第81話『冷酷』

 マンションから徒歩とバスで三十分ほどの距離に、澄乃の母親が入院している総合病院があった。


 お隣さん曰く――


『入院って言っても、そこまで大したことじゃないのよ? 少し疲れが溜まってふらっときちゃったみたいで、今は病院で安静にしているわ。私は今日の午前中にお見舞いに行ったけれど、命に別状があるわけじゃないから安心して大丈夫よ』


『そうだったんですか……。ちなみに、それはいつ頃のお話ですか?』


『昨日の……お昼ぐらいだったかしらね』


 その後、お隣さんにどこに搬送されているかを教えてもらい、余計な荷物だけはマンションに置いて慌てて病院まで来たわけである。面会可能時間は二十時まで。すでに十九時半を回っているので、面会時間ギリギリに滑り込めた形だ。


「すいません、母がここに入院していると聞いたのですが。名前は――」


 澄乃が病院の受付係と話す中、雄一は清潔感のある白い壁に設置された病院の案内板に目を通す。様々な科がある大型総合病院で、以前に澄乃の母が入院していた精神科もここの一部らしい。今回は一般の内科に入院しているとのことなので、ひとまずは以前の症状がぶり返した、というわけではないようだ。


「白取さんは五階の510号室ですね。五階は一部改装中で分かりづらいかもしれないので、もしもの時はお近くのスタッフに訊いて下さい」


「分かりました、ありがとうございます」


 場所を聞いた澄乃と共にエレベーターに乗り込み、五階へ。一度案内板を見てから目的の510号室を目指すのだが、受付係の言う通り一部改装中で病室の番号が飛んでいるらしく、些か分かりづらい。


「えーっと、ここが508だから……?」


「ちょっと待て、あそこのスタッフさんに聞いてくるね」


 そう言って、離れたところにいるスタッフへと近付いていく澄乃。


(向こうの方か……?)


 澄乃の視界から消えない程度に少しだけ進んでみると、とある病室が雄一の目に留まる。


『510』のプレートの下にある名前は――白取かすみ


 苗字が同じである以上、ここが澄乃の母親の病室で間違いないだろう。スタッフとの話を終えてこちらに向かってくる澄乃に、ジェスチャーでこの病室がそうであることを伝える。


 澄乃を待ってから病室に入ろうと思った雄一だが……患者を観察しやすくするため、開いた状態を保ったスライドドアから覗く銀色を垣間見た瞬間、思わず誘われるように病室の中に踏み込んでしまった。


 ――そこには、ベッドで半身を起こす一人の女性がいた。


 まず目を引いたのは、澄乃と同じ紫がかった銀髪。簡素な患者衣が包むその体躯は華奢で、どこか力の無い印象を抱かせる。視線は窓の外の景色に向けられているので顔こそ満足に見えないが、沈んだ表情を浮かべていることが何となく読み取れた。


 立ち止まった雄一の足元で、リノリウムの床がキュッと音を立てる。


 それに反応してこちらに振り向く双眸は――またもや澄乃と同じ藍色だ。澄乃の外見は、どうやら母親譲りのものらしい。それを裏付けるように、視線の先の女性はまさに順当に年を重ねた澄乃という表現がぴったりくる。


 当然、それ相応の美貌を備えてはいるのだが……その頬はやつれ気味で、肌も少し青白い。澄乃の透き通るような白さとは違う、病的な白さ。病院というシチュエーションが余計にその印象を誇張させるように思えた。


「あなたは……?」


 霞が雄一を見て、わずかに首を傾げる。どう自己紹介したものかと迷っていると、雄一の背後、澄乃が遅れて部屋に入ってくる気配がした。


 そしてその瞬間、霞の表情が変貌を遂げる。一瞬だけくしゃっと顔を歪ませたかと思うと、すぐにその双眸が研ぎ澄まされ、澄乃へと鋭い視線を投げかけた。


「……何をしにきたの?」


 冷徹な声音。およそ久しぶりの再会を果たした実の娘にかける言葉ではなかった。


 氷のような威圧ににたじろいでしまった雄一と入れ替わるように、澄乃は霞の前へ歩み出る。


「久しぶり。……あの、前にメールで伝えた通り、話を――」


「来ないでと、私はそう言ったはずよ? 話すことなんて無いわ」


 一貫して突き放すような言葉だった。息を呑んで怯む澄乃に構わず、霞は淡々と畳みかけていく。


「あなたも随分と頑固なのね。その辺りは勝(まさる)さんに似たのかしら。……とにかく、今さらあなたと話すことなんてない。帰りなさい」


「でも、私は……!」


「仕送りは十分に送っているし、一人暮らしは問題なくできているのでしょう? ならそれでいいじゃない。あなたももう一人前なのだから、私に構わず好きに生きたらいいわ」


 一人前だと褒めてはいるが、その実、その言葉の裏に隠されているのは明確な拒絶だ。親として最低限、金銭の面倒だけは見て、あとはどこか好きなところに放逐する。一切の愛情を感じられないその態度に、気付けば雄一の口の中に鉄の味が広がっていた。


「とにかく帰りなさい。これ以上は病院の方々にも迷惑よ」


 霞が雄一たちの背後に視線を送る。雄一が釣られて後ろを見やると、病室のドアの前で気まずそうにこちらの様子を窺う看護婦と目が合った。


 そもそも病院に着いた時点で面会時間もギリギリ。もうタイムリミットということだろう。


「もう少しよく考えてから行動することね」


「――っ!?」


 そんな言い方はないだろう。澄乃がどれだけ思い悩んだ上でここに来る決意を固めたのか、それを少しも理解しようとしない物言いに、雄一の拳に力がこもる。我を忘れて声を荒げようとした矢先――横合いから小さな手が雄一の拳に添えられた。


 驚いて横を見ると、そこでは沈痛な面持ちの澄乃が真っ向から霞を見据えていた。


「……今日は帰る。でも、明日もまた来るから」


「……そう。どの道、私はあと二日ぐらいは入院することになるから、その間は家を好きに使うといいわ。一応、あなたの家でもあるわけだしね。そちらの彼もお好きにどうぞ」


「……ありがとう」


 霞はまた外へ視線を向け、話はもう終わりだと言わんばかりに何も答えようとしない。


 澄乃もそれ以上何を言わずに踵を返し、様子を窺っていた看護婦に「お騒がせしました」と告げて、病室を後にする。言いたいことは山ほどあったが、当事者が帰る以上、雄一は何も言えない。


 埋まる兆しの見えない溝に後味の悪さを感じつつも、少しだけ落ち着いた思考の下、最低限の会釈だけはして澄乃の後を追った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る