第29話『救いの手』
「これは……マズいな……」
雄一は今、窮地に立たされていた。まさに限界ギリギリの崖っぷち、あと少し後ずさろうものなら奈落の底へ真っ逆さま。
自分をそんな極限状態に陥れる“敵”を横目で睨み付ける雄一だが、いくら睨んでも現実は一向に変わらないので諦めたようにため息をつく。脱力しそうになる身体を頬杖で踏み止まらせつつ、もう一度深くため息。心に溜まった負のオーラをできるだけ体外に逃がした後に、意を決して“敵”を真正面から捉えた。
席替えで勝ち得た新たな席の上に置かれているのは“敵”改め、数学の小テスト。
――もっと正確に表現するならば、頭に『非常にデキの悪い』という修飾語が付け足される。
点数は……もはや考えまい。一度目にした時点で心が折れかけたので、心の代わりに答案用紙の右上の部分を折って点数は見えないように加工した。わざわざそんなものを見なくても、答案用紙のあちこちで存在感を主張している×印がデキの悪さを如実に教えてくれる。
改めて現実を再確認した雄一は、何度目になるかも分からないため息をついた。
六限目の数学の時間。この間実施された小テストが返却されたわけなのだが、ご覧の通り結果は
元々雄一は普段の勉学にはそこまで力を入れておらず、定期テスト前に本腰を入れて勉強するタイプだ。定期テスト自体はそれで中の上程度の成績を維持しているが、逆にこういった抜き打ちで行われるものには割かし弱い。それでも普段ならここまでひどい結果にはならないのだが、『特撮連』でのヒーローショーの練習で最近の勉強が疎かになっていたこともあり、今回の小テストでその隙を突かれる形となったわけである。
ちなみに数学は苦手科目なので尚更だ。
ついさっき自らが口にした通り、このままではかなりマズい。
ぼちぼち夏休み前の定期テストを迎えるのだ。そこでの成績如何では、高校生の華の夏休みに補習という面白味もへったくれもない予定がねじ込まれてしまう。やはり夏休みは存分に夏を謳歌したいし、それこそ『特撮連』での活動にも支障をきたしかねない。
定期テスト前までに、最低限赤点を取らないレベルには学力を向上させなければならない。
(そうだ、どうせなら白取に教えてもらって……)
ちょうど今、教師に呼ばれてテストを受け取るために立ち上がった澄乃に目を向ける。点数の是非はまだ明らかではないが、まず間違いなく高得点を獲得しているはずだ。一人でやるより、実力のある者に指導してもらった方が効率的だろう。
(――いや、ダメだな)
頭に思い浮かんだ選択を消し去るように、雄一はかぶりを振った。
席替えの時に澄乃が口にした言葉が蘇る。そう、最初から他人の力をアテにするようではダメだ。あくまで冗談めかした物言いではあったが、言葉自体は真理をついている。
そもそも今の雄一は、俗に言う“何が分からないのか分からない”状態に片足を突っ込んでいる。そんな体たらくで教えを請いても澄乃だって困るだろうし、まずは自分の問題点を洗い出すことから始めないと話にならない。
第一、澄乃も澄乃で自分の勉強があるはずだ。それも自分とは比べ物にはならない、学年首席の座を勝ち取るぐらいのレベルの高いものが、だ。
そう思うと、彼女の手を煩わせるのも気が引ける。あとこの惨状を晒すのも若干恥ずかしい。
とにもかくにも、自分でやれる範囲から始めていこう。
そう心に決めた雄一は、頭の中のスケジュール帳に『放課後、図書室で勉強』という予定を書き記した。
「捗んねえ……」
放課後。人もまばらにしかいない図書室の一角で、雄一は情けない呟きを漏らす。周りと距離が離れているのを良いことに、手際の悪い自分を戒めるように机に頭を軽く打ち付けてみるが、鈍い音と痛みが返ってくるだけで思考は冴えてくれない。カンフル剤としての効果は期待できないようだ。
小テストの見直しもほどほどに、図書室に置いてある参考書から似たような問題を抜粋して解いてみようと試みたのだが、正答率はあまり芳しくない。というか答えを見てみると似ているだけで微妙に解き方が異なっているので、そもそも問題の選択自体を間違えたか。
「もうちょい分かりやすい参考書ないかなあ……」
広げた参考書を力無く閉じると、立ち上がって大きく伸びをする。凝り固まった肩を解しながら先ほども訪れたコーナーに立ち寄って、持ち出した参考書を本棚の定位置に差し込んだ。
正直自分の理解力の問題であることは承知しているのだが、物理的に状況を変えなければずぶずぶと泥沼に嵌まっていくだけの気がしてならない。ついでに自販機でコーヒーでも買って、カフェインの覚醒作用に頼ることにしよう。
