着替えは?」


「……タンスの二段目から、適当に」


「ほいほい」


 言われた通りの場所から一組のパジャマを取り出して、ベッドのサイドテーブルに置く。


「食欲は? 何か食べたいものあるか?」


「……あんまり。冷蔵庫にりんごがあるから、それぐらいなら」


「了解」


 こくりと頷く澄乃はまだまだこちらに顔を向けてくれそうにない。さすがに不意打ちが過ぎたかとも思ったが、雄一だって澄乃からの不意打ちや無意識の誘惑に悶えることが多いのだ。たまにはやり返してもバチは当たらないだろう。


「用意してくるから、その間に着替えとけよ」


 一度澄乃の頭を撫でてから、雄一は寝室を後にした。












 さすが澄乃と言うべきか、レトルトのお粥やスポーツドリンク、ゼリー飲料、冷却シート等々、病人御用達セットの日頃からの準備に抜かりは無かった。同じ一人暮らしの身として、この用意周到さは見習わねばなるまい。


 澄乃の希望通りのりんごを一口サイズに切り分けて用意した雄一は、それを器に載せて寝室へ向かう。念のためノックをしてから戸を開けると、すでにパジャマに着替えた澄乃はベッドで大人しく横になっていた。


「お待たせ。小さめに切っといたけど、これなら食べられそうか?」


「ありがとう、それぐらいなら大丈夫だと思う」


 額に冷却シートを貼り付けた澄乃が半身を起こそうとする。言葉とは裏腹に、やはり身体はまだまだだるそうだ。起きようとする澄乃の動きをサポートしてから、雄一はりんごの入った器とフォークを手に取る。


 澄乃の負担を考慮すると、こうする方が一番楽だろう。


「澄乃、あーん」


「ふぇっ!?」


 一切れのリンゴを突き刺したフォークを澄乃に向けると、彼女の口から素っ頓狂な声が上がった。


「な、なんでいきなり……」


「食べさせた方が楽だと思ったから。この前だってプリン食べさせ合ったんだし、別にこれぐらい大丈夫だろ?」


「な、なんというか、不意打ちだと心構えが……。それにさっきから頼ってばっかりだし……」


「遠慮しない。さっさと食べて薬飲んで寝た方が治りも早いぞ?」


「うぅー……はい」


 観念したように澄乃が頷く。


 そういえばいつぞやのプールとは立場が真逆だなと思いながら、恥ずかしそうに口を開いた澄乃の口許へリンゴを運ぶ。口内に見える薄ピンクの舌が少し艶めかしい。


 はむ、と微かな音を立てて澄乃がりんごを口に含むと、ゆっくりとフォークを引き抜く。しゃりしゃりと咀嚼する澄乃が呑み込むのを待っていると、彼女の視線が器に盛られたリンゴ、それから雄一の方へ向けられた。なんだかんだ言いつつ、次の一切れをご所望らしい。


 小さく笑った雄一はフォークでりんごを突き刺し、澄乃の口許へ。未だ頬は紅潮しているが、澄乃は大人しくその一切れも口に含む。


 素直に従ってくれることに愛らしさ、羞恥で瞳を潤ませることにどこか扇情的な気持ちを抱きながら、雄一は澄乃の食事を続けていく。


 ほどなくして器に盛った分を食べ終え、風邪薬の服用、それからスポーツドリンクでしっかり水分補給を済ませると、澄乃は再びベッドで横になった。


 ……それはいいのだが、何故かじとーっとした視線を雄一に送り続けてくる。掛け布団で口許を隠しているので、余計に目からの圧力が強調されている。


「何故睨む」


「別に睨んでるわけじゃ……。さっきから雄くんに甘えてばかりで……なんだか恥ずかしいんだもん……」


(やれやれ……)


 看病してもらった恩を返してるだけなのだから、素直に受け取ってくれればいいというのに。むしろ体調が悪い時にこそ甘えないで、いつ甘えるというのだろうか。


 雄一は呆れ笑いを浮かべながら、澄乃の頬を優しくつつく。


「好きなだけ甘えればいんだよ。そのためにここにいるんだしな」


「……いいの? そんなこと言われると、私際限なく甘えちゃうかもしれないよ?」


「どんとこい」


 間髪入れずにそう言い切ると、澄乃は掛け布団を首元まで下げた。現れた口許には安心しきったような柔らかい笑みが浮かんでいる。


「じゃあ、そばにいてくれる?」


「言われなくても」


「……眠るまででいいから、頭も撫でて欲しい」


「仰せのままに」


 澄乃の頭をゆっくり撫でていくと、幸せそうに表情を緩めた澄乃は目を閉じる。五分ほどすれば微かな寝息を聞こえてきたので、それからもうしばらく、雄一は恋人の頭を優しく撫で続けた。

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