第26話『たった四文字の言葉』

 思いもよらなかった、真っ向からの否定。呆気に取られて、自分の口から「え……」と漏れるのがどこか他人事のように感じてしまう。


「俺は白取の“今”しか知らないけどさ、でも少なくとも、卑怯な人間だなんてこれっぽちも思えない」


 そう告げる雄一の瞳には一片の曇りも無い。その真摯な眼差しに思わず気圧されそうになるが、澄乃も自分の考えを譲る気はなかった。


「でも、それってやっぱり……“昔”の私を知らないから、そう思っただけでしょ? もし知ったら――」


 そう、彼は知らないだけだ。澄乃が過去に口走った言葉、つけた傷跡のことを。


 それでも、雄一は引き下がらなかった。


「確かに知らない。けど、だからって“今”の白取が偽物ってわけでもないだろ?」


 どこまでも真剣で真正直な瞳が澄乃を射抜く。心の奥底まで見透かしてくるようなその視線から目を背けたいはずなのに、けれど身体はちっとも動いてくれない。


 どうしてと、そんな自己矛盾だけが澄乃の内で渦巻く。


 知られたくないはずなのに。知られて軽蔑されるのが怖いから、隠し通したいはずなのに。それなのにどうして、まるでもっと見てほしいと言わんばかりに、自分は彼の瞳を見つめ返している?


 ――いや、それ以前に。


 答えの出ない疑問にそれでも答えを見つけ出そうとしている中で、澄乃は今さらになって気付いた。


(どうして私は、こんな話をしているの……?)


 引っ越してきてから今まで誰にも話したことはなかった。一人暮らしの理由を聞かれたことは何度かあったが、親の仕事の都合とか適当な理由で誤魔化してきた。


 今だってそう。澄乃が自分の過去の一端を打ち明けなければ、こんなことになっていないのに。


 ……もしかして、どこかで自分は求めているのだろうか?


 手を差し伸べてくれることを。


 他でもない、ヒーローが救い出してくれることを――。


「第一その親子喧嘩にしたって、本当に白取だけの原因なのか?」


「え……?」


「あまり言いたくないだろうから、深くは突っ込まないけどさ……白取にだって、何かしら言い分はあるんじゃないのか?」


「……それ、は……」


 続く雄一の言葉に、澄乃は言い淀んだ。彼の指摘は正しかったから。


 自分が親に突き立てた言葉のナイフ。どうしてあんなことを、と何度も思ってきたけれど、それは抑えの利かなかった行動自体を悔いるものであって、理由が分からないわけではなかった。


 ――理由は、あったのだ。


 でもそんなのはただの言い訳。例えどんな理由があろうと、自分の行いを正当化する要因にはなりえない。だからそんな言い訳なんて、それこそ絶対に口にしようとは思わなかったのに。


 ……なのに、どうしてこの人は、そんなことまで気付いてくれるんだろう……。


「でも……理由がどうであれ、やっぱり私は卑怯者だよ。大事なことから逃げてきたのに、変わりはないんだから……」


 少しでも気を抜いたら涙が零れてきそうで、澄乃は必死に自分を正当化“させない”ために言葉を紡いだ。長い間続けてきた自己否定の賜物か、気持ちとは裏腹に口は回ってくれる。


 それでも三度みたび――いや何度でも、雄一はそのことごとくを乗り越えてきた。 


「それじゃダメだって、何とかしなきゃって思ってるんだろ? だったらまずは……それでいいんじゃないか?」


 ――ほわりと、澄乃の心で小さな火が揺らめき始める。


 否定だらけの凍え切った世界に芽生える、“肯定”という名の灯火ともしび


 まだほんの小さな、少し風が吹けば掻き消えてしまいそうな頼りないものだけど。


「卑怯だとか、私なんかとか、そんな風に自分を卑下することばかり言うなよ。少なくとも俺は――白取のこと好きだからさ」


 最後のその一言が、澄乃の心に確かな火を灯した。


「俺にとっての白取は、優しくて、思い遣りがあって、義理堅くて、そんでちょっと頑固で。でもそういうところが尊敬できるし、魅力的だとも思う」


 雄一の言葉がくべられるたびに、少しずつその火は大きくなって、澄乃の心を溶かしていく。


 今の自分を認めることは、ずっと間違いだと思っていた。


 親との間に決定的な溝ができてしまったあの日から何度もやり直そうとしたけど、いつまでも状況は好転しない。一歩も進まない。なら結局、何もしていないのと同じだ。


 想いなんて関係ない。結果が伴わなければ意味が無い。結果を出せなかった自分はきっと誰も認めてくれないし、何より自分自身が認めてはいけないと思っていた。


 でも、目の前の彼は認めてくれた。


 ――好きだと、言ってくれた。


 瞬間、澄乃の心臓がドクンと大きく跳ねた。


“好き”という言葉が頭の中でぐるぐると渦巻き、なぜかそれしか考えられない。まるで自分の辞書にはその言葉しか載っていないような気分だ。


 今まで陥ったことのない精神状態に思考が麻痺して、逆に心臓はうるさいぐらいに脈打つ。


「だからさ、もう少しくらい自分に自信を持って――」


 笑いながら雄一が振り返る。近距離まで迫ってきたその笑顔から目が離せない。それどころか少しでも焼き付けようとしたのか、目の周りの筋肉だけが勝手に視界を広げていく。


 雄一の表情をより鮮明に捉えると、それだけで頬が熱を持ってきた。心に灯った火は、もはや心どころか身体にまで飛び火してきたみたいで、頬だけでなく全身が熱く昂っていく。


