第19話『ガールズサイド』
「白取さん、それ手伝うよ」
澄乃が障害物競争の後片付けをしている途中、そう言って近寄ってきたのは紗菜だった。明るい栗色のポニーテールを揺らし、澄乃がカゴにまとめていた細々とした用具に手を伸ばしていく。
「え、大丈夫だよ? これは実行委員の仕事だから、小柳さんが無理に手伝わなくても……」
「その実行委員から頼まれたんだよ。ちょっと野暮用で持ち場を離れるから、相方を手伝ってくれないかってね」
「相方? ――あ、ひょっとして英河くんから?」
そういえばと澄乃が視線を巡らせてみれば、さっきまでいたはずの雄一の姿が消えていた。いなくなる自分の代わりに、紗菜を寄こしてくれたということなのだろう。
「悪いねー、ウチの雄一が勝手にどっか行っちゃってさ」
テキパキと澄乃の作業を手伝いながら、紗菜が悪びれた様子で謝罪を口にする。それに対して、澄乃は笑みを浮かべて首を横に振った。
「大丈夫。英河くんのことだから、きっと誰かの手助けをしてるんだと思うし」
「おやおや、雄一ってば信頼されてるねえ」
「本人が聞いたら喜びそう」と零す紗菜に苦笑で返すと、澄乃も引き続き片付けを進めていく。座りながらレースの結果を記録した用紙をまとめていたところで、澄乃の手がふと止まった。
「ねえ、小柳さん。ちょっと聞いてもいい?」
「うん? 何かな?」
「英河くんのことなんだけど……いつもああいう感じなの?」
「ああいう感じ……って言うと?」
首を傾げる紗菜。琥珀色の瞳が質問の意図を探るように澄乃に向けられる。
「人助けとか、そういうのに躊躇がないっていうか……慣れてるというか……」
「お節介というか?」
「え、いや、そこまで思ってないけど……っ」
「あはは、分かってる、冗談だよ」
わたわたと手を振る澄乃に軽く吹き出した紗菜は、緩く目を細めて語り出す。
「雄一があんな感じなのはさ――ヒーローになりたいから、らしいんだよね」
「ヒーローに……?」
「うん。あ、別にテレビとか映画に出てくるようなヤツそのまんまってわけじゃなくて、単純にそういう志を持ちたいって話ね。困ってる人を見かけたら、迷わず手を差し伸べられる――そういう人間になりたいんだって、前に本人の口から聞いたよ」
「そう、だったんだ」
言葉とは裏腹に、澄乃もそのことに関しては薄々気付いていた。雄一がヒーロー物を好んでいるのはもちろん知ってるし、その志向が彼の人格に大いに影響しているのも、これまでの関わりで十二分に実感している。
「ちなみに、それはどうして?」
「理由? ……んー、言われてみれば、ちゃんと理由を訊いたことはなかったかなあ。その辺りは雅人――あ、同じクラスの乾雅人ね? そっちの方が詳しいと思うよ。雄一とは中学の頃からの付き合いみたいだし」
「そっか……。ありがとう、急に変なこと訊いてごめんね」
「いやいや、別にこれぐらい構わないよ」
そう言って人当りの良い笑みを受かべる紗菜だが、次の瞬間にはうってかわって悪戯を企むように口の端を歪める。
「それにしても、そんな風に訊いてくるってことは……ひょっとして雄一のこと?」
「――へっ!?」
ずるっと、澄乃の手から記録用紙を挟んだクリップボードがずり落ちそうになる。地面に落ちるすんでのところでそれを掴み取るが、紗菜の言葉に動揺しているのは明白だった。
「白取さん……もし良ければ、雄一のこともっと教えようか? 力になれると思う」
「ま、待って待って。別にそういう意味で訊いたわけじゃなくて……!」
「大丈夫、他の人には漏らさないから」
「だから違うってばっ! 英河くんのこと良い人だとは思ってるけど……好きとか、そういうわけじゃ……」
「ほう、私は別に好きかどうかを訊いたつもりじゃなかったけどなあ」
「え、えええ……あんな訊き方されたら誰だって……」
確かに「好きなの?」とか「気になってるの?」とかそういったことを明言されたわけではないが、言葉の語尾にその手の意味合いが含まれていたのは間違いない。何より紗菜の目が雄弁にそう語ってきている。
