第84話『感じた違和感』

 翌日の午前中。墓参りに出かける澄乃を見送った後、簡単な身支度を整えた雄一もマンションを後にした。夏の日差しが照り付ける道を歩きながら、考えを巡らせる。


 昨夜から二つ、気になることがある。


 まず一つは、澄乃の部屋の状態だ。埃っぽさも無く、存外綺麗に整えられていた室内。単純に家具が少なかったというのもあるが、それにしたってどこかこざっぱりとした印象があった。それはつまり、定期的な掃除や換気がされているということだ。


 では、一体誰が行っているか。もちろん、家主である霞のはずだ。


 果たして、ほとんど喧嘩別れ状態の娘の部屋をそうも手入れするものだろうか……?


 そして二つ目は――霞の浮かべた表情だ。昨日、澄乃と相対した時に見せた厳しい顔つき。その直前に一瞬だけ垣間見たくしゃっと歪んだ表情が、雄一の脳裏には残っている。あの時は特別気に留めなかったが、昨夜の澄乃が似たような表情を覗かせた瞬間に何かを感じた。


 二人が親子で、似たようなの顔の造りをしているからピンときたのだろう。


 その表情を浮かべた時、澄乃が口にした言葉は――


『雄くんにたくさん迷惑かけてるし』


 それが示す感情は――罪悪感。


 霞が誰に対してその感情を抱いたかは考えるまでもない。そうなってくると、霞の態度には違和感しか無いのだ。突き放すような言動の一方で、澄乃に対して申し訳ない気持ちを抱いている。相反する二つの事柄を抱えた霞が、本当は一体何を考えているのか。それが知りたい。


 無論、これは未だ雄一の予測の域を出ない話だ。ただの勘違い、深読みしているだけの可能性は十分にある。


 だがもしかしたら、澄乃がいないことでこそ聞ける本音があるのではないかと思って――雄一は再び、この場所に来た。


(ごめんな、澄乃)


 一人で勝手に行くべきではないと思うけれど。


 彼女に心の中で詫びを入れた後、雄一は目の前の病院を見上げた。











『510』と書かれた病室を前にし、雄一は深呼吸をする。これからの自分の言動如何で、霞と澄乃の間の溝が余計に深まることになるかもしれない。そう思うと足が竦みそうになるが、ここまできて立ち止まるという選択も無い。


 開いたままのスライドドアの軽くノックしてから、雄一はゆっくりと室内へ入った。霞はベッドで半身を起こしたまま文庫本を読んでいて、ノックの音に反応してこちらを向いている。


「あなたは昨日の……」


「自己紹介が遅れてすみません。英河雄一、娘さんの……友人です」


 訝しげな視線を送る霞に雄一は軽く頭を下げた。「そう」と短い言葉を返し、霞は本を閉じてベッドのサイドテーブルに置く。どうやら門前払いをされることはないようだ。


「それで、その友人が何の用かしら?」


「……お願いします。澄乃と話をしてあげて下さい」


 言うが否や、雄一はその場に跪いて額を床につける。自分の土下座に大した価値など無いことは分かっているが、少しでもプラスに働くのなら躊躇ったりなどしない。


 だが霞は土下座など意に介さないように、雄一のことを冷ややかな目で見下ろしている。


「話すことは無いと、昨日そう言ったはずよ。あなたも横で聞いていたでしょう? そもそもこれは私と澄乃の、家族の間での問題よ。何も知らないで勝手に口を――」


「話は聞きました。勝さんのことも……澄乃があなたに言ってしまった言葉も……」


「……澄乃が話したの?」


「はい」


 そこで顔を上げると、霞は何か見定めるような視線を雄一に注いでいた。


「それなら、余計に口を挟める問題ではないとは思わないのかしら?」


「……正直、最初はそう思ってました。これはあくまであなたと澄乃の問題で、俺が入り込んでいいいものではないと。けど……もう見てられないんです。差し出がましいことは分かっていても……澄乃のために、俺ができることをしたいんです」


 今一度頭を下げ、雄一は自らの想いを口にする。その言葉を淡々と聞いていた霞は……微かな笑みを口許に浮かべた。


「あなた、良い人なのね」


「え?」


 突然の称賛で弾かれたように顔を上げると、霞の口許には微笑が浮かんだまま。どこか澄乃を彷彿とさせるような柔らかい笑みだった。


「澄乃のために必死になって、ほぼ初対面の私に頭まで下げて……本当に良い人」


 一瞬、こちらのことをあざけっているのかとも思ったが、霞の声音からはそういった感情は感じられない。言葉通り、本心から雄一を褒め称えているような口振りだった。


 そんな様子に緊張の糸が思わず解けそうになるのも束の間、霞の表情から笑みが消え失せ、入れ替わるように藍色の瞳が冷たく研ぎ澄まされる。


「だから忠告してあげる。誰かの助けになりたいという想いは人として正しいけれど……正しいからと言って、それが正解だとは限らないわ。何と言われようと、これは私たち親子の問題。部外者のあなたが口を挟める余地なんて、最初からありはしないの」


