第85話『白取霞』
午後の診察も終わり、病室のベッドに横たわる霞は一人思う。
――澄乃にずっと寂しい思いをさせていることは、分かっていたつもりだった。
勝が死んでからというのも、心を崩してふさぎ込んでばかりの自分。多感な時期に父親を亡くした娘のことを誰よりも支えてあげなければいけなかったのに、実際の状況はその真逆だった。
まだ十三にもなったばかりの子供に支えられる。……なんて情けない親だったろう。
澄乃が日々の生活を頑張っていたことは、時折お見舞いがてら近況報告に来てくれる隣の夫婦から、そして澄乃本人からも聞いていた。
学校のテストで満点を取った、最近料理を覚え始めた、友達とも仲良く付き合っている――だから、心配しないで。言葉にこそしなくとも、澄乃の内にそういった気持ちがあることは痛いほど伝わってきた。
正直、その優しさに甘えていた部分はあったと思う。澄乃は親の支えが無くてもちゃんとやっていけてるから、自分は休んでいて大丈夫だ。それがもう少し、もう少しと延びて、気付いたら一年、二年と月日は流れていく。
そんな自分を正そうと思ったのは、ある日のこと。お見舞いに来てくれた澄乃が帰ったすぐ後、気付いてみれば椅子の近くにハンカチが落ちている。何でも誕生日に友達からプレゼントされたものだと、澄乃は嬉しそうに語ってくれた。
せっかくのプレゼントを落としちゃいけないだろうと苦笑して、霞はそのハンカチを拾い上げた。時間はそう経っていないから、澄乃はまだ病院にいるはず。自分も院内なら出歩けるぐらいに快復していたので、早めに届けてしまおう。
そうして病室から出て、運良く澄乃の姿を見つけた先で……霞は立ち止まってしまった。
廊下の奥の方。照明が壊れているのか、周囲から隠れるように薄暗くなっていたそこで――澄乃は一人泣いていた。声を押し殺して、誰にも気付かれないようにひっそりと。
遠目からでも察することができたのは、曲がりなりにも自分が彼女の親だったからだろう。
すぐそばに寄り添って慰めてあげたかったけれど、霞の足は動いてくれなかった。当然だ。澄乃を泣かせているのは、他でもない自分なのだから。
優しさに甘えて、大丈夫だと勝手に勘違いして、澄乃に支えられてばかり。本当なら澄乃の方こそ支えて欲しいはずなのに、誰の前でもおくびに出そうとしない。そしてどうしても我慢できなくなった時に、あんな風にたった一人で気持ちを曝け出しているのだろう。
このままじゃダメだと思った。このままだといつか、澄乃は潰れてしまうような気がした。だから霞はその日から、医師とのカウンセリングなどを精力的に行うなどして、最大限早く退院できるように努めた。
その甲斐あって、勝が死んでからそろそろ三年目に差しかかる冬に、霞はようやく退院の日を迎えた。少し後に澄乃も高校受験を無事に終え、新しい生活への一歩を踏み出す。色々とちょうど良いタイミングだと思ったから、霞は勝の命日に墓参りに行くことを決心して。
――そして、
『お母さんがあの時止めてくれれば、お父さんは死ななかったかもしれないのに――ッ!』
その言葉は、まるでハンマーで殴られたかのように霞の頭に響いた。
気付いた頃には地面に尻餅をついて呆然とこちらを見上げる澄乃と、手を振り抜いた態勢のまま固まった自分。手の平から伝わるじんとした痛みが、澄乃に手を上げたことを物語っていた。
それ以上何か言うこともできず、霞は黙って澄乃の前から立ち去った。
私は、何をした?
今まで自分を支えてくれた娘に、何故最低な行為を返してしまった?