だというのに、まるでこちらが自爆してしまったように感じてしまうのは何故だ。思わず火照り気味の頬をクリップボードで隠そうとしたところで、妙案を思い付いたと言わんばかりに澄乃は勢い良く立ち上がる。
「あ、あの、私、この用紙を早めに先生たちに渡してこないといけないから! 小柳さん、ちょっと、あとよろしくお願いします……!」
手を挙げて「りょーかい」と答える紗菜への礼もほどほどに、澄乃は踵を返してその場を後にする。本来実行委員でない紗菜に仕事を任せてしまうのは心苦しいが、同性といえいどもこの熱くなった頬をこれ以上見せるのは恥ずかしい。
もう一度心の中で紗菜に頭を下げようとするも、そもそもこうなったのは彼女のせいだということを思い出し、申し訳なさとちょっぴりの不満が混ぜこぜになった状態で澄乃は足を進める。
とはいえ、オリエンテーションもそろそろ佳境。集計の都合上、記録用紙を早く提出した方がいいというのもまた事実だ。咄嗟に口にした言い訳の割には的を射ていたと思う。
山の中の自然を利用したこの大型公園は思いの外高低差もあり、障害物競争を行った地点から教員たちが詰めているオリエンテーション本部まではそれなりに距離がある。その道中を早足で歩きながら、澄乃は頬に残る熱を逃がすように息を吐き出した。
(もう、小柳さんったら急にあんなこと言ってくるんだから……)
まあ、いきなり雄一について問い掛けたのはこちらだ。恋愛に繋がるような推測をされるのも当然と言えば当然の話だろう。
けれど紗菜に言ったように、澄乃が雄一に抱いている気持ちは、異性として好きとかそういった類のものではないはず。どちらかと言うと人として――そう、人としての尊敬に近い感情だ。
ゴールデンウィーク中のお祭り、雨の日の帰り道、モールでの迷子騒動――まだ一ヶ月半程度の付き合いだけれど、雄一の人となりはしっかりと身に沁みている。迷いなく人を助けられるヒーローみたいな人間になりたいというのが彼の目標らしいが、澄乃からしてみれば、もう十分にそんな人間になれていると思う。
本当に立派で、尊敬できて……自分なんかとは、全然違う。
気付かない内に自嘲的な笑みが浮かべる澄乃。その時、その横顔を殴るように急に強い風が吹いた。
「――――あっ」
はためく自分の銀髪を抑えていると、手にしていたクリップボードから一枚の記録用紙が風に攫われて飛んでいってしまった。慌ててまとめたせいで金具での抑え付けが甘かったのか、ほとんど質量の無い一枚の紙はあれよあれよという間に森の方へと流されていく。
いけない。あれが無いと正確な順位付けができなくなってしまう。
澄乃が小走りで追いかけていくと、記録用紙は木製の柵で隔てられた少し向こう側――大木の枝の間に引っかかていた。あれなら頑張って手を伸ばせば届きそうだ。木陰のせいで前日の雨から地面が乾き切っていないのか、湿気混じりの木々の匂いを感じながら柵の向こう側を覗いてみる。ちょっとした崖になっているので、柵に体重をかけすぎて落ちないように注意しながら大木の方へ手を伸ばす。
懸命に手を伸ばしてみるが、あと数センチというところで記録用紙に届いてくれない。届きそうで、届かない。そのもどかしい距離感が、気付かないうちに澄乃の意識を前のめりにさせていく。
(あと、もうちょっと……!)
澄乃が体ごと手を前に突き出した瞬間、それは起きた。
腰辺りから聞こえるバキリとした嫌な音。それが老朽化の進んだ柵の折れる音だと理解する間もなく、澄乃の体は前の方に崩れ落ちていく。慌てて足で踏ん張ろうとしてももう遅い。雨でぬかるんだ地面は支えとしては到底役に立たず、まるで底無し沼に沈んでいくかのように、澄乃の意識は崖下へと転がり落ちていった。
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