+9話『いつかの恩返しを』

 ある日の学校。その異変に気付いたのは、二限目と三限目の間の休み時間だった。


 隣の席に座る澄乃の頬が少し赤い。そのことを指摘すると、澄乃は「暖房のせいかな?」と笑ってブレザーの下に着込んでいたカーディガンを脱いだ。


 確かに澄乃の言う通り、寒くなってきた外の気温に合わせて教室内の暖房が解禁されている。雄一としては適温に保たれていると思うが、体感温度には個人差がある。その時は澄乃の言葉に疑いを持たずに受け流した。


 だが、四限目の数学の終わり際。出席番号で教師から指された澄乃が問題を答えようとした時の出来事だ。


「……√2です」


「よし、正か――……いや、違うな」


 学年主席の成績を誇る澄乃が間違えた。珍しいどころかほぼ初めての光景にクラスメイトは少なからずざわつき、教師ですら澄乃のことを信じて疑わず、誤答を聞き流そうとした瀬戸際で踏み止まったぐらいだ。


 そして、それは雄一も同様。思わず手にしたシャーペンを落としそうになったところで、弾かれたように澄乃へ顔を向ける。


 今の問題は雄一でも手こずりはすれど解けるレベルのもので、実際すぐ後に教師が示した解答と合致していた。澄乃の本来の実力ならそうそう間違えないような問題のはずだ。


 疑惑は確信へ。ほどなくして四限が終わり、雄一は授業の片付けを後回しにして澄乃へ向き直る。


「澄乃、ちょっとおでこ借りるぞ」


「え……?」


 悪いが答えは聞いてない。やはりどこか反応の覚束ない澄乃の額に右手、そして自分の額に左手を当てて診断開始。周囲のクラスメイトもある程度察しがついているのか、雄一の突然の行動を黙って見守っていた。


「…………」


 雄一の平熱は大体36.5℃。それと比較しても……やはり高いように感じる。まず間違いなく暖房のせいだけでないだろうし、澄乃の頬の赤みもさっきより増している。


「保健室行くぞ」


 澄乃の手を取ってゆっくりと立ち上がらせる。できるかぎり優しく、けれど有無は言わせない。クラスメイトから生暖かい視線を送られている気がする、そんなものは気にしない。


 大事な彼女の心配をするのは、彼氏として当然のことなのだから。












「風邪ね」


 いくつかの問診の後、女性の養護教諭は体温計の結果を見てそう診断した。澄乃が着崩した制服を整えるの待ってから雄一も体温計を覗き込むと、液晶には『37.7℃』の表示が。


 高熱というほどではないが、さりとて無視できるほどのものでもない。保健室のベッドに腰掛けた澄乃の息は少し荒かった。


「具合が悪くなり始めたのはいつから?」


「二限目、ぐらいからです。朝は大丈夫だったんですけど……」


 澄乃の言葉に雄一は少しだけ気持ちが軽くなる。もし澄乃の不調が朝から始まっていたとしたら、それに気付いてやれなかった自分に一発お見舞いしたいところだった。


「とりあえず今日はもう帰りなさい。担任の先生には私が説明しておいてあげる」


「……はい」


 だるそうな様子なまま、澄乃は力無く頷いた。


 こんな状態の澄乃を一人で帰すわけにはいかない。


「あの、わがままなのは分かってるんですけど……俺も早退させてもらえませんか? 付き添ってやりたいんです」


「え、雄くん……?」


 驚く澄乃を手で制し、雄一は養護教諭をじっと見つめた。


「そうねえ……。白取さん、確か一人暮らしなのよね?」


「あ、はい……」


「家に帰っても看病してくれる人がいないとキツいか……。いいわ、特別にあなたも許可してあげる」


「すいません、ありがとうございます」


「白取さんはもちろん、英河くんも真面目な生徒ですもの。たまのわがままぐらい聞いてあげるわ。大事な彼女さん、しっかり労わってあげなさい」


「ええ、もちろんそのつもりです」


 当然のように教師陣の間でも澄乃との関係が周知されていることにツッコミを入れたくなるが、とりあえず今はどうでもいい。微笑ましい目で雄一と澄乃を交互に見てくる養護教諭の言葉に、雄一は気恥ずかしさを隠して頷いた。


「なら善は急げね。私は先生に報告しにいくから、英河くんは白取さんの分も含めて帰り支度を」


「了解です。澄乃、鞄取ってくるからここで待ってろ」


「うん、ありがと……」


 なおも俯き加減の澄乃の頭を安心させるように撫でてから、雄一は養護教諭と共に保健室を後にする。


 お互いそれぞれの目的地に向かう道すがら、養護教諭は「そうそう」と世間話を振るような雰囲気で雄一を見た。


「教師として一応釘を刺しておくのだけど」


「はい?」


「白取さんの看病にかこつけて変なことはしないように」


「……しませんよ。少なくとも、弱ってる相手にそんなこと」


 看病するとなると、当然澄乃の自宅にお邪魔することになる。二人っきりで、しかも女性側が心身共に弱っていることを考慮すれば邪推する気持ちも理解できるが、はっきり言っていらぬ心配だ。そもそも澄乃に無理強いする気も無いし、自分がそんなことをしでかす男だと思われたくもない。


