第83話『互いの温もり』
初めて足を踏み入れた女の子の部屋は、思ったよりも普通だという感想を雄一に抱かせた。甘い香りが漂うとかそんな話を聞いたことはあるが、よくよく考えれば半年以上は放置されていた部屋なわけで、そんな幻想はありえない。埃っぽさが無いだけ十分だ。
残っているものは、引っ越しの際に持ち出さなかったであろう大型の家具やカーペット、ある程度の私物ぐらいだろうか。存外綺麗な室内を見回した雄一の視線は、最終的に壁際に設置されたシングルサイズのベッドに向かう。
(今からここで……澄乃と……)
雄一の喉がゴクリと鳴る。
もちろん澄乃が口にした『一緒に寝る』という言葉には、それ以上の意味など無いことは分かっている。ただ同じベッドで寝るだけの話であり、決して十八禁な展開に発展することはない。そもそもそんな状況でもないし。
とはいえ生理反応の全てを理性で完全に制御できるほど、雄一は聖人君子というわけでもない。図らずも好きな異性と寝床を共にするというシチュエーションには、どうしても昂ぶるものがある。
そんな雄一の葛藤を他所に、澄乃は押し入れからシーツや毛布を取り出して着実に寝床を整えていく。それが全て終わったところでこちらを向いた澄乃の頬は――目に見えて朱に染まっていた。
「あの、お願いします……」
「あ、はい。こちらこそ……」
お互い無駄に畏まって、ぺこりと頭を下げ合う。
「えっと……俺が壁側でいいか?」
「え、うん、私はどっちでもいいけど……。じゃあ、雄くんから先にどうぞ」
不思議そうに首を傾げる澄乃の横を抜けて、雄一はベッドに横たわる。万に一つもないように努めるつもりだが、もしもの場合を考えると、逃げ場の少ない壁側には自分がいった方がいいような気がしたのだ。
雄一が壁に向いて寝る体勢を整えたところで、背後でベッドのスプリングがぎしっと音を立てる。次いで背中から伝わってくるのは、少し火照ったような少女の温もり。風呂上がりでそれほど時間が経ってないせいか、それとも彼女も緊張しているのか。
背中合わせで相手の顔は見えないのに、先ほどの頬を赤く染めた澄乃の表情が焼き付いて頭から離れてくれない。
「電気消すね?」
確認する澄乃に「ああ」と淡泊な返事をすると、室内に暗闇が訪れる。常夜灯の微かな明かりが残るだけで、静かな空間が二人を包み込んだ。
「おやすみ、雄くん」
「おやすみ」
雄一はそう返して目を閉じる。
――約十分後。
(眠れん……!)
雄一の下に睡魔がやって来る気配は一向にない。シングルベッドに二人で寝ているのでこれ以上離れることもできず、触れ合ったままの背中からは延々と澄乃の温もりが伝わってくる。それは心地良くあるが、同時に雄一の心拍数を際限なく早めてくるのだ。
突発的な外泊で身体は疲れているはずなのに、精神は暴走してなかなか寝付けそうにない。好きな人と一緒に寝るというイベントは、なかなかどうして難儀なものだ。
雄一がそんなことを思っていると、背後でもぞりと身じろぐ気配があった。
「雄くん、まだ起きてる?」
「ああ、まだ寝付けそうにないかな」
澄乃からの控えめな問いに苦笑して答える。
「ごめんね、二人だと寝苦しいよね?」
「いや、それは大丈夫なんだけど、色々と考え事があってさ」
あとドキドキしてというのもあるが、口にはしまい。
「さっきも言ったけど……一緒にいてくれてありがと。雄くんがそばにいてくれると、何だか安心する」
「どういたしまして。けど、お礼言うのはまだ早いんじゃないか?」
「……そうだね。明日も頑張らないと」
「明日はどうする? 十時からお見舞いできるらしいけど、午前中から行くか?」
「あ……一度、お父さんのお墓参りに行きたいかな。雄くんはどうする? 疲れてるだろうし、家で休んでてくれて構わないけど」
「そうだなぁ……」
少し考えを巡らせる雄一。
「じゃあ、午前中は別行動ってことでいいか? ちょっと行きたいところあるし」
「いいけど……どこ行くの?」
「あー……ほら、近くにコインランドリーあるらしいから、その下見。いつまでこっちにいるか分かんないからさ」
「え? 別に家の洗濯機使ってくれて大丈夫だよ?」
「一応俺は部外者だからなぁ。こう言っちゃなんだけど、何がきっかけで向こうの機嫌を損ねるか分からないし」
「あ、そっか。ごめんね、不自由かけて……」
「気にすんな。澄乃が謝ることじゃないよ」
「うん……。ありがと」
二人の会話はそこで止まった。
会話を挟んだおかげで雄一の精神もある程度落ち着いてくれたものの、まだまだ寝付けそうにはない。ダメ元で羊の力でも借りてみようかと思った矢先、再び背後でもぞりと動く気配が。
「……ねぇ、雄くん」
「ん?」
「向かい合わせじゃ、ダメ?」
「…………」
背中合わせでじゃなくて、向かい合って寝たい。
そんな可愛らしいおねだりが聞こえてきて、雄一の心がまたざわつき出す。正直今の状態でも大変なので、さすがに断った方がいいかとも思ったのだが。
「澄乃は……そっちの方がいいのか?」
「……うん」
支えると決めた以上、雄一の答えは一つしかない。
それにこれは、澄乃からの信頼の表れでもあるのだ。なら、その信頼に全力で応えなければ男が――ヒーローが廃る。
「澄乃」
身体を反転させて、その名を優しく呼ぶ。一拍置いてこちらに振り返った澄乃の頬はやはり真っ赤で、恥じらう様子がとても可愛らしい。
最初は視線が泳いでばかりの澄乃だったが、少しずつ雄一の目を真っ直ぐに捉えるようになり、やがて口許が緩い弧を描く。
「うん……こっちの方が落ち着く」
そう言って微笑む澄乃から、雄一は目が離せない。
(やっぱり俺は、澄乃のことが好きなんだよなぁ……)
改めて自覚する恋心。
澄乃の笑顔を見たい――それが今の雄一の原動力だ。まだ心の底からのものとは言えないけれど、そう遠くないうちに必ず、彼女の本当の笑顔を取り戻してみせる。
そんな想いが雄一を動かし、柔らかそうな澄乃の頬に自然と手が伸びた。ゆっくりと頬に手を添えてみると、澄乃はくすぐったそうに、そして嬉しそうに顔を摺り寄せてくる。少しの間そのままの澄乃だったけれど、さすがにくすぐったさが勝(まさ)ったのかやんわりと雄一の手を取り、まるで宝物を扱うように両手で包みんだ。手の平と甲から伝わる温もりは、雄一にとっても心地良い。
「おやすみ」
澄乃はゆっくりと目を閉じた。
どうやら手を握ったまま眠りたいということらしい。もちろんそのおねだりも受け入れて、雄一は「おやすみ」と優しく囁く。
心は未だざわついているけど、それと同じぐらいに落ち着きもする。それはきっと澄乃も同じだと、愛らしい寝顔を眺めながら思い、雄一も静かに目を閉じた。
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