第25話『白取澄乃』
私なんか。
それは転校してからこの半年の間、澄乃が何度も思ったことだ。
転校の理由は去年の春、親に対して口にした心無い言葉に起因する。本当に最低な、自分と親との関係を決定的に分かつことになった言葉。どうしてあんなことを口走ってしまったのか、未だに後悔の念に苛まれる。
それから親との関係は冷え切ってしまった。同じ家に住んでいるのにほとんど顔を合わせることはない。時折すれ違うことはあっても言葉を交わすこともなく、空気同然に扱われるだけ。唯一保つことのできた繋がりなんて、毎月の初めにテーブルの上に置かれた澄乃用の生活費が入った封筒ぐらいのものだろう。高校生に与える金額としては十分以上のものだったけれど、そのことに心が満たされることは一度も無かった。
最初の頃は以前の関係に戻ろうと必死だった。何度も謝ろうと試みたけれど、自分を見放した親が取り合ってくれるわけもなく、もはや予定調和のような毎日が過ぎていく。
それでも、と無理にでも詰め掛けようとした日もあった。結局その日も目を合わせることすらなかったが、一度だけ鏡越しに親の瞳を捉えた時があった。
――何の
その時、澄乃は悟った。
ああ……もうとっくに自分たちは終わっているんだ、と。
その日を境に、澄乃も親と同じように振舞うことにした。言葉も交わさず、目も合わせず、お互いの生活時間を意図的にズラして可能な限り関りを持たないように努める。
その内に慣れるだろうと思っていたけれど、何ヶ月経っても冷め切った生活に澄乃の心は慣れることもなく、季節が秋に移ろい始めた頃にとうとう一人暮らしを切り出した。もちろん言葉で取り合ってくれることはないから、親が出掛けている間にその旨を記した書き置きをテーブルの上に残して、澄乃は自室で眠りについた。
一夜明けた翌朝、登校する前にテーブルを覗いてみると「好きにしなさい」という一言だけが添えられていた。
思わず笑ってしまった。愛娘の一人暮らしをこんなあっさり認めてしまうなんて。いや、もうとっくに愛されていないただの他人なんだから、それも当たり前か。
一人暮らしに向けての準備が始まった。転校の手続き、引っ越し先の物件の手配、その他諸々。親が手伝ってくれたのもあって話はとんとん拍子に進んだ。一人暮らしにかかる費用も負担してくれるらしいので、澄乃としても存外楽だった。
もちろん、それは澄乃を想っての行動ではなく、親にとってもそれが一番都合が良いからだということは分かっていた。金銭さえ与えていればとりあえずの生活は可能だし、親として最低限の義務を果たすことができたのだろうから。
十二月を皮切りに澄乃の一人暮らしはスタートを迎えた。
転校先でうまくやっていけるかの不安はあったが、予想に反してクラスの皆は自分を受け入れ、快く輪の中に入れてくれた。親から与えられた容姿がきっかけの大部分だというのは薄々理解していたが、澄乃も受け入れてくれた皆のためにより良い人間であろうと努力を重ねた。
それは勉学然り、人付き合い然り、とにかく人に好かれるような自分になりたいと。
その甲斐あってか、気付いた頃には学校の人気者というポジションに落ち着いていた。
春から続いた暮らしとは打って変わって、たくさんの人に囲まれた温かい生活。幸せで、安心できて、満たされて――だからこそ、いつしか澄乃の心の奥底に疑念が芽生えた。
逃げて来ただけの自分に、こんな幸福が許されるのかと。
その問いに対する答えは“否”だ。
許されるわけがない。
いつまでも振り向いてくれない親に苛立ちを覚えたことこそあれど、それもこれも原因は自分の口にした言葉にある。決して癒えない傷跡だけ残して、自分だけのこのことそこから逃げ出してきたのだ。そんな卑怯者が幸せになっていいはずがない。
だから澄乃は、濃い人間関係というものを作る気になれなかった。他人と仲良くしつつも一定の距離を保って、それ以上は踏み込ませないようにする。
恋人なんてもっての外。転校してから何度も告白されたが、その全てを丁重にお断りさせてもらった。単純に好きになれなかったという理由もあるけど、それ以上に自分は好意を寄せてもらえるような人間だと思えなかったのだ。
それとも……怖かっただけなのかもしれない。いつか隠していた真実に触れられて、軽蔑されることが。
そこまで自分がダメだと思っているのなら、いっそ全ての他人と距離を取ってしまえばいいと考えたこともあった。
でも、無理だった。
やっぱり一人が寂しいと思う時もあって、しばらく得ることのできなかった人の温もりに飢えていた澄乃は、どうしてもそれを手放す決心がつけられなかった。
当然だ。傷跡から目を背けるような弱い人間に、そんな孤高の強さが身に付くわけもない。
結局自分の心を保つために、のらりくらりと都合の良い距離感を維持するだけ。そんな浅ましい自分が、より一層卑怯だと思った。
そう、白取澄乃という人間は――ただの卑怯者なのだ。
卑怯で、弱くて、浅ましくて、上辺だけ立派に振舞ってるだけの醜い人間。
そう思っていた。それが自分という人間の本性なのだと、結論付けていた。
だから――
「思うかよ、そんな風に」
澄乃にとって“彼”のその言葉には、どこか福音のような響きが感じられた。
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