第31話『澄乃さんはご立腹』
「――英河くん、今、なんて言ったの?」
底冷えするかのような極寒の声。澄乃はいつもと同じような柔らかい笑顔を浮かべているのに、声と表情のアンバランスさが余計にその異常さを際立たせていた。
知らず知らずのうちに渇いていた唇を舌で軽く湿らせて、雄一は言葉を絞り出す。
「……また明日?」
「その前」
「……俺こっちだから?」
「英河くんの家って、駅の方なの?」
「ああ、そうだけど……」
「本当に?」
念押しと言わんばかりに、澄乃の目が細く研ぎ澄まされる。澄んだ藍色の瞳には何やら妖しい光が宿っているような気がして、物理的な拘束力すら感じられるぐらいだ。
「本当も何も、こんなことで嘘言ってどうすんだよ?」
別に自宅の場所が知られたくないわけでもない。わざわざ嘘をついてまで隠す必要など無いのだが……。
眠気という霧がかかった思考では澄乃の意図が読み取れず、首を捻るばかり。そんな雄一の様子を見た澄乃は、今まで見てきた中でトップレベルに頬を膨らませるとカッと目を開いた。
「あい、かわ、くんっ!!」
「はいッ!?」
突然大声で名前を呼ばれて狼狽える雄一に、澄乃はずんずんと彼女らしからぬ大股で距離を詰めてくる。縮まった互いの距離はわずか数センチ。こんな時でも目の前の少女からはフローラルな香りがして、それを意識した雄一は思わず後退りするが、すぐに壁際に追い詰められてしまう。
身長差のせいで上目遣い気味になる澄乃。普段ならその可愛らしさに見惚れるところだが、さすがに今はそんなふわふわ思考を抱く暇など無い。
「あ、あの、白取……さん? ちょっと、さすがに近いんじゃないかと――」
「英河くん」
「ハ、ハイ……」
「あなたは、あの雨の日のことを覚えていますか?」
「いや、だから、ちょっと近――」
「お・ぼ・え・て・い・ま・す・か・ッ!!!」
「ヒィッ!?」
澄乃の迫力に圧されて喉元から悲鳴が込み上げてしまう。それほどまでに今の彼女は恐ろしい。可愛いだの綺麗だのは何度も思ったが、恐怖と言えるほどのものを覚えたのは今回が初めてだ。
「あ、雨の日……? ええっと……」
この恐怖を取り除くには、すぐさま澄乃の望む答えを返さなければならない。そう思い立って記憶の海にダイブする雄一だが、これといって思い当たる節が無い。
何せ最近は快晴続き。「梅雨? 知ったこっちゃねえ」と言わんばかりの天気模様だ。一番直近で雨の降った日と言えば……。
「あ、オリエンテーションの前日か……!?」
ひと悶着あったあのオリエンテーション、前日は雨に見舞われていた。思い返してみれば澄乃が崖から落ちたのだって、その雨で地面がぬかるんでいたことも原因の一つなので、なるほどそう考えれば彼女にとって思い入れの一つや二つあるはず――。
「ちーがーうーッ!」
違ったらしい。というか澄乃の反応を見るかぎり、的外れどころか百八十度真逆のようだ。
「え、えっと、じゃあ……んんー……?」
必死に記憶の海でもがき続けるものの、いつまで経っても答えは出てくれない。当然その時間に比例して澄乃からの圧は増していき、さながらトースターの上に放置し続ける餅のようにその頬は膨れていく。
そして膨張率の限界に達した餅は、弾けた。
「ゴールデンウィーク明け! 英河くんが! 私を傘に入れてくれて! 一緒に帰った日のことーッ!」
一つ一つの事柄を強調するように澄乃は声を張り上げる。言葉を区切る度に人差し指で胸の中心をぐいぐい押されるのだから、こそばゆいやら息苦しいやら。
とにもかくにも、澄乃の言葉でようやく海の底から一つの記憶がサルベージされる。
そう、ゴールデンウィーク明けだ。確かあの日は、傘を忘れた澄乃に偶然にも出くわして、それから一緒に帰って――。
「あ」
そこまで思い出して、ようやく自分が盛大な墓穴を踏んだことに気が付く。同時に眠気が払い除けられたクリアな思考で澄乃を捉えると、彼女はとてもとてもにっこりとした笑みを浮かべていた。
「へー、そっかそっかー、英河くんの家って本当は駅の方なんだー。私とは完っ全に真逆の方向だねぇー」
「い、いや、ちょっと待て白取。実はあの日な、たまたま白取の家の方面に用事があってだな……」
「どんな?」
「え?」
「どんな用事があったの? ちゃんと、詳しく、細かく、教えて?」
「……ま、漫画の新刊を買いに書店に」
「はいダウト。私の家の方に書店って無いんだよねー。それこそ駅の方――英河くんの家の方だったら大きな書店があったと思うけど」
「う……」
生憎と澄乃の自宅周辺の地理には疎い。買い物等の用事は大体駅前で済ませる雄一にしてみれば、足を運ぶ機会なんて滅多にないのだ。
「あー、その、なんというか……」
「英河くん、往生際が悪いのは男らしく――いや、ヒーローらしくないんじゃないかな?」
にっこりと、至近距離からもたらされる笑顔での威圧。もはや雄一に残された選択肢はただ一つ。
「誠に申し訳ありませんでした……っ!」
全力を以ての謝罪である。澄乃との距離が数センチしかない関係上、頭を下げると彼女の額にキスしてしまいそうになるので声に全ての想いを込めた。
どうやらその想いは通じてくれたようで、ようやく表情を和らげた澄乃が身体を離す。
「まあ、実際あの日は送ってくれて本当に助かったわけだから、その点に関してはありがとうございました。でも嘘を言ったことはちょっと許せません」
「はい……」
「許してほしい?」
「できれば……」
「じゃあ、明日からも一緒に勉強するということで。いいよね?」
さすがに「気にしなくていい」とは言えず、首を縦に振るしかない雄一であった。
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