第2話 逃げ切ったものの

「ちぃっ、みつかった!」


 エレベーターから脱出できた俺の姿が鳥の視界に入ったのと、俺がそれに気づいたのはほぼ同時だった。やばいと脇目もふらず駆け出し、フロアを全速力で横切り、非常階段の扉のとってに手をかけた。

 扉は熱されていて、ふれた瞬間に手の皮膚の一部が焼けた匂いがした。くそうと歯を食いしばって扉をこじ開けて、内側へ身を滑り込ませた。

 すぐ背後では硬い扉に何かがぶつかってきている音がする。

 ちくしょうと口にしながら、階段を一気に駆け下りていく。あの扉がどれくらいもつかはわからない。でも、やるしかない。

 背中にしっかりとチェロケースを背負って、数段飛ばしで駆け下りていく。邪魔だとは思うが、手放すわけにはいかない。このチェロは伯父が俺のために大金をかけて手に入れてくれたものだ。それに、これを使っての演奏をまだ父さんにも聴かせていない。

 顎の先から汗が零れ落ちる。額にはりついたままの前髪をもう一度持ち上げて視界を確保した。

 煙は上にあがる性質にある。それに立ち向かっていくのは至難の業だ。

 どこで火事が起きているのかとか、もう考えられなかった。

 非常階段の扉の表示は『9』だった。エレベーターは9階で停止していたのだろう。地上階まではまだ果てしなく遠い。

 細心の注意を払いながら、しかしながら全速力で階段を駆け下りて行く。

 ふいに昨夜見た月を思い出した。

 薄い雲を纏い赤く滲んだ月だ。

 月が泣いていた気がして、月の為にチェロを奏でたくなった。

 切ない思いを抱いたまま、優しく弦をはじくと、音がいつもと違っている気がして驚いた。

 こんな緊急事態に何故そのようなことを思い出しているのかと俺は苦笑いした。

 目の前の事態に集中しようと振り切ろうとしても、赤く滲んだ月が脳裏を占有してくる。イメージを振り切り、現実を直視して、3階まで降りたところで、俺は舌打ちした。階下から獣の咆哮が聴こえたのだ。

