第82話『おねだり』

 病院を出て適当なファミレスで夕食を摂った後、澄乃の実家であるマンションに戻って来た。現家主である霞から一応の許可も出たことなので、雄一も今日はこの家に泊まらせてもらうつもりだ。


 澄乃の自室にはベッドなどの最低限の家具は残っているとのことなので、彼女はそちらで寝る。雄一はリビングにあるソファを使わせてもらう予定だ。寝っ転がっても余裕があるぐらいには大きいので、あとは毛布でも借りれば寝床としては上々だろう。


 すでに入浴を終えてジャージに着替えた雄一は、軽く荷物の整理をしている。三、四日は滞在できる程度に用意をしてきたのだが、今日の様子だとどこまで延びるかは分からない。この家の洗濯機を使わせてもらえれば何とかなりそうだが、さすがにそれは図々しいだろうか。近場のコインランドリーの利用、もしくは最悪一度帰ることも考慮に入れ、雄一は荷物の整理を終えた。


 手持ち無沙汰になってソファーに座り込むと、やはり澄乃のことが気になってしまう。今は雄一の後に続いて入浴中で、浴室の方からは微かにシャワーの音が聞こえてくる。もちろん先に入るようには促したのだが、「少し落ち着いてからにしたい」と言われたので、大人しく雄一の方が先に利用させてもらった。


 ただ待っていても仕方がないのでスマホを手に取るが、やはり大して手につかなくて脇に放り出してしまう。


「何も話すことは無い、か……」


 霞が口にした言葉を噛み締めるように呟く。


 取り付く島もない、明確な拒絶の意思。実の娘にどうしてああも残酷に振る舞えてしまうのか、雄一には到底理解できない。


 確かに澄乃が霞に浴びせた言葉は許されざるものではあったろう。だがそれに至るまでの澄乃の心情を考えれば、多少なりともその想いは汲んであげてもいいのではないのだろうか。


 雄一にとって澄乃は好きな人だから、甘く見ているというのは……少なからずあると自覚している。それでもせめて、一度話し合う機会ぐらいは設けても……。


「――っと」


 気付かない内に作っていた握り拳を解くきっかけは、浴室の方からのドアの開閉音だった。少し後にドライヤーの音も聞こえてくる辺り、どうやら入浴は終えたようだ。


 しばらくしてからヘアブラシ片手にこちらに近付いてきた澄乃に対し、雄一は座る位置をズラして彼女の分のスペースを空けた。澄乃はそこに腰を下ろし、ブラシで髪の手入れを始める。それが一段落ついたところで、雄一はそっと澄乃の様子を窺った。


「……大丈夫か?」


 その問いに反応してこちらを向く澄乃は――想像よりも穏やかな表情を浮かべていた。


「うん、そこまで心配しなくても大丈夫だよ?」


「そう、か。でも無理は――」


「してない……とまでは言えないけど、でもやっぱり大丈夫」


 澄乃はテーブルにそっとブラシを置くと、脱力してソファに身体を沈める。


「簡単にいかないってことは分かってたもん。だからこれぐらいでへこたれたりなんてしない。お母さんが話を聞いてくれるまで、何度だって会いにいくつもり。それに――」


 そこで言葉を区切った澄乃が、雄一へ向けて柔らかく微笑んだ。まだぎこちなさは抜けないけれど、精一杯安心させるように。


「雄くんからちゃんと勇気を貰ったから。だから今度は……私が頑張る番だよ」


「……そっか。強いな、澄乃は」


「そんなことないよ? 雄くんにたくさん迷惑かけてるし、こうして一緒に来てくれなきゃ、そもそもお母さんに会いにすら行けなかったよ」


 少しだけくしゃっと顔を歪めると、己を恥じるように眉尻を下げる澄乃。それでも雄一の意見は変わらなかった。


 雄一はあくまで背中を押しただけで、母親と話をしたいと願ったのは澄乃自身だ。最初から前を向こうとしない人間の背中をいくら押したところで、あらぬ方向に行くだけで意味など無い。だからやっぱり、澄乃自身が強いのだ。


 どれだけ冷たく扱われても決して諦めず、それどころかこちらに余計な心配をかけまいとする、気高さすら感じさせる姿勢は素直に尊敬できる。


 ――だからきっと、これは自分のワガママなのだろう。


「え?」


 雄一が澄乃の手に静かに自分のそれを重ねると、彼女はきょとんと目を瞬かせた。


 頑張ってくれていい。諦めないでくれていい。それは雄一も望んでいる。


 それでも……自分の前でぐらい、肩の力を抜いて欲しいと思うから。


 そんな想いを込めて澄乃の手を包むと、嬉しそうに頬を弛ませた澄乃はそっと雄一の肩に寄りかかってきた。


「ありがとう」


「ああ」


 できるだけ落ち着いた声音で返すと、澄乃はより一層体重を預けてくる。その重みを全身でしっかり受け止め、澄乃の手を包む手に力を込めた。


 しばらくすると、澄乃は上目遣いで雄一に視線を向ける。


「……ねぇ、雄くん。もうちょとだけ、甘えてもいい?」


「いいぞ。ちょっとと言わずいくらでも」


 むしろ望むところだ。今の自分は澄乃を支えるためにここにいる。その役目を果たすためなら、いくらでも頼ってくれて構わない。


 雄一のノータイムの返事を受け取った澄乃は、一度恥ずかしそうに目を伏せると――


「今夜は……一緒に寝てくれない?」


「――――え?」


 予想の斜め上のお願いをしてきた。

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