第20話『トラブル発生』
「あれ、白取さんは?」
オリエンテーション本部。生徒用に配られたスポーツドリンクは飲み干してしまったので、途中の自販機で買ったミネラルウォーターで雄一が喉を潤わせていると、用具の入ったカゴを片手にそこを訪れた紗菜が急にそんなことを言ってきた。
本部といっても公園内の屋根があるスぺースに数人の教員が待機しているだけの簡素なものだが、そこにはもしもの時のために救護担当の教員も待機している。竜宮を送り届けた後、少し遅れてやってきた紗菜の言葉に雄一は眉をひそめた。
「こっちには来てないけど、一緒じゃなかったのか?」
竜宮を送り届けるにあたって自分が不在になってしまうので、その後釜を紗菜にお願いしたはずだ。てっきり一緒に戻ってくるものだと思っていたのだが。
「記録用紙を早く先生たちに提出しなきゃーって言って先に行ったんだよ。もう来てるもんだと思ってたけど」
「おっかしいな……見逃すはずはないし」
本部は比較的見晴らしの良い場所に陣取っている。誰かが来れば遠目でも分かるはずだし、澄乃みたいな目立つ存在なら尚更だ。竜宮に肩を貸していたからここに来るまでに時間はかかったが、それにしたって澄乃が先に来ていたとも考えにくい。念のため教員たちに確認を取ってみるが、誰も澄乃の姿を見た者はいなかった。
「どこかで道にも迷ってんのかな」
思い付く可能性を口にしながら、雄一は竜宮から返却されたタオルを首にかけ直すと、ジャージのポケットに入れていたタイムスケジュール表を取り出す。今は大詰めのクラス選抜リレーの準備を行っている頃合いだ。幸い、選手としても係としても雄一の出番はもうないので、いなくなっても問題はないだろう。
「悪い、ちょっと探してくるわ。閉会式前には戻るから、もし誰かに訊かれたらそう言っといてくれ」
紗菜にそう言い残すと、ジャージのポケットにミネラルウォーターのペットボトルとスケジュール表を押し込んだ雄一は先程来た道を引き返し始めた。
山の中の公園内は高低差がそれなりにあり、場所によっては木々が生い茂っていて方向が掴みづらい。もし少し道を外れてしまえば意外と迷ってしまいそうになるから、澄乃もそういった事態に見舞われているのではないだろうか。
注意深く周囲を見回しながら進んでいく雄一だが、気付いた頃には障害物競走の開催地点に辿り着いていた。
(入れ違いにでもなったか?)
こういう時スマホでもあれば連絡が取りやすいのだが、生憎と本部に置いてある手荷物の中だ。澄乃もそのはずなので、今は足で探すしか方法がない。
引き返してもう一度同じ道を歩いていると、ひゅうっと強い風が吹く。強風に思わず顔をしかめていると、見覚えのある何かが視界の端を掠めた。咄嗟に手を伸ばし掴み取ってみると、それはレースの結果を記録した一枚の紙だった。
雄一の筆跡とは違う達筆な文字。紙面の上部に書かれた種目名は障害物競争。ということはこれは、澄乃が持っていたはずの記録用紙だ。
「なんでこれが……?」
紙が飛んで来たのは左から。ひょっとしてこの先に澄乃がいるのだろうか。
その方向に足を向けて少し歩いてみると、雄一の視界に映りこんでくるのは鬱蒼と生い茂る木々――そして、中途半端に一部が欠けている木製の柵。
嫌な予感がした。
感じた瞬間に走り出していた。
どうかそうあって欲しくないという感情と、そうであるならば今の状況に納得がいくという思考が混ざって渦巻き、自分の意思とは無関係に両足を突き動かす。
すぐに辿り着いた柵の下、そこから先はそれなりの崖になっている。逸る気持ちを抑えて下を覗き込んでみると――茶と緑だらけの景色の中に、探し求める銀色があった。
「――白取ッ!」
その叫びに反応して、こちらを見上げてくる澄乃。意識はある。
確認も程々に雄一は崖下に降りていく。角度はそれなりだが、土だらけの壁面は爪先で蹴り込んでいけば即席の足場を作り出すことができた。場所によっては湿気った崩れやすい部分があるので、そこを避けて慎重に下っていく。ここで焦って落ちようものなら澄乃の二の舞になりかねない。
焦りをなんとか捻じ伏せて下の方に降り立つと、急いで澄乃に駆け寄る。
「白取、大丈夫か!?」
「英河くん……どうしてここに……?」
「戻りが遅いから探しに来たんだよ。お前こそ、なんでこんなトコに……!」
「記録用紙が風で飛ばされちゃって……それを追いかけてたら……。……あはは、ドジっちゃった」
澄乃はばつが悪そうに笑う。
「とりあえずこれで顔ぐらい拭けよ」
「うん……ありがと」