 手すりから身を乗り出してみると、黒い毛並みをした虎のような輩がこちらに向かって登ってきている。

 駄目だと悟った。3階で非常階段の扉を今度は内側に向かってまたこじあける他なさそうだ。扉に触れる瞬間、思わず身構えてしまったが、意を決してとってに手をかけた。

「熱くない……」

 熱源は上層階なのかとホッとしたのも束の間だった。

「いやいやいや、待て待て! 3階ってシンフォニーホールがあったはずだ」

 最大収容人数1000名の音響の良いシンフォニーホールと記憶していた。

 コンサートの開始は19時からだ。当然至極のことであるが多くの人間がすでに集まり始めていたはずと思い至った。

「そうか……演者だけなわけがなかったよな。 スプラッタすぎだろが!」

 俺は食い散らかされた人間の残りカスの上を飛び越えながら、言葉を口にしていないと気がおかしくなりそうだった。

 戦争や紛争のどんな凄惨な映像でも驚きはしなかったが、これはレベルが違う。

 飛び散った肉片がべっとりと照明にこびりついており、天井の豪奢なシャンデリアからは血がしたたり落ちてくる。

 ホールの扉はもはや破壊され尽くされており、客席が簡単に覗き込める。

 うめき声など聞こえない。うめくことができる人間が存在しないのだ。

 腕や足が散らばっている。

 物陰に身を潜ませてあたりを伺うと、バキバキと骨を砕く嫌な音が耳に届いた。

 視線だけ後方に向けて、俺は自分の表情筋が固まっていくのを感じた。

 口から飛び出しそうになる心臓を押さえつけて、唇をかんだ。

 そこには虎のご家族、親戚郎党が全員大集合していたのだ。視界を埋め尽くす虎の群れが待ち構えていた。俺の神経は到底もちそうになかった。

 その時だった。

 聞き覚えのある甲高い悲鳴が耳に届いた。

「まさか、あいつじゃないよな」

 俺は悲鳴の聞こえた方向にやや振り返り、愕然とした。幼い頃からの腐れ縁である少女が奇怪な鳥に追いかけられ、猛スピードで逃げ回っている。

「あのバカ……何で来てんだよ……」

 置き去りにして帰ってしまいたい気もしたが、知人としての義理立てのつもりで、俺は手短な場所にあったマネキンを階段の上から投げ落とした。

「何でこうなる」

 猛獣達の興味が一気に俺の方へと集中し始める。

「新!」

 少女は俺を見つけるや否や、駆けてくる。

「こっちに来るな!」

 大声で怒鳴りつけるが、彼女はわき目も振らずに駆けてくる。

 その行動に俺のフラストレーションは大爆発した。

「このバカ! 来るなって言ってるだろ!」

 キョトンとした彼女は怒られている意味がまったくわかっていない。

 それどころか、駆け寄ってきて、俺の袖口をつかむと放そうとしない。

「置いて行くつもり?」

 彼女は俺に逆に怒鳴り返した。

「何言ってる! お前が逃げ回ってるから、俺がターゲットになって逃がしてやろう思ったのに、その逃がすはずのお前がこっちに来たら意味ないだろ?」

「あ、そうか」

 彼女は申し訳なさそうにうつむく。

「もう遅い! 逃げるぞ!」

 俺はその手を引いて走り始めた。

 昔から、この少女のせいで何かと遠回りさせられている気がする。

 彼女の名前は時東桂という。

 桂は黙っているとかわいいのだが、しゃべりだすと最後、その大声は騒音公害以外の何物でもない。そして、桂のはた迷惑な好奇心はいつも俺の苦労の種でしかない。

「ねぇ、新。 これ何?」

 桂はしぼんだ風船のようなゴム質の何かに目を留めた。

「触るな!」

 俺はそのゴム質のものが人型をしていることに気がついていた。

 それは人体から中身だけが抜き取られているような抜け殻ではないのかと数分前から考えていたのだ。

「なぁ、新、これ売り物? 全身タイツの人間版?」

 人体の皮には傷口がない。一体、どこから中身が抜きとられたのかわからない。桂が作り物と誤解するのも仕方ないほどに巧妙に抜き出されている。

 ゲームやパーティの商品だと勘違いしている桂に、俺はあえて訂正をくわえなかった。これが本物だなんてことをここで彼女に伝えたところで事態がかわるわけでもないからだ。

「これが売り物だったら、製作者は天才だな」

 視界の端で虎の動きを確認しながら、階下へおりていく道をさぐっていく。 

 ごく近くで咆哮が聴こえ、表情を引き締める。

 体が小さくなるはずなど無いのに、精一杯背を丸め、そろりと2階へ降り始める。と、真正面から、やや小型の虎がこちらに向かって飛び掛ってきた。俺はとっさに馬とびの要領でそれを難なくかわす。この運動神経だけはすばらしい才能だと、生まれて初めて神に感謝した。

「よけろっ!」

 振り返った俺は苦笑いした。桂は心配をものともせず、難なくそれを交わし、余裕に満ちた微笑を浮かべ、Vサインしていた。

「アタシ、運動神経しかないからね」    

 この状況にあって、本当に良い性格をしていると俺は感動すら覚えた。

 この悲壮感のない桂に騙されかけていたが、一刻も早く逃げる出すことに集中する。それが今求められている最重要課題だった。

 2階の総合案内所前を低姿勢で通り過ぎて、1階へと中央階段を一気に駆け下りようと試みた。階下のロビーを見渡し、外への出口を確認しようとして、俺は頭を抱えた。回転式の大きな玄関口には回転する扉がない。見事に強化ガラスは粉々になっており、骨組みには粘り気のありそうな血糊がべったりとついていた。

