+7話『可愛い恋人さん』

「すぐ鍵開けるね」


 スーパーで食材を買い込み(今回はちゃんと折半)、澄乃の自宅であるマンションへ。部屋の前まで辿り着いたところで食材の詰まったビニール袋は全て雄一が預かり、手がフリーになった澄乃は鞄から鍵を取り出して鍵穴に差し込んだ。


 ドアを大きく開けた澄乃が先に中へ入り、その後に続いて雄一も玄関へと足を踏み入れる。一度ビニール袋を下ろして靴を脱いでいると、先に室内へ上がった澄乃が不意に振り返った。


「おかえりなさい」


 いつもよりも少し大人びた、淑やかな笑み。


 思わず雄一の足元が止まると、澄乃の笑顔に悪戯っぽい色が混じった。


「なんてね。ちょっと言ってみたくなっちゃって」


「あ、そういう……。じゃあ、ただいま?」


「うん、おかえりなさい」


 澄乃のノリに付き合うと、彼女はもう一度、より笑みを深めて出迎えの言葉を口にした。本来なら『いらっしゃい』や『お邪魔します』が適切な状況なのだが、そんなことは指摘するだけ無粋というものだろう。


「いつかこういう感じになれたらいいね」


 床に置かれたビニール袋を拾い上げながら、澄乃はそんなことを呟いた。いじらしい将来への希望に雄一の胸は瞬く間に撃ち抜かれ、込み上げてきた情欲に導かれるまま澄乃を抱きしめ――ようとしたところで何とか抑える。


 なにせ今は二人だけの完全プライベート空間の真っ只中なのだ。どこまで自制できるかは分からないが、できる限り紳士的な振舞いを心掛けたい。


 最近不意打ちが増えてきたなぁ、と嬉しい悲鳴を心の中で上げつつ、雄一は澄乃の背を追って部屋の中へと足を進める。


「じゃあさっそくご飯作るから、雄くんはしばらくくつろいでて」


 長い髪を後ろで一つ結びに。制服のブレザーだけ脱いでその上からエプロンをつけた澄乃は、袖まくりをして手を洗い始めた。普段見慣れた制服と見慣れないエプロン。日常と非日常の融合はなかなかどうして魅力的だ。


「なぁ、やっぱ俺も少しは手伝――」


「ダーメ。今日は私が腕によりをかけたい気分だから、雄くんは大人しく座ってて」


 ぴしっとソファを指差されて台所からの退去を命じられる。物腰こそ柔らかいが、決して譲らないという鉄の意志を感じられた。こういう時の澄乃が頑固なことはよく身に沁みているので、言われた通り大人しく待つとしよう。


 まぁ実際、勝手を知らない他所様の台所でうろちょろすると、かえって澄乃も動き辛いだろう。そういう意味でも澄乃一人に任せた方がいいのかもしれない。


 任せっきりになってしまう申し訳なさと、自分のためにやる気を出してくれる嬉しさを抱え、雄一はソファに身を沈めてくつろぐことにした。


 とはいえ。


(落ち着かねぇ……)


 意識しないように努めていたのだが、何気に女の子の部屋にお呼ばれするのは雄一の人生史上初の経験だ。しかもそれが二人きりで恋人の部屋ともなれば、色々と気になってしまうのは男として仕方がない。厳密に言えば澄乃の実家でも自室に入ったが、あれは雄一の中ではノーカウントだ。


 部屋の主の気質を表現するように、淡いパステルカラーを基調に整えられた室内。ほんのりと鼻を撫でる甘い香りは勉強机の上に置かれたアロマのものだと思うが、どうしても澄乃の匂いと混同してしまう自分がいる。


 間取りは1DK。寝室とは仕切りで分けられているのだが、換気のためかそこへ繋がる引き戸は半分ほど開放されていた。さすがに本人の許可無しに入ろうとは思わないけれど、ソファに座っていても見えてしまうベッドに思わず視線が吸い寄せられる。


