第10話『嘘も方便(後編)』

「あ、あそこが私の住んでるところ」


 横断歩道を挟んだ向こう側。澄乃が指差す先には、白を基調とした割と新しめのマンションがそびえ立っていた。


「結局近くまで来ちゃったけど……英河くんの家ってどこなの?」


 傘に入れてくれるのは一緒に付いて来れるところまででいい――それが澄乃から提示された条件だったわけだが、色々と話し込んでいる内にここまで辿り着いてしまった。


「奇遇だな、俺の家もあそこなんだよ。実はお隣さんで――」


「いや嘘だよね? ちょっと目が泳いでるし、お隣さんならさすがに気付いているから」


「ちっ……意外と冷静だな」


「そんな簡単に騙されません。それで本当はどこなの?」


 じっとこちらを見てくる澄乃。正確には睨んでくると表現した方が正しいのだろうけど、いまいち迫力には欠ける。


「……実はもう通り過ぎてました」


「もう! 付いて来れるとこまでで大丈夫って言ったのに……」


「そう怒るなって。曲がり角一つ無視しただけだから」


「むー……明日からは絶対天気予報見逃さないようにしよう」


「いい心掛けだな。是非そうしてくれ」


 暗に「もう世話にはならない」という意味合いの言葉を澄乃は口にするが、雄一は特にこたえた様子もなくさらりと受け流す。それがまた不服だったのか、より一層頬を膨らませた澄乃がていっと雄一の脇腹を軽くつついた。


 痛いよりもくすぐったい。睨み目にしてもこれにしても、やはりどこか迫力に欠ける。


 横断歩道を渡り、マンションのエントランス前に辿り着く。そこでマンションを見上げたところで、雄一の頭には一つの気になる点が思い浮かぶ。


「なあ、白取って家族でここに住んでるのか?」


 ざっと観察してみて気付いた。このマンションはベランダの幅を見たところ、一部屋の大きさが家族で住むには小さいように思える。これではファミリー向けのマンションというよりは、むしろ単身者向けだ。


「ううん、家族とは別。私一人だよ」


「えっ、白取も一人暮らしなのか?」


「そうだけど……“も”ってことは、英河くんも一人暮らし?」


「ああ、まさか同志に巡り合うとはな」


「まあ高校生の一人暮らしって珍しいもんね」


 エントランスに入って雨を遮断できたところで、澄乃は雄一の傘の下から離れる。すぐさま振り返った彼女の顔には、感謝の中に少しの怒りを滲ませたような笑みが浮かんでいた。


「送ってくれてありがとう。けど、次からは絶対無理しないでね?」


「分かった。無理のない範囲で頑張る分にはいいんだな?」


「むー、揚げ足とらないでよ。そもそも頑張らなくていいです」


「はいはい」


「はいは一回」


「はい」


 雄一がおどけた様子で適当な敬礼を交えてみると、澄乃は小さく吹き出して笑みを深めた。怒りが消えてくれたようで何よりだ。


「それじゃあね。英河くんも気を付けて。一人暮らしなんだから風邪引かないようにね?」


「心配すんな。健康には自信あるつもりだ」


「あはは、頼もしいね」


 澄乃が慣れた手つきで暗証番号のパネルを操作すると、マンションの入口であるオートロックの扉が開いた。女性の一人暮らしでも安心できるセキュリティだ。


 そのまま建物の奥へと消えていく直前、澄乃が振り返って「バイバイ」と手を振ってくる。雄一は同じように手を振り返し、完全に澄乃の姿が見えなくなったところで軽く息を吐いた。


(さて、俺も帰るか)


 空は灰色を超えてすっかり暗くなっている。目的を果たした以上、長居は無用だ。


 マンション前の横断歩道を渡り、今来た道を雄一は引き返す。


 時折曲がり角に当たりつつ、どんどん進んでいく。


 しばらく歩いた後、見えてきたのは建築業者のトラック。それも通り過ぎ、やがて辿り着いたのは学校へと続く長い坂の一番下。


 そこで雄一は盛大にため息を吐いた。


 まさか、そのまさかである。


(いやまさか、初っ端から逆方向だとはな……)


 そう、雄一の帰る方向は駅の方、坂を下りたら左へ曲がるのが正しいルートだ。澄乃のマンションへ向かう道とは完全に真逆の方向である。


 よもやいきなり別れることになるとは思わなかった。


 まあ左か右かの選択、確率的に言えばフィフティフィフティなので十分あり得る話なのだが、さすがに外れを引くタイミングが悪すぎる。例えるならば、黒いヒゲの海賊が入った樽にナイフを刺していく玩具において、最初の一刺しで海賊を飛ばしてしまったような感じだ。気まずいなんてレベルじゃない。


 それでも心優しい澄乃のことだ。正直に打ち明ければきっと笑って、雨の中に駆け出していったことだろう。


 しかし、雄一的にそれはノーサンキューだ。


 そもそも送っていくと言って雨の中に連れ出したのに、その舌の根を乾かぬ内に約束を反故にしてしまうなんて、ヒーローとしてあるまじき行為だ。


 そう、これは雄一の――ヒーローを志す人間の譲れないプライドの問題なのだ。


 だから嘘も方便。少し嘘をついてもご愛嬌ということにしてくれと、雄一は心の中で澄乃に頭を下げた。


 雨に打たれてすっかり濡れてしまった左肩に一度目をやって、雄一は自宅へと続く道を歩き始めた。

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