第24話『否定』
「逃げてきたって……どういうことだ?」
澄乃が口にした言葉の意味が分からず、雄一は恐る恐る聞き返す。
「どうもこうもそのままの意味だよ? 私が一人暮らしを始めたのは……実家から逃げてきたからなの」
何てことのないように澄乃は答える。背負った彼女の表情は満足に窺(うかが)えないが、少し笑みを浮かべているようにすら見えた。時折浮かぶ自嘲気味な笑みではあるものの、話の内容そのものは、およそ笑って話すことのできるものではないはずなのに。
「家出してきたってことか?」
「……少し違うかな。親には一応了承を貰ってる形だから。去年の春ぐらいに、ちょっとケンカしちゃって……それからずっと……家庭内別居? みたいな感じ。その内その空気に耐え切れなくなって……思わず飛び出してきたの」
「思わずって……親から何か言われなかったのか?」
いくら仲が険悪になったからと言って、おいそれと自分の娘の一人暮らしを許してくれるとは思えない。
けれど雄一の考えとは裏腹に、澄乃は緩く首を横に振った。
「特に何も。出ていく時には何も言われなかったし、引っ越してからこっち、特に連絡も無し。ただ家賃とか生活費はちゃんと振り込んでくれてる。たぶん向こうにとっても……今の方が都合が良いんだろうね」
自分がいなくて清々してるはず――言外にそう含ませた言葉を、澄乃は寂しげな笑みと共に吐き出した。
「ケンカの原因もね、私がただ……すごく、酷いことを言っちゃったからなんだ……。怒られて当たり前の……本当に、最低なこと。だから仲が悪くなったのは私のせいで……それなのに、そういうの全部放り出してきた」
心の奥底に溜まった暗闇を少しずつ曝け出していくような悲痛の告白。心臓に凍った杭を打ち込まれるような、そんな息苦しさが雄一を襲う。
澄乃の自己否定の理由を、雄一は遅まきながら理解した。
それもこれも全て、自らの責務から逃げ出したという負い目から来るものだったのだろう。
「私は英河くんと違って……辛いこととか、苦しいこととか……そういうのに立ち向かわないで、逃げてきただけなの。自分がやったことの責任も取らないで投げ出すような卑怯な人間。それが……私」
まるでそれが真理であるかのように、彼女ははっきりと――白取澄乃は卑怯な人間だと断じた。
いつしか歩みを止めてしまった雄一に、澄乃は「ね?」と同意を求めてくる。
思わず首だけ振り返った先にあったのは、自嘲や寂寥――様々な負の感情を詰め込んだ、少し触れただけで壊れそうな儚い笑顔。こちらを覗き込んでくる光が消えかかったような瞳には、図らずも頷いてしまうような圧力があって。
その視線に晒された雄一は――
「思うかよ、そんな風に」
それでも真っ向からその同調を切り捨てた。
雄一の否定に澄乃が「え……?」と目を瞬かせる。呆気に取られて言葉を失っている彼女に構わず、雄一は自分の考えを告げることにした。
「俺は白取の“今”しか知らないけどさ、でも少なくとも、卑怯な人間だなんてこれっぽちも思えない」
交流を始めて、まだ一ヶ月半程度の短い期間。けれど今まで雄一が接してきた白取澄乃という少女は、卑怯だなんて後ろ指を指されることはなく、むしろ珍しいぐらいに誠実で優しい人間だと思っている。
ロクに会話をしたことのないクラスメイトの苗字を、一文字間違えたぐらいで大慌てで。
自分が助けられたら、その恩を返そうと重い荷物に手を出して。
こっちから相合傘を持ちかけたのに、思わずツッコみたくなるくらいに畏まって。
柱の陰で震えていた迷子の子供を、誰よりもいち早く見つけてあげて。
そんな人間の――どこが卑怯だと言うのだろうか。馬鹿馬鹿しいにも程がある。
「でも、それってやっぱり……“昔”の私を知らないから、そう思うだけでしょ? もし知ったら――」
「確かに知らない。けど、だからって“今”の白取が偽物ってわけでもないだろ?」
澄乃が過去に、本人で言うところの最低なことをしでかしたのは理解した。それを未だに悔いて、自分を許せないであろうことも理解した。
けど、それはあくまで澄乃の一部であって全てじゃない。一つや二つ悪い部分があるからと言って、それに連なる全部が悪いだなんて言い過ぎだ。
「第一その親子喧嘩にしたって、本当に白取だけの原因なのか?」
「え……?」
「あまり言いたくないだろうから、深くは突っ込まないけどさ……白取にだって、何かしら言い分はあるんじゃないのか?」
「……それ、は……」
言い淀む澄乃を見て、雄一は心の中で「やっぱり」とため息をついた。
澄乃は全て自分の責任であるかのように振舞うけれど、雄一にはとてもそうは思えない。前に言われた言葉を借りるのなら、澄乃は何の理由も無しにそんなことをする人間だとは考えられないのだ。
一人暮らしを続けているのだって一つの証拠だ。
同じ高校生の一人暮らしの身である雄一にはよく分かる。お互い金銭面ではある程度余裕があるだろうけど、それでも身の回りのことを全て自分でこなさなければならないのは、言葉にする以上に大変だ。しかも澄乃の場合、その上で学年主席という成績も維持している。それは持って生まれた才能だけでなく、私生活の中で確かな努力を積み重ねたからこそ得られる結果だ。
