第21話『始まりの日①』

 鬱蒼と生い茂る森の中、雄一は澄乃を背負って進み続ける。


 いかに彼女の体重が軽かろうと、人一人を抱えて整備もへったくれもない場所を歩くというのはさすがに骨が折れる。湿気交じりの生暖かい空気が頬を撫でるたびに、じんわりとした汗が額から垂れてくる。澄乃を背負ったままでは満足に汗を拭うことも叶わない。


 とはいえ、これは自分から選んだ道。文句なんてあるわけないし、弱音を吐くつもりもない。それに樹海に迷い込んだわけでもないのだから、このまま着実に進んでいけば森を抜けられるはずだ。


「はあ……」


 背後の澄乃がため息をついた。吐息が首筋にかかって甘い痺れが背中に走りそうになるが、気力でその生理反応を隠し通す。


「足、痛むのか?」


「え? ……ああ、足は大丈夫。英河くんが巻いてくれたタオルのおかげで痛みもある程度引いてきたから」


「そっか、なら良かった。だいぶ落ち込んでるみたいだし、何かあったらすぐ言えよ?」


 まあ、崖から落ちて湿気った土で汚れておまけに捻挫までしたのだ。落ち込むなと言う方が無理な話だろう。


「落ち込んでるっていうよりは……自分が情けないって感じかな? 私、英河くんにはいつも助けられてるし。迷惑ばかりかけて……ごめんね?」


「いいんだよ、俺が好きでやってるんだから。迷惑だなんて思ってないし、たとえ迷惑だったとしても、大変な時ぐらいいくらでもかけろ」


「……本当、英河くんは優しいね」


 澄乃が柔らかく微笑む気配が背中から伝わってくる。背負った直後は緊張で身体が強張っていたようだが、今はだいぶ気持ちも和らいだようで、落ち着いた様子で雄一の背中に体重を預けてきてくれる。


 ――その分、柔らかな感触もより一層伝わってくるのだが、できるだけそのことには意識を割かないようにして雄一は歩を進めた。


「ねえ、英河くん。訊きたいことがあるんだけど……良い?」


「どうした、改まって。別にいいぞ」


 無言というのも居心地が悪い。話題を提供してくれるならありがたいし、それで澄乃の気が紛れるならなによりだ。


「ヒーローになりたいってのいうのは、どうしてなの?」


「……んん? その話、白取にしたことあったけ?」


 雄一がヒーロー物を趣味としていて、ヒーローショーに参加していることも澄乃は知っている。けれどそういう存在を志していること自体は口にしたことはなかったはずだ。


「あ、小柳さんから聞いたの。ほら、英河くんがお手伝いに回してくれたおかげで、少し話す時間があったから」


「ああ、なるほど」


「ごめん、訊いちゃいけないことだったかな……?」


「いや大丈夫。隠してるわけでもないし」


 一度、澄乃の身体をしっかり抱え直した後、雄一は少し思案げに眉を寄せる。


「ちょっと長くなるかもだけど……いいか?」


 首だけ後ろに振り返ると、こくりと頷く澄乃の顔が視界の端に映る。それならと前に向き直った雄一は、どこか過去を懐かしむように目を細めた。


「小五の夏だったから……ああ、もうじき六年前になるんだな」


 今でも鮮明に覚えてる、あの頃の記憶。今の自分を形作ることになった、始まりの日の出来事。


「俺さ――事故に遭ったんだ」


 その記憶の蓋を、雄一はゆっくりと開いた。













 雄一が小学五年生だった頃の夏休み。


 家族で旅行に行った帰り道だった。


 父親が運転する車は高速道路を走行中で、雄一はその車内で二歳年下の妹と旅行の思い出話に花を咲かせていた。


 どこそこの景色が綺麗だったとか、立ち寄った動物園が楽しかったとか、そんなとりとめのない、それでも幸せに溢れたおしゃべり。そんな二人を両親は暖かく見守っていて、雄一は子供心に「ずっとこんな時間が続けばいい」と思っていた。