 グレイ一色のシンプルなデザインが売りのロビーは赤黒いものに覆われ、直視するに耐えない凄惨な光景と化していた。

 そこに人間の遺体と確認できるものはない。転がっているのは、どれも人間の一部分であったものばかりだ。

「新、これ現実?」

 生唾を飲み込んでいる桂に俺はただうなずいてみせる。

「新、桂ちゃん・・・・・・」

 どこからか聴きなれた声が聞こえた。だが、その声はか細い。

「新、桂ちゃん・・・・・・。 ココだよ、ココ!」

 声の主の姿を探すが、なかなか見つからない。

「上だよ、ココ」

 半階分上のフロアにあるオブジェの影に見慣れた顔があった。

「何してんだ、真規」

 俺はユニコーンのオブジェの背後にいる男に声をかける。

「訊かないでくれない? 見ればわかるでしょう?」

 真規は辺りを見回すと、新と桂の目の前にヒラリと飛び降りてきた。俺はいよいよ頭が痛くなってきたぞと溜息を繰り返した。

 長身の日本人離れしたモデル体型の彼は、幼馴染で3歳年上の水無瀬真規。

 バイオリン奏者で、世界的に有名なプレイヤーとして人気がある男だ。

「ここで何してた?」

 俺はチェロを担ぎなおしながら真規に目をやった。真規は靴紐を結びなおしながら、苦笑し、罰悪そうに視線をそらした。

「お前、楽譜を取りに来ましたって顔じゃないな。 さては、リハーサルを邪魔しようと思って来たんだろ?」

 図星だったのか真規は何も答えなかった。

「こっわいよねぇ、鳥とか虎とかさぁ」

 話題を切り替えたいのか、真規は桂の手を握りながら話し始めた。

 飄々としている彼から、悲壮感はえられそうにない。

「さぁて、難問発生だね」

 辺りをみまわしながら、真規は眉をひそめる。

 外気をさえぎるものが笑えるほど破壊されており、視界良好。当然身を隠すものなど皆無。血の匂いと潮の香りが立ち込めている。ビルのすぐ裏手が海だ。だがしかし、出口はすぐ眼前にあるというのに、足は止まったままだ。

「正面は不可能」

 3人で柱の陰に身を隠し、それぞれが苦虫を噛み潰したような顔をした。

 その判断の根拠は、視界を占領したものにあった。

 見渡す限りの虎、虎、虎。詳細な説明がつきそうにない要素の多い狼。キングコングの縮小版。怖そうな目つきの鹿。キングキドラみたいな怪物。まさに世紀の異形生物ワンダーランドが広がっている。

 俺は腹立ち紛れに髪をかきむしった。と、その時、チェロケースが微妙に振動した気がした俺は眉間にしわを寄せた。

 桂はただ首をかしげているだけだが、真規は違った。まるで、その微小な振動が意味していることを承知しているようだった。ため息まじりにケースのロックをはずすと、その中から、俊敏に動く黒い毛玉のようなものが飛び出した。

「小次郎、また、お前かぁ……」

 毛足の長い猫のような小動物が器用に俺の肩に飛び乗った。

「ネコ? それとも、キツネ? 犬? 何、それ」

 桂の興味はその黒い毛玉に集中していた。

「ワンコキツネネコリス」

 俺は小次郎の額を指でよしよししてやりながら、答えてやった。

「今、ものすごく適当に答えなかった? ただの羅列、思いついたまんまのような。しかも、ワンコって。 百歩譲ってもイヌって言って欲しいよねぇ。 まぁ、可愛いネコのミックスってところかなぁ。 ね? ネコちゃん?」

「触ったらダメだ、勢いよく噛みつくぞ」

 俺に注意を促された桂は慌てて指を引っ込めた。

 俺の肩の上にいる金色の目は桂を警戒するように観察している。俺の知り合いだぞと小次郎の尻尾を指先でひっぱってやると、小次郎はわかったよというように目を閉じた。

「小次郎、ついてきたの?」

 真規は、キツネよりもやや大きめの小次郎の耳をひっぱった。拒否の意味合いをこめて彼の指先にじゃれるようにして爪を立てながらも、小次郎の目はまだ桂からそらされることは無い。