 ――澄乃は普段あそこで眠っている。


 穏やかな寝顔を浮かべた澄乃を想像してしまい、雄一はかぶりを振ってそのイメージを頭から追い出した。


「……ん?」


 ふと、ベッドのサイドテーブルに置かれた物が雄一の目に留まった。寝室に入らない程度に近付いてみると、それは白黒でもこもことした可愛い動物――花火大会の日にプレゼントしたパンダのぬいぐるみだった。


 自分でも気付かない内に雄一の口許は綻ぶ。


 どうやらあの日の宣言通り大事にしてくれているらしい。もしかしたら寝る時は抱いているのかも。


 きっと可愛いだろうなぁなんて思いながら、雄一はソファに座り直した。


 












 一時間もすれば食欲を刺激する美味しそうな匂いが漂ってくる。課題を進めていた雄一は手を止めてキッチンの方に視線を送ると、楽しそうな様子で調理を進める澄乃の背中が見えた。声こそ聞こえないが、鼻歌でも口ずさんでいるような感じだ。


 ぼちぼち頃合いだろうと判断してテーブルの上の課題を片付ける。せめて食器の用意ぐらいは手伝わせてもらおうと近付くと、澄乃は吊り戸棚を開けてその中に手を伸ばしていた。ただ目当てのものが奥まったところにいってしまったのか、頑張って背伸びしてもなかなか届きそうにないご様子だ。


 軽くため息をついた後、雄一は「澄乃」と呼びかけて背後から華奢な肩に手を添える。


「何取ればいい?」


「あ、そこの布巾……」


「ほいほい」


 背伸びもせずにひょいと手に取って澄乃に渡し、それから目を細めた雄一はその頬を指先で摘まんだ。軽い力加減でもむにっと形を変える肌は触っていて気持ち良い。


「適材適所。頑張ってくれるのは嬉しいけどさ、こういう時ぐらいは頼ってくれよ。それとも俺は頼りないか?」


「……あはは、ごめん、ちょっと張り切り過ぎちゃったみたい。雄くんはいつでも頼りがいがありますよー」


 口許を弛ませた澄乃が雄一の方へ身体を傾けた。その背中から伝わってくる温もりと柔らかさを感じながら、しっかりと踏み止まって澄乃を受け止める。


「ほら、ちゃんと支えてくれる」


 首だけ振り向いた澄乃の顔に浮かぶのは、茶目っ気たっぷりの笑顔。


 至近距離での可愛らしさに、さすがに少し、限界が来た。


「ごめん、ちょっとだけ」


「え? ――ふぁっ」


 背後から澄乃のお腹辺りに手を回して、ぎゅっとその細い身体を抱きしめる。体格差があるから澄乃は雄一の腕の中にすっぽり収まる形で、ついでに身長差にもかこつけて頭頂部に顎を乗せてみる。つむじすら気持ち良さを感じるのだから、澄乃は本当にずるい。


「……もう、ちょっとだけだよ」


 抱きしめた直後は肩を強張らせた澄乃も、すぐにその力を抜いて雄一の両腕を覆うように手を添える。二人分の力で澄乃を抱きしめ、温もりと柔らかさ、それと花のような甘い香りも堪能した。


「ほら、もうすぐできるから」


 しばらくして、澄乃が雄一の腕をタップする。仕上げに入ったとは言えまだ調理中、火を扱っている以上キッチンでの触れ合いは控えめにした方がいいだろう。


 断腸の思いで澄乃を解放し、先にテーブルでも拭いておこうかと濡らした台拭きを手にする。


「……雄くん」


 テーブルに向かおうとした矢先、澄乃からの呼びかけ。立ち止まって振り返ると、口許を布巾で隠した澄乃が恥ずかしそうに頬を染めている。


「あの、ご飯食べた後でね……もうちょっとだけ続きしたいなー、なんて……」


「…………おう」


 本当に、本っ当に、最近不意打ちが多くなってきた可愛い恋人さんである。

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