首にかけていたタオルを澄乃に差し出して、土にまみれた顔を拭くように促す。せっかくの綺麗な顔が台無しだ。
澄乃が顔を拭く傍ら、雄一は彼女の状態をつぶさに観察していく。
見たところ意識ははっきりしているし、大きく目立った怪我は無い。もちろん全身の至る所に土汚れができているし、素肌が見えている箇所には多少の擦り傷も見受けられるが、見た目ほどひどくはなそうだ。
崖の壁面が土だらけで、しかも水分を含んである程度柔らかくなった土だったのが幸いしたのだろう。これで石でも混じっていたらと思うとぞっとする。
「動けるか?」
「うん、なんとか――痛ッ!?」
雄一が手を差し伸べると、その手を取って立ち上がろうとした澄乃の端正な顔が苦痛で歪んだ。痛みで崩れ落ちそうになる体を抱き留めて、そのままそっと地面に座らせる。
「足、痛むのか?」
「うん……右の方かな……」
「ちょっと失礼」
断りを入れて澄乃の右足に手を伸ばす。できるだけ慎重に靴を脱がし、そのままソックスも脱がしていく。きめ細かくて美しい色白の肌が露わになるも、今は足首の部分が薄い青紫に変色していた。
「ちょっと力入れるぞ。痛かったらすぐ言ってくれ」
「う、うん……」
状態を確かめるために両手で澄乃の右足首を包むと、親指の先に全神経を集中させてゆっくりと力を加えていく。澄乃の眉がピクリと動いたところで親指を離し、二、三度その流れを繰り返した。
「……捻挫だな。骨折まではいってないみたいだ」
「分かるの?」
「ヒーローショーの練習で怪我することもあるからな。その時に教えてもらった」
とはいえ付け焼刃の知識、所詮は一高校生のとりあえずの触診だ。早く救護の教員にでも診てもらった方がいい。
澄乃から返してもらったタオルをミネラルウォーターで濡らして絞り、それを強く圧迫しない程度に足首に巻いて応急処置を済ませる。
(さて、どうするか……?)
ともかく、澄乃を早く医者に診せるのが最優先事項だ。しかし助けを呼ぼうにも、トランシーバーは別の係の者に渡してしまったので連絡手段がない。大声を出したとしても、たまたま近くに人が通りかからないかぎり気付いてはくれないだろう。他の生徒は離れた場所で選抜リレーの最中だし、平日のせいで一般客の数も少ないから、その線は望み薄だ。目の前の崖を這い上がるのも、一人ならまだしも澄乃を連れた状態では確実に不可能。
となると――逆に下るしかない。
「よし。白取、俺が担ぐから一旦下ろう」
事前に目を通していた公園内の地図を脳内に思い起こし、雄一は澄乃に対して背中を向ける。
多少道なき森の中を歩く羽目にはなるが、このまま緩やかに下っていけばランニングコースに出れるはずだ。急がば回れ。遠回りにはなっても安全なルートを行く方がいい。
「え、でも……」
「こんな時まででもも何もない。怪我人なんだから大人しく頼れ」
雄一にしては珍しく有無を言わせない強い口調で告げると、澄乃は若干頬を赤らめて「……よろしくお願いします」と頷いた。
――いや、まあ、高校生にもなって異性におんぶしてもらうのが恥ずかしいという気持ちは分らんでもない。けれど今は非常事態。四の五の言ってられないのだから、恥ずかしさは甘んじて受け入れて欲しい。
ちなみに、さすがにお姫様抱っこを選択する勇気は雄一になかった。
「じゃあ、し、失礼します……」
恐る恐る体重を預けてくる澄乃を背中で感じ取りつつ、しっかりと体重が乗ったところで両足を脇に抱えて立ち上がる。想像よりも澄乃の体は軽いので、この分なら問題なく進めそうだ。
「英河くん、あの……私重くない?」
「ん? ……大丈夫、軽い」
「ねえ、ちょっと変な間があったような気が――」
「うっさい。軽いったら軽い。だから心配すんな」
「むぅ……」
すぐ後ろからじとっとした視線を感じるが、雄一は気付かない振りをして歩き始める。なにやら「ダイエットした方がいいかな……」とかブツブツ呟きも聞こえてくるが、澄乃のスタイルは服の上からでも完成されているのが分かるほどなので、そんな必要はないと言っていい。
ただ……ちゃんと食べているのかと疑いたくなるぐらい軽いのだが……それに反して、背中に当たる二つのえっらい柔らかな感触には、確かな重量感を感じる。
先ほどの微妙な間は、その重量感にしばし圧倒されてしまったが故にできたものである。
女の子の身体って柔らかいんだなぁと、状況に不釣り合いな感想を抱いてしまう雄一であった。
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