 そういった気持ちが表に出て少し憮然と返してしまった雄一に対し、養護教諭はからかうように首を傾げる。


「あら、なら弱ってない時にはするのかしら?」


「それは……」


 真っ直ぐから尋ねられ、雄一は思わず言い淀む。


 軽はずみな気持ちで澄乃と一線を超える気はもちろん無いが、キスぐらいならもう何度もしている。教師の考え方次第では、それですら眉をひそめられるかもしれない。


「……ひょっとして不純異性交遊は認めないとか、そういうお話ですか?」


「まさか。私はそんなことでいちいち目くじら立てたりしないわよ。教師としてこういった物言いは良くないと思うけど、生徒の恋路にとやかく口を出すなんて今どき時代錯誤もいいとこだわ」


 養護教諭はあっけらかんと言い放つ。浮かぶ笑みは教師としてというより、人生の先輩としてといった色が含まれているように思えた。


「もちろん無責任な行為はご法度よ? でもお互い話し合って、気持ちを確かめ合って、その上で関係を進めることは何も間違ってないわ。男女関係の行き着く先なんて結局そこなのだし、恋人相手にそういう欲を抱くのは当然。むしろ正常なぐらいよ」


 そう言った養護教諭は雄一の胸の中心辺りを指差す。


「本当に大事なのは、時が来るまでその気持ちを理性で制御すること。その点、英河くんは誠実そうだから安心ね」


「そりゃまあ、好きな相手を大事にするのは当然でしょうし……」


「おー、なかなかカッコいいこと言うじゃない。感心感心!」


 ばしばしと背中を叩かれて地味に痛いが、とりあえずお眼鏡にかなったようで何よりだ。


「それじゃ白取さんのことはお願いね。宣言通りしっかり大事にしてあげなさい」


 気付けば職員室の前まで辿り着いていた。手を振って室内へ消えていく養護教諭に「了解です」と頭を下げ、雄一は自分の教室へ。


 戻るや否や、雅人や紗菜を始めとするクラスメイトから澄乃の容態を尋ねられたが、風邪であることを伝えると一様に胸を撫で下ろしていた。ついでに雄一も付き添いで早退することを伝えると保健室に向かった時以上に生暖かい視線を送られたが、やはり無視して自分と澄乃の荷物を回収、保健室へとんぼ返り。


 念のためノックしてから室内に入ると、澄乃は先ほどと変わらぬ様子でベッドに座っていた。


「鞄持ってきた。許可も貰ったし、早く帰って休もう」


「……うん」


 雄一が手を差し出すと、澄乃はおずおずとその手を取る。触れ合った手の平からは隠し切れない熱が伝わってくる。


「雄くん、ごめんね……」


「いいって、これぐらい気にすんな」


「でも、今日は、その……」


 途切れ途切れの澄乃の言葉。彼女が伝えようとしていることを察した雄一は、小さなため息をついた。


 ――実は今日の放課後、澄乃と映画を見に行く約束をしていたのだ。澄乃から誘われた形で、かなりの人気作なので前もって映画館のサイトで予約も済ませてしまっている。キャンセル不可だがこんな状態で行くわけにもいかないので、結果的に映画一本分の代金を無駄にすることになる。


 自分で誘っておきながら。そういった後ろめたさが澄乃の中で燻ぶっているのだろう。


 まったく、こっちはそんなこと気にしてないというのに。


「澄乃」


 最大限優しい声音で澄乃の頭を撫でる。


「映画はまだ始まったばっかりなんだし、また今度行けばいいさ。いくらでも付き合うよ」


「雄くん……」


「第一、俺になら看病されたいって言ったのは澄乃だろ?」


 雄一のその言葉に最初は首を傾げた澄乃だが、すぐに何か思い出したのか小さな声を漏らした。


 今年の夏、まだ二人が友人だった頃、澄乃が風邪を引いた雄一の看病を買って出てくれた時に口にしたことだ。


『ならさ……もし私が風邪引いちゃった時は、英河くんが看病しに来てよ』


 図らずもその機会が巡ってきたのだ。だったら全力で恩返しさせてもらおう。


「そっか……覚えててくれたんだ」


「忘れられるか。俺ならいいよーとか言い出すから、マジでびっくりしたんだぞ」


「あはは……まあ、あの時にはもう雄くんのこと好きだったし。ちょっとしたアピールのつもりだったかな」


「へいへい効果抜群でしたよ」


 大仰な仕草で雄一が肩をすくめると、澄乃は柔らかな表情でくすっと笑みをこぼした。身体は不調なままだが、少なくとも暗い気持ちは鳴りを潜めただろう。


「ほら、帰るぞ」


「うん」


 二人分の鞄を担いだ雄一は澄乃の手を優しく引いて、そのまま揃って保健室を後にする。


 澄乃の頬は、今日一番赤かった。

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