「真規のところに行ってて」

 俺にヒゲをひっぱられ、小次郎はしぶしぶ真規の肩へ飛び移った。  

 俺はチェロケースを丁寧に担ぎなおすと気を引き締めなおした。

「これから、どうする?」

「方向転換するしかないだろう?」

 真規は裏側を指差した。ただ、裏側へ至る道も試練の塊だ。

 物音ひとつたててしまえば、一気にあの世行だ。

 その時だった。

 突風が吹き荒れて、獣の坩堝の中央に全身黒装束の人影が舞い降りた。

 小柄な人影の右手には大ぶりの槍がある。

 面倒くさそうにフードをはずした瞬間、すべらかな長い黒髪が背中に滑り落ちた。

 白磁でできたような狐なのか、狼なのかわからない仮面をはずすと、その下には息を飲むほどに美しい琥珀の瞳が現れた。

 飛び掛かってくる獣から難なく身をかわしては、風を斬るほどの音を立てて、槍で薙ぎ払っている。


「女の子?」


 彼女の体の動きにあわせて、黒いフード付きの外套がまくれあがり、その下に白と黒の二色の長い羽織が見え隠れしていた。

 背後から迫りくる獣に気づいていないのか、彼女は前方から来る虎に集中したままだ。危ないと俺はとっさに声を上げてしまった。

 俺の声に驚いたように振り返った彼女は何故かにこりと笑った。

 そして、静かにしておいてというように唇に指をあてた。

 己の3倍以上もある大きな虎の腹部に蹴りを入れて、身を低くして、その足を斬りつけた。

 息を飲んでその動きをみつめてしまう。

 だが、多勢に無勢はかわらない。刻一刻と状況は追い詰められていく。

 彼女の額にも汗がにじみ始めており、その肩が大きく揺れ始める。

 うなり声をあげ、四方八方からとびかかってくる獣を薙ぎ払う。

 頭上からの鍵爪を嫌い、腹を裂いたがために血がしたたりおちて、彼女の視界を奪った。動きが格段に落ちた。やばいと俺がたちあがろうとした瞬間、閃光が走った。


「目を離すとすぐにこれや」


 男の声が聞こえたと同時に少女のすぐそばで竜巻が起こり、長身の人影が現れた。 

 彼はすぐに少女を抱き込むように腕の中へ閉じ込めると、血に濡れた彼女の目を袖口でぬぐっている。


「考えなしにやるからこうなる」


 長身の男は身をかがめ、少女の顔を覗き込んいる。

 少女を取り囲んでいたはずの獣がいないことに俺ははっとした。

 あの閃光ひとつで彼は近くに居た獣を吹き飛ばしていたのだ。


「僕が少しでも遅れていたらどうなったことか」


 少女はホッとしたような表情を浮かべると、足に来ているのかがくりと前傾姿勢になった。


「やりすぎたね」


 彼に抱き留められながら、彼女は急にしょんぼりとしてうなだれた。

 彼は槍を取り上げると、彼女の耳元で何かささやいた。すると、少女の身体は完全に力を失ってしまう。


「獣と遊ぶ趣味はないんだよ」


 ぐるると喉を震わせて再び群れてきた獣を視認した彼は槍を左手に素早く握りなおした。

 彼女を小脇に抱えながら、男は獣を槍でいともたやすく薙ぎ払ってから、ゆっくりとこちらを見上げた。


「今、見たこと、そっくりそのまま忘れてくれる? それができるなら、逃がしてあげる。 どうする?」


 俺も真規も桂も一も二もなく大きく頷いた。

 来いと男に言われて、すぐさま彼のそばに駆け寄っていく。

 近くに寄ってみると男は長身だが、それほどまでにがっちりした体型ではなく、いわゆるモデル体型という奴すぎて、苦笑いしてしまう。

 袖口から覗いている長い腕には蔦がからまっているような紺色のタトゥーがあった。手首には深い赤の組紐が結ばれている。黒の外套の下から覗いている羽織の色も少女と同様だが、彼の裾にだけ金糸で何かの紋様が丁寧に縫われている。

 よいしょと掛け声がもれて、彼が意識のない少女を抱えなおした。小脇に抱えられたままで少女からは寝息が聞こえている。

「この状態で眠れるのか……」

 俺のつぶやきに、彼は乾いた笑い声をもらした。

 状況に驚きはしたが、近くで見れば見るほどに、恐ろしいほど美しい造形の彼女の目鼻立ちに俺は思わず息を飲んでしまう。

 俺の様子にいらだった男は舌打ちをして、見るなというように、彼女に仮面をつけてしまった。


「ここから逃がしはするけど、そっから先は自分らで何とかして。 僕にも守備範囲いうもんがある。 本来、これは管轄外。 悪くおもわんでよ?」


 男の声色がどこか優しく感じて、俺は思わず見上げてしまった。

 直人に抱いた感覚とはまったくの別の感覚だ。

 男の仮面の下にある顔がみたいと純粋に思っている自分自身に戸惑った。

 俺の様子に、わずかに彼は小首を傾げるが、ちょっとだけ預かっててくれと少女の身体を俺に渡してきた。


「手を出したくなかったんだけどな」


 彼は槍を片手に無数の獣たちを相手取り、薙ぎ払っていく。

 少女の闘いっぷりでも圧巻だったのに、それを軽く超越している。

 震える。

 身体中の血が喜んでいる。

 すごいという感覚以上の感覚だ。

 一定の数を減らした彼は来いと手招きして、道を開いてくれた。

 尊敬に値する男なのだけれど、少女の抱え方に問題があると思ってしまった。

 小脇に抱えていた少女を今度は肩の上にまるでタオルかというようにひっかけている。すやすやと眠ったままの少女の寝息はどう抱えられても一切乱れない。この少女にとって、彼は安心の最上級の相手と言うことだろう。

 行くぞと彼を先頭に駆け抜けていく。

 ビル裏にある壊れかけた非常口をこじ開けて、海浜公園へ続く道へと飛び出した。

 

「とにかく遠くへ逃げて。 次はもう助けられない」


 早く走ってと彼は俺達3人の背を押してくれた。

 数秒後、振り返るなと言われても無理だろうと思うほどの大爆音が背後でして、振り返った。

 すると、助けてくれた彼ともう一人いる長身の誰かがつばぜり合いをはじめているではないか。

 彼に襲い掛かっている奴は全身白装束だ。手にしている獲物も違う。

 槍と日本刀でのつばぜり合いが続いている。

 黒装束の彼が少女を背負っている分、押されている。

 だけれど、黒装束の男は退こうとはしない。

 