――何てことはない。澄乃が突き付けたことはまさに、霞がずっと抱えていた苦悩だったからだ。
勝が火災現場に向かおうとしたあの時、少しでも引き止めていれば、未来はもっと違ったものになったんじゃないか。勝は今も自分の隣にいてくれて、澄乃にも寂しい思いをさせずに済んだんじゃないか。そんな後悔と疑念が霞の心の奥底に巣食っていた。
誰かに打ち明けたら「そうだ」と断じられてしまいそうで、だからずっと一人で抱えていた。そんな心の内を図らずも澄乃に言い当てられてしまって……ついカッとなってしまったのだ。
情けない。
そこから先、澄乃にどう接したらいいのか分からなくなった。墓参りの後も澄乃は何度か声をかけてくれたけれど、また何かの拍子に手を上げてしまうことを恐れて、返事をすることができなかった。
結局、弱い自分はまた“時間”に縋った。入院していた時と同じ、時間をゆっくりかけて傷を塞いでいく。大丈夫、澄乃だって待ってくれる。今までだってそうなのだから、きっとこれからも……。
その甘ったれた考えが間違いだと気付いたのは、そんな暮らしが数か月過ぎ、季節が秋に移ろい始めた頃だった。
夜になって家に帰ってみると、リビングのテーブルには澄乃からの書き置きが残されていた。
『一人暮らしがしたい』
その意味を理解した瞬間、思わず笑ってしまった。
ああ、そうか。もう自分は見限られてしまったんだ。だが、それも当たり前。ほとんど用を成さない自分なんて、澄乃にとっていてもいなくても変わらない。むしろ邪魔でしかないだろう。ずっと辛く苦しい思いをさせてしまったのだから、もう澄乃の好きにさせてあげよう。
『好きにしなさい』と一言書いて、霞は愛娘の一人暮らしを認めた。せめて少しでも楽はさせてあげようと、一人暮らしにかかる費用に糸目はつけなかった。幸い勝が亡くなった際の死亡退職金などもあったので、金銭的には割と余裕もあったのだ。娘のために使うなら夫も本望だろう。
そうして澄乃の一人暮らしが始まり、霞もより広くなってしまった家で一人で暮らすように。パートに出れるぐらいにもなっていたので、慎ましく生きる分にはさして問題も無かった。
きっと自分の声なんて聞きたくもないだろうから、澄乃に特にコンタクトを取ることは無く、家賃や生活費だけは忘れずに振り込んでおくだけ。
もちろん寂しい生活であったけれど、全て自分の蒔いた種であるから何も文句など言えない。自分という枷が無くなって、澄乃も伸び伸びと暮らしているだろう。ならもう、それで十分だ。
――そんな風に思っていたある日、澄乃から『話がしたい』と連絡が来た。
わけが分からなかった。今さら何を話す。今さら自分に何を期待している。……もうあなたは、私のことなんて気にしなくていいのに。
返事ができないまま時間は過ぎていき、そして三日前の夜にとうとう、『会いに行く』というメッセージまでも来てしまった。
これ以上自分のことで迷惑をかけたくなかった。一晩悩んだ末に電話して……『来ないで』と突き放した。電話を終えてパートに出掛けたものの、働き始めてすぐ目の前が真っ暗になってしまい、次に目を覚ましたら病院のベッドの上。自分の言葉でショックを受けてしまうなんて、随分と滑稽な話だ。
ともかく、これで澄乃が会いに来ることはないだろう――と思っていたのに、まさかそれでも来るとは思わなかった。
およそ八か月ぶりに見た娘はまた一段と綺麗になっていて、それだけにその美しさを曇らせていることが申し訳なくてたまらなかった。
電話の時と同じ、あえて澄乃のことは突き放す。血も涙も無い人間だと非難されようとも、それが澄乃にとって一番楽になれる道だと思ったから。
なのに澄乃は諦めようとせず……“彼”もまた同じだった。
――英河雄一。
そう名乗った彼は、とても真っ直ぐで誠実な少年だった。
澄乃の友人だと言っていたけど、きっと澄乃のことが好きなのだろう。そして澄乃もまた、彼のことを。
『澄乃に笑っていて欲しい。ただ、それだけです』
そう言った彼の目に嘘も迷いも無かった。
なら安心だ。彼が澄乃のことを支えてくれる。自分に残された役目なんて、せいぜい金銭面で援助してやるぐらいのものだろう。
それでいい。自分のことなんて、都合の良い金づるとでも割り切ってくれればいい。もし援助すら受け取りたくないと言うのであれば、それもまた良し。母親としての役目を満足に果たせなかった自分には、お似合いの末路だ。
だから、今日で終わりにしよう。徹底的に突き放してやれば、澄乃だって自分のことを見限る。傷付けてしまうかもしれないけれど、きっと彼が癒してくれる。
窓を通した先で茜色に染まりつつある空を眺めながら、霞は思う。
自分の願いはただ一つ――娘の幸せ。
そのためなら、どれだけ恨まれようとも構わない。
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