 その内雄一にも飛び火したようで、彼の顔も自分と同じように赤く染まり出した。


「い、いやっ! あれだぞ!? 好きって言っても告白とかじゃなくて、なんていうか……人として、そう、あくまで人として好きだって意味だからな!」


「う、うん……! そこは、あの勘違いしてないから……だいじょぶっ」


 そうだ、勘違いをしてはいけない。雄一が自分のためを想って伝えてくれた言葉に、変な考えを持ってしまっては失礼極まりない。


「お、おう、そうか、なら良いんだけど……。あ、でも……あれだぞ、別に異性として魅力が無いってわけでも――」


「わ、分かった、分かったから、ちょっと前向いてて! なんか今……変な顔してるから見られたくない……!」


「あ、はい、すんません!」


 何やら余計な追い打ちになりそうな言葉を遮って、澄乃は強引に雄一に前を向くように促す。素直に受け入れてくれたおかげで雄一に自分の変な顔が見られることはなくなったが、そもそも外に晒すこと自体に相当の恥ずかしさを感じてしまい、咄嗟に隠れ蓑になりそうな雄一の首元に顔をうずめた。


 鼻先を押し付けたことで香ってくる男の人の匂い。汗の混じったその匂いは不思議と嫌でなく、むしろ落ち着くようで、早鐘を打っていた澄乃の心臓が少しだけ平静を取り戻す。


 しかし、自分が異性の匂いにある種の癒しを感じていることに気付いた途端、またもや心臓がそれまで以上のエネルギーで暴れ回る。


 ――何で、何でこんなに焦っているんだろう……!?


 決して自慢するわけじゃないけれど、告白された経験は両手の指では数え切れないぐらいにある。当然“好き”という言葉をぶつけられた回数も同様だ。正直慣れてきたと言っても過言ではない。


 じゃあ、この焦りは何だろう?


 この昂りは何だろう……?


 この今すぐなんか叫んでそこら辺に転げ回りたくなるようなむずかゆさは一体何なんだろう……!?


 答えは、なかなか、どうして、出てくれない。


 そうこうしている内に、先に冷静さを取り戻したらしい雄一が訥々とつとつと語り出していた。


「とにかく、俺が言いたいことはさ……過去に失敗があったからって、今の自分まで否定しなくていいんじゃないかって、そういうことだよ」


 言葉通り、きっとそれこそが雄一の一番伝えたいことなんだろう。


 いつまでも嘆くんじゃなく、今の自分を認めて、少しずつ前に進むこと。


 自分に一番足りないものは、たぶんそれだから。 


「もし難しいこととかがあるんなら、俺でよければいくらでも頼ってくれ。そういう時に助けになれるような、そんな人間を目指してるんだからさ」


「……英河、くん」


「ん?」


 振り向かなくても、しっかり返事をしてくれる雄一。


 その温かい声が、その大きな背中が頼もしくて、澄乃は一つの期待を抱いてしまう。


 今ここで救いを求めれば、彼はきっと助けてくれる。


 澄乃が抱えている過去を全て打ち明けても、その上で優しく手を差し伸べてくれる。


 だったら……頼ってもいいのだろうか。


 そう思って伸ばした手を、救いを求めるたった四文字の言葉を――


「――――」


 澄乃は瀬戸際で飲み込んだ。


 ……たぶん、これ以上はきっとダメだ。この一線だけは踏み越えちゃいけない。ここから先はヒーローを頼っちゃいけない。


 だって私は、全ての始まりのあの日。


 




 一番大事なヒーローを、傷付けたのだから。






 だから、これは自分で解決しなきゃいけない問題。


 頼っていいと言ってくれた雄一に対して、これは不義理かもしれない。


 けれど、これは自分なりのケジメだ。譲るわけにはいかない。


 それにもう十分、雄一には助けてもらった。


 諦めかけていた心に再起の火を宿してくれた。前を向けるように道を示してくれた。本当の意味で、心の底から笑えるようになるその日に向けて、もう一度歩き出すための勇気をくれた。


 だから、今はこの言葉を贈ろう。


 救いを求めるものでなく、感謝を伝えるたった四文字の言葉。


「ありがと」 


 そう告げた澄乃の瞳に、柔らかな陽の光が差し込んだ。

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