第30話『油断』
「英河くん、小テストの答案見せてもらってもいい?」
対面の席に腰を下ろした澄乃が手を向けてくる。
とにもかくにも、教えるためにはまず生徒の学力がどれほどのものかを把握することから、ということだろう。至極当然の流れであるものの、この期に及んで情けない結果を晒すことには若干の恥ずかしさを感じてしまう。
机に裏返しで置いていた答案用紙を躊躇いがちに差し出すと、それを受け取った澄乃は上から下までざっと目を通して……形の良い眉をハの字に歪めた。
「これは……思ったより……」
「いやっ、ちょっと待って。さっきも言ったけどタイミングが悪くてな……! 普段はもうちょっと……。そうだ、学年末はまだマシだったんぞ!」
こんなところで澄乃からの信頼度を下げたくない雄一は、慌てて制服のポケットからスマホを取り出す。矢継ぎ早に画像アプリを起動させると、スマホの中に保存してある写真から一枚を選んで画面に表示させた。
それは一年時の学年末テストの答案用紙を全て並べて写真に収めたものだ。両親から提示された一人暮らしの条件の一つには、一定の成績を維持するということも盛り込まれている。そのチェックのために両親に送った写真が、よもやこんな形で再び日の目を拝むことになるとは思わなかった。
突き出されたスマホの画面を覗き込んだ澄乃だが、今度は困惑気味に眉をひそめる。
「なんだか……ずいぶん偏りがあるよね……」
澄乃の評価通り、雄一の成績は得意科目と苦手科目がはっきりと別れている。化学や日本史といった暗記科目は90点台の高得点を叩き出していて、逆に数学や英語といった理系科目は平均か、場合によってはそれ以下。総合計した結果、中の上というポジションに落ち着いている形だ。
「ほら、暗記科目って極端な話、覚えさえすれば後はそれを書くだけでいいだろ? その分勉強方法がはっきりしているからやりやすいんだよ」
「ちなみにどんな風に勉強してるの?」
「ひたすら書いて覚える」
「わあ、だいぶパワープレイ」
力技なのは重々承知しているが、雄一にとってはこの方法が一番性に合っているので変えるつもりはない。やり方がはっきりしている分には、コツコツやること自体はそう苦ではないのだ。
「うーん……暗記科目でこれだけ点数出せるんなら、もうちょっと数学も伸びると思うよ? 数学だって暗記科目みたいなところがあるし」
「そういう話は聞くけど、どうにも実感できないんだよなあ……」
「じゃあ、まずはその苦手意識を取り除くことから始めようか。英河くんの苦手なところも何となく分かってきたし」
「え? まだ何にもやってないのに……」
鞄からノートやらペンケースを取り出す澄乃の言葉に、雄一は疑問の声を上げた。
席に着いてからまだ五分も経っていない。やったことと言えば、自分の情けない結果を晒しただけなのに、それだけでこうもあっさり指導方針が決定してしまうものなのだろうか。
「答案を見れば大体ね。特に数学なんかは、途中式がどこまで進んでるとかで理解の範囲も分かりやすいから」
「おお……さっすが……」
思わず感嘆のため息が零れてしまう。
雄一が悪戦苦闘していた状況に早速光を差してくれる辺り、学年首席経験者の力は伊達ではない。
「お願いします、白取先生」
「よーし、私の指導は厳しいですよー?」
薄ピンクのシャーペンを持って準備万端といった体の澄乃に、両手を合わせて礼をする。言葉の割に柔らかい陽だまりのような笑顔を浮かべた彼女の顔は、窓から差し込む夕日で幻想的に彩られていた。
一時間半ほどの時間が過ぎた頃、最終下校時刻も近付いてきたということで勉強会はお開きとなった。
学校を後にし、校門から続く長い坂道を雄一と澄乃は二人で並んで歩く。すっかり暗くなってしまった道すがら、雄一は凝り固まった筋肉を解すように首を回した。
「あー……つっかれた」
そう零した後に、校舎を出る前に買った紙パックのコーヒー牛乳のストローに口を付ける。本日二度目の糖分補給。そこまで甘い物が好きなわけではないが、疲労した脳細胞が新鮮な糖分を求めた結果だ。
「ごめん、ちょっとペース早かったかな?」