図書室は飲食禁止なので貴重品だけを持ってその場を後にすると、購買の地下にある自販機コーナーまで足を運ぶ。色々なメーカーの自販機がずらりと立ち並ぶ中、なんとなく惹かれた缶コーヒーを選んで購入、プルタブを開けて早速口を付ける。
口の中にじんわりと広がる甘さは想像以上で、印象としてはコーヒー牛乳に近い。
商品名、マキシマムコーヒー。自販機に貼り付いた小さなポップには『レベル
どうせならあと1レベルぐらい足せばいいものをと思ってしまうが、そうすると色々と面倒なのだろう。ネットとかでよくある『99%の人が効果を実感!』という広告が、決して100%と言い切れないのと似たような理屈に違いない。
とにもかくにも、勉強で疲弊した脳にはありがたい糖分だ。味わうのもそこそこに中身飲み干し、今一度やる気を捻りだして図書室へと舞い戻る。
本棚の高い位置にある参考書に必死に手を伸ばしている後ろ姿――顔を見ずとも澄乃であることは一目瞭然だ。
「ちょっと失礼」
一度断りを入れて澄乃の背後から手を伸ばし、彼女が取ろうとしていたであろう英語の参考書を引き抜いて「ほい」と差し出す。突然の介入にビクリと肩を震わせた澄乃だが、相手が雄一だと分かると一転して嬉しそうな笑みを浮かべた。
「ありがと、英河くん。やっぱり背が高いとこういう時頼もしいね」
両手で丁寧に参考書を受け取った澄乃は、はにかみながら雄一の顔を見上げた。
澄乃の身長は平均程度だが、逆に雄一の方は平均よりも割と高い部類に入るので、こうして近くで向かい合うとその差が如実に現れる。角度的に澄乃が上目遣い気味になるので、図らずも美少女+上目遣い+笑顔というクリティカルコンボが雄一に襲いかかった。
完全にノックアウトされる前にさり気なく距離を取って、新たな参考書を選ぶために反対側の本棚へと目を向ける。近くで見れば見るほど、澄乃の容姿は破壊力抜群だ。
「どういたしまして。白取は英語の勉強か?」
「うん。定期テストも近いし復習がてらね。英河くんは?」
「まあ……俺も似たようなもんだ」
点数の悪さが露呈するのを恐れてか、少し口ごもり気味の返事になってしまう。
「そっか。……ひょっとして今日返ってきた小テスト、あんまり良くなかった?」
一冊の参考書に手を伸ばそうとしていた雄一の動きが、澄乃の指摘によってビタリと止まった。
「……何で分かった?」
「え? だって今、数学の参考書選んでるみたいだから」
細い指先が雄一の伸ばした手と、その延長線上に位置するものに向けられる。説明されてみれば、至極単純な理由である。
「それにテストが返ってきた時の英河くん、結構難しい顔してたしね。こんな感じで」
むむむ、と眉を寄せて当時の再現を試みる澄乃だが、生憎と顔真似の完成度は低い。だって、自分の思案顔はそんな風に可愛くならないのだから。
何気に観察されていたことに気恥ずかしさを覚えつつ、見破られた以上は仕方がないので正直に打ち明ける。
「お察しの通り、かなり点数が悪くてな。さすがに定期テスト前にこれはやばいと思って、勉強してるところだよ」
「そうなんだ。英河くんってそんな悪い風には見えないけど……」
「まあ、今回はちょっとタイミングがなあ……。いや、まあ、ただの言い訳だけども」
本棚から参考書を抜き取った後に肩を落とす。この一冊が突破口になってくれることを祈るばかりだが、正直未来はあまり明るくない。
「私で良ければ、勉強教えようか?」
そんな雄一に、二つ返事で飛び付きたくなるような救いの手が差し伸べられた。
「え? ……いや、いいって。正直教えてもらう以前の状態だし、白取だって英語の勉強するつもりなんだろ?」
「それは大丈夫。特別英語がやりたいわけじゃないし、人に教えるっていうのも良い勉強になるから」
「でも、なあ……」
「でもも何もありません。それとも……私じゃ不満?」
「いや、そんなことは……!」
むしろ諸手を挙げてお願いしたいぐらいの提案だ。ただ、どうしても澄乃の邪魔になるかもしれないという遠慮で二の足を踏んでしまう。しかしながら、下から覗き込むようにじとーっとした視線を受けてしまうと、そんな想いも脆く崩れ去っていく。
「じゃあ……すいませんけどお願いします、白取先生」
「はい、お願いされましたっ」
先生と呼ばれたことが嬉しかったのか、澄乃は胸を張って、両手を合わせた雄一を満面の笑みで迎え入れた。
教えてもらう側としてはやる気十分なのはありがたいのだが……できればその体勢は謹んでもらいたい。
衣替えで夏服になったのも相まって――澄乃のとある“魅力”が強調される形になってしまうから。
頭を下げる振りをして、鋼の意志でそこから目を逸らす雄一であった。
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