そして転校した時期から考えれば、澄乃は少なくとも半年以上その生活を続けている。とても“逃げ”という後ろ向きな理由だけで続けられるものではないはずだ。きっとそこには、澄乃が口にした以外の何かしらの理由があって、だからこそ余計に一筋縄でいかない問題になっているのだと思う。
「でも……理由がどうであれ、やっぱり私は卑怯者だよ。大事なことから逃げてきたのに、変わりはないんだから……」
「それじゃダメだって、何とかしなきゃって思ってるんだろ? だったらまずは……それでいいんじゃないか?」
一番ダメなのは、そこで立ち止まってしまうことだと思うから。諦めて、もうここまでだと見切りをつけて、そこから先の道に目を背けてしまうこと。
でも澄乃は違う。今ももがいている。一度は逃げてしまった問題に、もう一度立ち向かおうとしている。そうでなかったらこんな風に思い詰めたりなんかしない。
自己否定の原因には、今の自分への不甲斐なさもあるのだろう。変えたいと思っているのに、なかなか変えることのできない自分に嫌気がさす。閉塞された状況に苛立ちが募って、その矛先を自分に向けてしまう、そんな負の連鎖。
けれど人生なんて、きっと上手くいかないことが山ほどある。まだ十数年しか生きていない自分が語るのはおこがましいと思うが、壁にぶつかる度に負の連鎖に陥っていては、踏み出せるものをも踏み出せなくなってしまう。
だから澄乃には少しずつでも自分を認めてあげて欲しいと、雄一は思う。
……甘ったれた考えだろうか。でもそうでもないと、背中に力無く寄り掛かったこの少女は、いつまでも自分を傷付けてしまう気がするから。
「卑怯だとか、私なんかとか、そんな風に自分を卑下することばかり言うなよ。少なくとも俺は――白取のこと好きだからさ」
気付けばそんな言葉が、雄一の口をついて出ていた。
「俺にとっての白取は、優しくて、思い遣りがあって、義理堅くて、そんでちょっと頑固で。でもそういうところが尊敬できるし、魅力的だとも思う」
そしてそう思うのは自分だけじゃないはずだ。じゃなきゃ日頃から人に囲まれるような人気者にならないし、二桁に上る人数から告白されたりもしない。
もちろん中には単純に外見に惹かれた者もいるだろうけど、全員が全員そうではないはずだ。それこそ竜宮なんか良い例だろう。彼が澄乃のことを好きだと語った時の眼差しは、到底上辺だけを見ているようには思えなかった。
「だからさ、もう少しくらい自分に自信を持って――」
澄乃を安心させたくて笑いながら話を続けようとすると、肩越しにこちらを見つめてくる彼女と目が合う。いや、これは見つめるというより、固まってしまって目が離せないと言った方が正しいか。
これでもかと大きく目を見開いた澄乃は、時間が経つにつれて白い頬を朱に染めていき、固まっていた視線も右往左往と忙しなく動き出す。
そんな澄乃の様子から、今さらになって告白紛いの行為をしていたことに気付いた雄一もまた顔を赤くして慌て出した。
「い、いやっ! あれだぞ!? 好きって言っても告白とかじゃなくて、なんていうか……人として、そう、あくまで人として好きだって意味だからな!」
「う、うん……! そこは、あの、勘違いしてないから……だいじょぶっ」
「お、おう、そうか、なら良いんだけど……。あ、でも……あれだぞ、別に異性として魅力が無いってわけでも――」
「わ、分かった、分かったから、ちょっと前向いてて! なんか今……変な顔してるから見られたくない……!」
「あ、はい、すんません!」
懇願する澄乃に従い、雄一は即座に前に向き直る。澄乃が羞恥を隠そうと雄一の首元に顔をうずめてくると、それに伴って二つの大きく柔らかな感触も背中により押し当てられる形になり、胸の奥から変な声が上がりそうになった。
少しでもそれから意識を逸らそうと再び歩き始めた雄一は、言われた通り澄乃の方には顔を向けないまま、どこか言い訳がましく口を開く。
「とにかく、俺が言いたいことはさ……過去に失敗があったからって、今の自分まで否定しなくていいんじゃないかって、そういうことだよ」
責任感の強い澄乃には酷な話かもしれない。でもそうでなきゃ始まらないとも思うから、雄一はゆっくりと澄乃に語り掛ける。
「もし難しいこととかがあるんなら、俺でよければいくらでも頼ってくれ。そういう時に助けになれるような、そんな人間を目指してるんだからさ」
「……英河、くん」
「ん?」
名前を呼ばれた。言い付けを守って前を向いたまま返事をすると、澄乃が何か言おうとしているのを気配で感じ取る。
「――――」
囁きにすらもならない、か細い音色。訊き返そうとして反射的に後ろに振り返ると、藍色の瞳を少し潤ませた澄乃の顔がそこにあった。まるで宝石のように光で揺れる瞳に意識を奪われそうになるのも束の間、澄乃の口が緩やかに弧を描く。
「ありがと」
完全に負の色が抜け落ちたわけではないけれど、先ほどよりも柔らかくなった笑みで澄乃は感謝を告げた。
まだ小さな一歩。でもその一歩を積み重ねれば、いつかは必ず辿り着ける。
少しだけ前に踏み出した澄乃を称えるように、雄一は「どういたしまして」と笑いかけた。
気付けば森を抜け、二人は日の当たる道に辿り着いていた。
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