横を歩く澄乃も紙パックのフルーツジュースを口にしている。勉強を見てもらった礼として雄一が奢ったものであり、例によって最初は遠慮されたので半ば強引に渡した。
「いや全然。むしろちょうど良いペースだったよ」
澄乃の指導は、まさに完璧の一言に尽きた。
教え方は懇切丁寧、理路整然。雄一が何に躓いているかを即座に見抜き、例題を挙げて解き方を説明。その後に実践を経て知識を定着させる。マンツーマンであることを除いても、正直教師の授業よりも断然分かりやすかった。
曰く、数学においては公式と問題のパターンを覚えることが重要とのこと。それが徹底されているか否かで、テストでの効率が段違いに変わるらしい。実際今日だけでその片鱗を味わったので、彼女の言うことはまず間違いないだろう。
「なら良かった。今日みたいにしっかり教えるのって初めてだから、ちょっと不安だったんだ」
「そうなのか? 家庭教師のアルバイトでも、十分金取れるレベルだと思ったけど」
「ありがとう。そう言ってくれると嬉しいなぁ」
ふぅ、と胸を撫で下ろす澄乃。彼女も彼女でそれなりに緊張していたということらしい。
初めてでこの完成度だとしたら、教えることに慣れた暁にはどれほどのものになるのだろうか。それこそ敏腕教師の名を欲しいままにするに違いない。
雄一の脳内で、ワイシャツとタイトスカート、黒ストッキングに身を包み、多くの生徒の前で堂々と教鞭を取る澄乃の姿が浮かび上がる。なんとなくだが眼鏡も外せない。
(――うわ、すっげぇ似合う)
まさしく美人教師。ちょっと見てみたい衝動に駆られる。
「……英河くん?」
危うく自分の世界に入り込みそうになったところで、不思議そうに首を傾げる澄乃の声が現実に引き戻してくれた。気を取り直すように咳払いをしたところで、疲労が連れてきた眠気が欠伸となって口から漏れ出す。
「ふわぁ……」
「ふふっ。やっぱりちょっとお疲れだね」
「ああ、久しぶりに頭がフル回転した感じだからなぁ……あふ……」
酷使したことからの疲れというよりは、想像以上の効率で知識を付けられたことへの達成感によるところが大きい。それもこれも、澄乃の類まれない指導能力のおかげだ。
「今日は本当にありがとな。おかげで勉強方法も分かってきたし、この分ならテストも何とかなりそうだ」
「どういたしまして。――あ、この際だし、明日からも見てあげようか?」
ふと思い付いたように声を上げた澄乃が、何とも魅力的な案を提示してくる。今日の成果から考えるに雄一にとっては非常にありがたい話なのだが、さすがに頼りすぎるのも悪い気がする。
「大丈夫だって。糸口が掴めただけで大助かりだし、そこまで世話にはならないさ」
「でも……」
「白取だって自分の勉強あるだろ? テスト期間まで足を引っ張る気はない」
「むー……私の好きでやってるんだし、そこまで気にしなくていいのになぁ」
そこはかとなく頬を膨らませた澄乃がじとーっとした視線を向けてくる。さっきはその視線に折れたが、今度はそう簡単に首を縦に振りはしない。
雄一が引き下がらないことを察したのか、澄乃は肩を竦めた。
「分かりました。でも、大変な時はちゃんと言ってね?」
「ああ、了解。――……ふわぁ」
再び雄一の口から大きな欠伸が漏れ、それを目の当たりにした澄乃が口元に手を当ててクスクスと笑う。
「さすがに今日は早く寝た方が良いみたいだね」
「そうだなー……帰ってからもちょっと勉強しようと思ってたけど、あんま根詰めてもアレだし、飯食ったらさっさと寝るかな」
澄乃のおかげでテスト勉強も捗ったことだし、早めに休んで英気を養った方が良いだろう。歩いていれば覚めてくるだろうと思っていた眠気も、逆に少しずつその勢力を拡大しているような気がする。
校門から続く長い下り坂も終わり、分かれ道である大通りへと差し掛かった。雄一は駅方面の左、そして澄乃は逆方面の右へ進むので、ここでお別れだ。
「じゃあな白取、俺こっちだから、また明日」
何事も挨拶も大事。眠気で若干頭が回らないが、別れの挨拶だけはきっちりと済ませる。
そうして帰路に就こうとした雄一を。
「――――え?」
澄乃の極寒の声が引き止めた。
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