 瞳と同様、霞は氷のように冷徹な声音で続ける。


「少なくとも今回に関しては、あなたの行いはお節介でしかないのよ。……澄乃から急に連絡が来た時は驚いたけれど、あなたが焚きつけたというわけね。納得がいったわ。何を言ったかは知らないけど――」


「違います」


 霞の言葉を、雄一は半ばで遮った。真っ向からの否定に霞の眉が不快そうに顰められるが、それでも雄一にはどうしても聞き流せない部分があった。


「澄乃がここに来たのは……他でもない、澄乃の意思です。俺が焚きつけたわけでも、誰に押し付けられたわけでもない。あなたに謝りたい。謝って、もしできるのなら……あなたともう一度笑い合えるようになりたい。澄乃自身がそう願ったからこそ、あなたに会いに来たんです」


 初めから澄乃はそうだった。霞との関係に人知れず苦悩し、時には行動し、時には傷付き、それでも仲直りしたいという願いを捨てなかった。雄一は手を差し伸べただけで、その手を取り立ち上がる決意をしたのは他ならぬ澄乃自身だ。


 雄一は三度みたび、床に頭を擦り付ける勢いで頭を下げる。


「お願いします。澄乃のその想いだけは、どうか汲んであげて下さい……!」


 どうか、せめてたった一度でも澄乃の想いが報われることを願って、雄一は必死に言葉を紡いだ。


 ――束の間の静寂を破ったのは、霞の静かな問いかけだった。


「一つだけ、訊いていいかしら?」


「はい」


「この際、あなたと澄乃の関係はどうだっていいわ。友人だろうと恋人だろうと……極端な話、昨日会ったばかりだったとしても構わない。……でもね、たとえどんな関係であったとしても、突き詰めればあなたたちは赤の他人でしかない」


 霞の言葉に雄一は黙って頷く。赤の他人――今の自分と澄乃の関係をそんな物悲しい一言で片付けたくはないが、決して間違ってはいない。他人である以上、この問題で澄乃がどんな結末を迎えようと、雄一自身が不利益を被ることなど無い。雄一がここまでしなければならない理由は――本来、無い。


「あなたはどうして……澄乃のためにそこまでするの?」


「俺は……」


 どうして、自分はここにいるのか。


 答えは、ただ一つ。


 ――好きだからだ。白取澄乃という少女のことが。


 好きな人には笑顔でいて欲しいという、とても単純で、ありふれた願い。


 それが雄一の全てを突き動かす。

 

「澄乃に笑っていて欲しい。ただ、それだけです」


 それは嘘偽りのない雄一の気持ちで、だからこそ淀みなくその言葉を告げることができた。霞のことを真っ直ぐに見て伝えた言葉は、真摯な気持ちと共に相手に伝わる。その証拠に霞の瞳は大きく見開かれた。


 やがて眩しいものを見るかのように細められ、視線を逸らした霞は長い――本当に長いため息をついた。


「一度だけよ」


「……え?」


「あなたに免じて、一度だけあの子と話をする。そう言ったのよ」


「あ、ありがとうございます……!」


「勘違いしないで。ただ話すだけで、別に仲直りするわけじゃないわ」


「分かってます。それでも……ありがとうございます」


 ここから先は、それこそ澄乃と霞だけの問題だ。話し合った上で二人が――霞がどういった結論を出すかは、彼女に委ねる他ない。ともかく最低限、話し合いの場を用意することができただけ御の字だろう。


「申し訳ないけど、午後には診察が控えているの。もし来るのならそれ以降にしてもらえるかしら?」


「分かりました、澄乃にも伝えておきます」


 立ち上がった雄一は最後にもう一度だけ頭を下げた。約束を取り付けた以上、これ以上の会話は無用だろう。再びサイドテーブルの文庫本を手に取った霞の態度を見ても、それは明らかだ。


「失礼します」とだけ告げて、雄一は静かに病室を後にした。









 来訪者が去った後の病室で、一人残された霞は重苦しいため息をついた。その脳裏には、少年の誠実な表情が未だ色濃く残っている。


 ……本当に良い人柄の少年だ。先ほどの称賛は霞の心の底からの言葉だった。他人にあそこまで真剣に向き合い、あまつさえろくに会話したことのない相手にまで躊躇なく頭を下げる。きっと彼の両親は良い育て方をしたのだろう。――自分と違って。


(澄乃と話し合って、ね……)


 霞はどこか呆れたような嘲笑を浮かべた。


 無論、彼の望みがただ話すことだけでないことは分かっている。話し合って、そしてまた、普通の親子の関係に戻って欲しい。澄乃自身もそれを望んでいると、彼は言った。


 ――残念だが、その望みが叶うことはない。


 ふっと笑みを消した霞はベッドに身体を沈める。力無く横たわる様はまるで糸の切れた操り人形のようで、そんな霞の表情がくしゃっと歪んだ。


 たとえ何を言われても、澄乃と普通の親子の関係に戻るつもりはない。


 だって自分にはもう――あの子の親である資格・・・・・・・・・・など無いのだから。

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