「ちょっと待って……。 このまま逃げて良いのか?」


 自然と足が止まってしまう。

 真規と桂が駄目だと腕をひっぱってくるが、俺はかぶりを振った。

 何ができるわけでもないのに、どうしてもここに残りたがっている自分がいるのかわからない。

 ひょいと肩にのぼってきていた小次郎が頬ずりをしてくれる。


『間違いじゃないよ、新』


 そうだよなと小次郎の額を指でくすぐる。

 彼は俺の人生において出逢わなければならなかったその人だ。

 本能が知っているのだと思う。

 陽の下でなく、夜明けよりも手前でしか逢えない人のはず。

 なぞなぞはきっとまだ解けないかもしれない。

 でも心が戻れと言う。

 身体が戻れと叫ぶ。

 

「足手まといになるだけだ。 余計なことをしてくれるな」


 耳元で少女の声がした瞬間、黒い何かがすぐ真横を駆け抜けていく。


「今すぐに視界から消えて」


 冷め切った声には怒りがはらんでいた。

 少女の声がどことなく神経質そうな声だと思って、はっと我に返った。

 急激なブレーキがかかり、戻ろうとしていた足が止まる。

 助けてくれた彼同様の黒装束を纏った少女が槍を片手に白装束に襲い掛かっていく。割って入った少女の手には白銀の槍が握られており、激しい金属音と火花が散っている。

 攻撃を除ける際に敵の刃が黒いフードを裂き、炎のように紅い髪が零れ落ちた。

 柔らかそうな波打った赤い長い髪が背中にこぼれおちる。

 ふいにその仮面が地に落ち、頬に赤い筋が走っている。

 

「もういい!」


 赤い髪の少女の襟首をつかんだ男が後方にさげ、眠ったままの黒髪の少女の身体を押し付ける。


「退がっていて」


 ガチャリと金属をはずす音がして、黒いフードをぬいだ彼の髪がゆったりと背に流れ落ちる。

 真夜中の暗闇よりもさらに深淵を思わせる針金のような長い髪。

 仮面をはずした彼の瞳の色は混じりけのないアンバー。

 隠された方の瞳の色は眼帯に邪魔されており、わからない。

 どこか中世的な印象を与える表情の作り方をしているが、目鼻立ちはすっきりしており、どこからどう見ても男前の最上級だ。真規が一番男前だとおもっていたけれど、世界は広いことを認識した。


「警告する。 今ここで退くなら見逃しても良い」


 彼は槍の刃で指を切りつけてから、相手に向かって柔らかく笑んだ。

 相手が退こうとしないのをみて、軽く舌打ちをした彼はすっと唇に己の血を塗りはじめた。

 

「まだ夜の帳はおりていない。 陽の下でやりあうつもりはないんだけどな……」


 優雅な指先の動きは宙に何かを描いているようだ。

 彼が右の拳をぐっとにぎりしめると同時に、地響きがした。大地震が来る前のような身の毛がよだつような音だ。


「仕方がないか」


 ポトリと足元に血が零れ落ちると、彼の足元が一気に黒い沼に変わった。

 黒い沼の水は粘稠性があり、彼を求めるように伸ばされている手のようにも見える。彼はそれに目をやると、薄く形の良い唇を片方だけ釣り上げた。


「もう一度だけ警告する。 ここで退くことをすすめる」


 彼の温度のない声色がして、黒い手は白装束の相手へと向かって今まさに伸びようとしている。

 ちらりと白装束の者が俺の方を見た気がした。

 ぞっとするほどの殺気がこちらへ届いた。

 足手まといになると言った赤い髪の少女の声がリフレインして、俺はその場に背を向けた。


「ごめん、走る!」


 真規と桂がうんと言って、一緒にその場を後にした。

 あの場に残ることが彼らの邪魔になるとようやく悟った。

 走って、走って、走り続けた。

 15分以上走り続けて、真規がぽつりとつぶやいた。


「どこまで逃げたらセーフ?」


 ゆったりとした足取りになり、3人そろって呼吸を整えた。

 スマホを取り出してみると、伯父の静から42件も履歴が残されていた。

 かけなおしてみると、1コールもしたかというくらい迅速につながった。


『新! どこにおんねん!?』


 スピーカーにしなくても聴こえるほどの大声に苦笑いだ。

 桂と真規はアスファルトの上に座り込んでこちらをみている。


「逃げ切ったところだよ……」


 俺はそれだけしか答えることができなかった。

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