 けれど幸福に満ちたその時間は――あっけなく崩れ去った。


 大型トラックの横転を皮切りにした大規模な交通事故。運転手の操作ミスによる人為的なものか、それとも整備不良等による外的要因だったのかは覚えていない。新聞やテレビで取り上げられた覚えはあるけど、原因なんて正直どうでもよくて、大事なのはその事故に何台もの車が巻き込まれたこと――そしてその一台に、雄一の乗る車も含まれていたことだ。


 金属と金属がぶつけてひしゃげる耳障りな音や、両親の悲鳴。様々な轟音が不協和音となって雄一に襲いかかる中、咄嗟に隣の妹を守らなければと思って手を伸ばした。目を見開いて驚きを露わにする妹の身体を、迫る脅威から庇うように覆い被さったのを最後に、雄一の記憶は暗闇に閉ざされた。


 次に目を覚ました時、最初に目に映ったのは知らない天井と、泣き腫らして目元を真っ赤にした妹の顔だった。


「俺が目を覚ましたのは、事故から二、三日経った後。妹は大した怪我もしてなくて、俺の方も頭を打ったショックで寝込んでたってのが大きかったみたいだから、怪我自体はそこまで重くなかったんだ」


 だから、割とすぐにベッドから起き上がることはできた。そして妹に両親のことを訊いてみたら、またすぐに泣き出しててんで話にならなかった。


 そんな妹をあやしながら近くにいた看護師に事情を話して、そうして連れて行かれた先は――いわゆる集中治療室と呼ばれる場所だった。


「ただ俺たち兄妹と違って、父さんも母さんも重体でな。いつ目が覚めるかも分からない……そんな状態だったよ」


 ぶ厚いガラスを隔てた先にいる、ベッドに力無く横たわる両親の姿。二人とも身体のあちこちに包帯が巻かれていて、口からは呼吸を補助するチュープがまるで二人をこの世に繋ぎ止めるための最後の一線のように伸びていた。呼吸で微かに上下する腹部の動き以外、まるで生きているようには見えなかった。


「それで、ご両親は……?」


 気遣うような澄乃の声が雄一の耳を撫でる。


「しばらく目を覚まさなかった。――あ、先に言っとくけど、二人とも今もちゃんと生きてるからな。むしろ事故前よりピンピンしてるぐらいだし」


 おどけたように告げてみせると、澄乃がほっと息をついたのを感じる。暗い気持ちにさせてしまって申し訳ない。


 そう、幸いなことにこの話がバッドエンドを迎えることはない。だからこそ、今はこうして一つの思い出話として話すことができる。


 けれど当然、当時の雄一がそんなことを知るわけもない。両親が生きるか死ぬかの瀬戸際で、自分がこれから先どうなるかも分からない、そんな不安の真っただ中にいた。


「ただ一つ思ったのは、二人が目覚めるまで俺が妹を支えてやらなきゃってことだった」


 あの時、雄一が食い入るように両親の姿を覗いていると、不意にきゅっと片手が掴まれた。視線を向けた先にいたのは、雄一を不安そうに見上げる妹の姿。近所でも可愛いと評判だったその愛らしい顔も、涙でぐしゃぐしゃで見ていられないほどだった。


 当然だ。いきなりの事故で自分以外の家族が目を覚まさなくて、もしかしたらこのまま自分が独りぼっちになってしまうんじゃないかという恐怖。想像しただけで吐き気がこみ上げてくる。


 そんな妹にとって、雄一は唯一縋ることのできる希望だった。なればこそ、自分は両親が目覚めるまでその使命を全うしなければならない。


 小さくて頼りない妹の手を両手で包んで、雄一は安心させるように言った。


『だいじょーぶ。お父さんもお母さんも少し休んでるだけだから、すぐに目を覚ますよ』


 ただの気休め。それでも唯一頼れる存在にそう言われた妹は、ようやく少しだけ笑顔を浮かべてくれた。


 この笑顔を守りたい。守らなきゃいけない。今は頼れない両親の代わりに、自分が全身全霊をかけて彼女を支えなければいけない。


 小さくて暖かい感触を胸に抱き寄せながら、雄一はそう決意を固めた。


 けれどその決意は――長く続かなかった。

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