第32話『澄乃さんは思い悩む』

 あと一時間もすれば日付が変わるという頃合い、澄乃は自室で机に向き合っていた。


 部屋の主である少女の気質を再現するように、パステルカラーを基調に整えられた室内には柔らかな雰囲気が醸し出されている。それと調和するような淡いピンク色の寝間着に身を包んだ澄乃は、手にしていたシャーペンを転がして身体を解すように大きく伸びをした。


 同年代と比較しても豊かに実った膨らみが上品に揺れ、仮にこの場に異性がいようものなら例外なく視線を釘付けにすることであろう。


 そんなことは露知らず、身体のコリを取り除いた澄乃はマグカップに注がれたホットミルクを口に含んだ。温めてから時間が経ってしまったので少しぬるく感じるが、それでもほのかな温かさと甘味は心地良く、自然と口元には笑みが浮かぶ。残り少ない中身を飲み干すと、シャーペンを手に取って再び机に向かい合った。


 澄乃の目の前に広がるのは数学の教材。教科書や問題集を参考にして、澄乃オリジナルの練習問題をノートに書き出している最中だった。


 ――雄一との放課後の勉強会を始めてから、すでに数日が経過していた。


 雄一の成長は目覚ましい。暗記科目で高得点を叩き出している辺り、地頭はかなり良いのだろう。数学に関しては苦手意識で手を出さなかった部分が大きく、そこさえ上手くカバーしてあげれば実力は右肩上がりで伸びていく。


 元々努力家でもあるだろうし、自宅に帰ってからもしっかり勉強しているに違いない。あくまでテストまでの期間限定だけれど、自分が手塩にかける相手が着実に成長していく様は教える側の澄乃としても誇らしい気分になる。


「こんなところかなあ」


 問題作成も一区切り付いたところで、一度ノートの中身を見直す。雄一の理解の進捗度に合わせて、少々いじわるな引っ掛け問題を用意してみた。これを難なく解いてみせるか、それとも頭を抱えてうんうん唸るか、どっちに転ぶかが割と楽しみだったりする。


「ふう……」


 ノートを閉じて、椅子の背もたれに寄り掛かる。斜めに見上げた視界の先には、窓を通して綺麗な夜空が広がっていた。最近は快晴続きなので星もよく見える。 


 雄一曰く、こちらの教え方はとても上手いとのことだ。本腰を入れて誰かに勉強を教えたことはなかったのでその言葉に安心する反面、毎回褒められるたびに心にむず痒いものを覚えてしまう。


 簡単なアドバイス程度ではあったものの、他の同級生に勉強を教えたことはこれまでにも何度かあったし、その度に『分かりやすい』と褒められた。なのにその相手が雄一というだけで、どうしてこうも心がむずむずするのだろうか。


 脱力感に引かれるように机に突っ伏した澄乃は、手持無沙汰に自分の毛先を指で弄んでみる。


 いつだったか、雄一と二人でアパレルショップに立ち寄った際に『綺麗だ』と褒められた銀髪。もちろん年頃の嗜みとして普段から手入れは心掛けているけれど、面と向かって褒められるのはやっぱり気恥ずかしい。


 誰に見られているわけでもないのに、上気した頬を隠すように顔を埋(うず)める。


(これって、やっぱりそういうことなのかなあ……)


 他でもない、雄一の言葉だからこそ昂ってしまう心。


 この現象に名前を付けるとしたら、当てはまる単語はやはり“アレ”……なの、だろうか?


 けれどこれは、澄乃にとって今まで経験したことのない気持ち。簡単に整理はつかないし、答えも出てくれない。


 これが数学だったら、公式に当てはめて解を出せるというのに……。


(――まあ、それはともかく)


 数学にやや毒された思考を切り替えて、机の端に置いていたスマホを手に取る。


 今の自分には答えの出ない気持ちより、早急に答えを出さなければならない案件があるのだ。


 点灯したスマホの画面に表示されたのは、大手検索サイトのトップページ。澄乃は細い指先でスマホを操作し、その検索欄に自分が調べたいことのキーワードを入力して、検索ボタンをタップする。


 そのキーワードは――


【高校生 男子 喜ぶこと】


 そう、澄乃の目下の問題とは、雄一に対するお礼だ。


 改めてこれまでの触れ合いを思い返してみても、雄一に助けられている部分はかなり多い。今回の勉強会でその恩を少しずつ返すことができたらと思っていたが……つい先日、彼が無理をして自宅まで送り届けてくれていたことが発覚した。


 雄一は『俺が勝手にやったことだから』と言うけれど、彼に余計な手間を取らせたのは事実だし、自分が助けられたのもまた事実だ。受けた恩はきっちり返さないと、澄乃の気は済まない。


 それにだ。実は自分が気付いていないだけで、知らない内に他にも助けられている場面があるんじゃないかと、そう思えて仕方がない今日この頃なのだ。


 これは一度、どこかでガツンと恩を返さなければならない……!


 そう思い立って色々と調べている澄乃なのだが。


「何が良いんだろうなあ……」


 しおしおと、随分と情けない声音が漏れる。


 告白された数ならいざ知らず、実際に異性と付き合った経験など微塵も無い。年頃の男の子が喜びそうなことなど正直見当がつかないのだ。


 検索すれば色々と手段は出てくるのだが、どれが良いのかイマイチ絞り込めない。手は抜きたくないし、せっかくなら雄一が心から喜んでくれることをしてあげたい。


 そんな想いを胸にネットサーフィンを続けていると、とある一文が澄乃の目に留まる。『男を喜ばせるならコレ一択!』とやけに自信あり気なリンクをタップすると、背景にカラフルなハートマークが乱れ飛ぶページが開いた。その見出しは――





【貴女を彩る可愛い&セクシーな下着10選! これで相手もイチコロ!】





 ページを閉じる。自分でも驚くほどの速度で。


(無理無理こんなの絶対ムリだってばぁぁぁあああっ! こんなことしたら恥ずかしくて私死んじゃうからぁぁぁああああっ!)


 衝動に駆られてベッドにダイブした澄乃は、枕に顔を埋(うず)めて声にならない叫びを上げた。


 脳裏には、一瞬でもしっかりと焼き付いてしまった上下揃いの下着が浮かび上がる。勉学で鍛えた自分の記憶力がこの時ばかりは恨めしい。


 たっぷりのフリルで装飾された淡いブルー――確かに可愛いとは思うけど、それを身に付けた自分の姿を雄一の前に晒すなんて……考えただけで顔から火が出るようだった。


 というか、これは完全に恋人同士の、しかもかなり進んだ間柄で交わされるやり取りだ。澄乃が望むのはもっとこうソフトなものであって、ここまで刺激的なものにはとてもじゃないが手を出せない。


(でも、英河くんも男の子だし、こういうの好きなのかな……?)


 手に持ったままのスマホの画面を見ようとして、勇気が出なくてやっぱり止めた。


 仮に雄一が好きだったとしても、こんな『プレゼントはわ・た・し』紛いのことをしたら自分は完全に痴女だ。何か別の方法を考えなければならない。


(ネットで調べるよりは、近い人に訊いてみるのが一番かなあ……)


 雄一と特別仲の良いクラスメイト二人を思い浮かべる。ここは恥を忍んで、彼らにアドバイスを求めるのが近道だろう。


 決意を固めた澄乃だが、茹だった頭を冷却するには今しばらく時間が必要だった。

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